D2.本と水死体
僕達が疲れを癒していた昼下がり、商店街が慌ただしくなった。といっても、先に起きて本を読んでいた美佐江の主観であり、僕と部筑はいつもと代わり映えのないように思えた。
二階からの景色は、博物館に展示されているようなミニチュアの商店街だった。あえて時代に逆行し、古き良き時代をそのまま真空パックさせている感じだ。ここら辺を仕切っている市長の狙いなのかもしれない。
屋台に似た飲み屋『モダン酒場』の周りに人だかりが出来ていた。僕らを除いて六人、美佐江を先頭に、僕達も加わった。おでんの煮えた匂いが鼻孔を擽り、人だかりを掻きわけて食べまくりたい衝動があった。が、財布の中身はとことんさびしくなっていて、好き勝手に注文できる状況じゃないのも知っていた。
「おじさん、どうしたの?」
肩をポンポンと叩かれた浅黒いおじさんは、振り返り、ニヤついた。
「おー美佐江ちゃんかい? 旅行はどうだった?」
呑気だった。そして視線が集中してくる。僕らは飲みに来たわけではなかったので、手持無沙汰になった。ただ、集まっている人達も、昼間から飲んでいるわけでもなさそうだ。
「楽しかったよ。それより、皆で集まっているけど、どうしたの?」
誰かが話し出すのを待っているのだろうか。皆、一様に顔を見合わせた。
「邪魔でしたら、俺達席を外しますが」
部筑は言い、僕は頷いた。美佐江と目があった割烹着を着ている初老の店主が口を開いた。
「阿武隈川の下流を知っているかい?」
「うん。そこの川から合流している川でしょ。下流だから、海に近いのかな」
「ああ。そこでな――その」
言葉を濁す。美佐江に肩を叩かれたおじさんは、頭を垂れた。他の数人もそれに倣った。
「……水死体が見つかったんだよ」
「えっ?」
「水死体だよ。水死体。首に縄が巻かれていてよ。縄の片方には本を束ねていたってんだから、気味が悪いったらありゃしない」
肺のあたりがピクリと動いた。昨晩、河川敷で釣りをしていた人に発見されていた。部筑は顎に手を置いてから、
「つまり、束ねていた本の重量を使って殺害されたってことですか?」と、冷静だった。
「さあな。詳しくは知らねえんだ」
店主の話では、発見された場所の水域は数メートルではきかないとのことだ。水底に束ねていた本が置かれていて、浮かんできたであろう水死体は、その重量でエビぞっていたらしい。
「充分詳しい情報かと思いますが?」
あから様に探るような目を向ける部筑はきっと疑っているのだろう。店主か、若しくはここに集まっている人達全員を。
「急に神奈川県警の人が来るものだからな。教えてもらったんだよ。知っている情報があったら教えてほしいなんて言うもんだから、あれはたまげた」
昨晩、警察が商店街を巡回していたのはそのためだったのか。僕なりの点と線がつながった。
「聞いてくるってことは、水死体の身元が判明しているんですね?」
店主は首を傾げた。僕も部筑の聞こうとしている意図がさっぱりわからなかった。それを見越していたのか、部筑はつづけた。
「昨晩起こった事件だというのに、商店街で聞き込みをしている。阿武隈川の下流なら、周辺から聞き込みを開始していくのが普通でしょう?」
美佐江はここから阿武隈川の下流まで五キロぐらい離れていると補足した。
「いや、身元は聞いていないな。この川と合流しているから、捜査は上流へと辿ってきたんだろ」
「でも、そこの川か、さらに上流のところから人が流されてくるのは、どうしても考えづらいです」
「そうね。合流した場所だったら深さもあるし、流れも速いけど、そこの川なら子供だって流されそうにない」
美佐江の大きな瞳は店主をとらえた。
「あの流れと水嵩で人が流されるのは無理があるかな……」
どうも腑に落ちなかった。神奈川県警が捜査協力を依頼してきたとはいえ、一般人にそこまで詳細にしゃべるのだろうか。
「本当のことをしゃべってください」
部筑が力強く言うと、一同は黙り込んだ。まるで口合わせをしていたかのようでもあった。
魚屋を営んでいる、髪の毛をピカピカになるまで剃ったおじさんが威勢のいい声で客引きをする声が聞こえてきた。
美佐江は首を百八十度にふった。
「ねえ、五郎さんは? ちょっと用事があるの」
「五郎さんは昨晩釣りに行ってから……あっ」
厚化粧で酒焼けした声おばさんは慌てて自らの口を塞いだが、遅かった。
「何か隠していますね?」
「なんで君たちに詮索されなくてはいけないんだ? え?」
「ごめんなさい」
店主が声を荒げたのを、美佐江が弱々しい声で謝った。すると、店主は後頭部を掻いた。
「いや……参ったな。その……美佐江ちゃんに言ったんじゃねえんだ」
「実は私の本が盗まれていたんです」
「そこのかい?」
と言って、店主は『密造書展』を指さした。
美佐江は数冊の本が川に捨てられていたことも含め包み隠さずしゃべった。驚いている顔を伺いながらも犯人に心あたりがないかを質問した。
「もしや」
汚れが目立つ紺色の帽子を被ったおじさんが口を開いた。
「どうしたんだい、ともさん?」
「先日な、泥棒が入ったかと思って連絡したんだよ。前日には開いてなかった二階の窓が開いてて。そんときは連絡先の書かれていた張り紙があってな。ええと……」
ともさんは、なかなか出てこない記憶をごまかすように顎へ手を置いた。
「部筑という名前ではありませんでしたか?」
「そうそう、確かそんな名前だったような気がするな。電話に出たのが美佐江ちゃんじゃなかったから、びっくりしたよ」
まあ、張り紙の連絡先に見知らぬ男が出たのだからわからなくもない。対応の悪さに、電車内で散々愚痴られていたのはつらかったけど。
「部筑は俺です」
美佐江の家賃を受け取るはずだった五郎さんは、仕事後にふらりと釣りに出かける趣味を持っている。と言ったのは、ともさんだった。帽子のつばを後ろに傾け、咳払いをした。
「第一発見者は五郎さんだった」
そこで店主にバトンタッチした。朝の六時までやっている『モダン酒場』、明朝の午前一時頃にやってきた五郎さんの様子はいつもと違ったらしい。憔悴していて、心ここにあらずの状態だった。
五郎さんは川で釣った魚をこの店に持ってきて調理してもらう日もあったが、その日は釣りに行っていたと言いながら収穫はゼロだった。ただ、釣れない日の方が多く、いちいち気にする人でもなかったから、別の悩みがあったのだろうと思っていた。
五郎さんは相手に分らない程度に何やら呟き、ひらすら日本酒を飲んでいた。徳利を持つ手が震えていて、その飲むペースを見兼ねた店主は止めに入った。
「世の中不景気だろ? 家賃の滞納者で頭を悩ませていたんだと思っていたんだが」
聞いた美佐江が、顔を強張らせたのを見逃さなかった。
「五郎さんがかい?」
口を滑らせたおばさんが入りこんできた。
「それはない、ない。家賃の滞納者には怒鳴り込みにいく人だよ。私なんて、一ヶ月滞納しただけで大変だったんだよ」
どうやら、商店街でスナックを経営しているママらしい。ついでに、宣伝を掛けてきた。
「あんた達も今度遊びにおいで」
宣伝乙という言葉をぐっと堪えたら、店の名前に連絡先が書いてあるマッチを渡された。僕は曖昧に応えた。
「まあ、そうだわな。んで、呂律が回らなくなってきた状態で、言いだしたんだよ。人が川に浮いているところを見たってな。もう、泣きだしそうだったな。俺は人が流されていたのかって聞いたよ。そしたら五郎さんは警察へ連絡した。ここの住所は俺が教えたんだけどな」
「直ぐに通報しなかったんですね?」
「怖かったんだろうな。信じたくなかったのかもしれんしよ」
「五郎さんはいつごろ戻ってくるかわかる?」
「さあ、どうだろうね。わかんねえや」
「じゃあ、戻ってきたら連絡するよう伝えて。連絡先は知っているでしょ?」
「わかったけどよ、美佐江ちゃんはなんで五郎さんに用があるんだい?」
「家賃の相談なの。三ヶ月分滞納しているから、早く払いたいの」
美佐江の切羽詰まった様子に、店主はわかったから落ちつきなってと宥めた。
「五郎さんは美佐江ちゃんには甘いからね」
そう言ったスナックのママは、二人のやりとりに目を背ける。嫉妬の色を帯びていた。
商店街の人達と別れてから、即座に訊いた。
「さっきの水死体は本に書かれてた?」
美佐江は首を横に降った。
「次はT村で殺人が起こると思っていたから……予想外だった」
「じゃあ、『ブビリオフィリア』通りに犯行をしている者とは別に、殺人事件を犯している人間がいるのかな?」
「まだ他殺と決まっているわけじゃないし」
部筑の言い分も一理ある。殺人事件はごまんと起こっている昨今、いくら近場で起こった事件とはいえ、すべてが『ブビリオフィリア』通りに動いているとは限らない。むしろ万引き犯を狙った殺人事件に便乗した者がいた、と考えるのが自然なのかもしれない。二つの事件とは殺害方法が明らかに異なっているし。
「それに、調べたいことがあるんだ」
部筑は美佐江の顔を見た。
「流された本ね?」
「ああ、これから川を辿っていかないか?」
「いいけどさ。水に浸かっちゃった本は、乾かしてもダメでしょ」
「流された本を見つけたところで、意味があるのかな」
本自体を回収しようとは思っていない。と、部筑は素っ気なかった。
「事件の解決と盗んだ人を捕まえれば許してあげるんだから、これからのことを考えよう」
美佐江に賛成だった。いくら警察より有利な点を持っているとはいえ、事件が本の通りに動いてくれるとは思えない。そもそも、単なる偶然の一致を疑っていた。
「ならまず、被害者の首に巻きつけられていた縄と本を手に入れる方法を考えよう」
「もっと難しくないか?」
「難しいけどやらなくちゃな。美佐江の書斎から投げ出された本が殺人に使われている可能性があるから」
「なぜに、そういう発想になるかな?」
「協力するわ」
美佐江は演技染みた口調で語り始めた。『ブビリオフィリア』に描かれている犯人は、タイトル通り病的な程の書物愛好家らしい。四方の壁をすべて本棚で埋め尽くしている書斎は知り合いや家族さえ立ち入ることは出来なかった。本の貸し借りはもってのほかであり、掃除のために本を移動した日には怒り狂ったというエピソードもあった。
裏を返せば、犯人が怒り狂った姿を知り、誰も立ち入ろうともしなかったのだ。
「変わってるな」正直、怖い。とても友達にはなれそうになかった。
「俺はなんとなくその気持ち、わかるな」
「他人の本を平気で舐められる部筑が、わかるわけないだろ」
部筑はチッチッチッと音を立てて舌を鳴らし、人差し指でメトロノームの動きを再現した。
「書籍ソムリエになるには、誰よりも本を愛していないと出来ないのさ」
そう気取っている。本を愛すも何もない。読んだこともないタイトルや、会ったこともない作者の名を言い当てるのは、自己満足にしか思えないのだから。
「五十回ぐらい聞いたかな。で、本の犯人と美佐江を漁った犯人は、何か関係がありそうなの?」
「うん、わたしの本を捨てた憎き犯人が、殺人を犯したかもしれないってことよ」
「違うんじゃないか?」と部筑。
「なぜ?」
「書物愛好家なら、いくら他人の本だって粗末にしないだろ」
「ご名答。わたしの本を捨てた憎き犯人が殺されたかもしれないって考えた方が利口かもね」美佐江はあっけなく、意見を軌道修正した。
「うーん、なんとなくは」
僕は首を傾げた。
「二人は呑気でいいな。俺にはヤバい匂いがプンプンする」
「それは、今始まったことじゃないでしょ?」
「いや、だから聞いてくれ」
美佐江の書斎から無くなったのは本だけじゃない。縄の束ごとなくなっている。水死体が自殺したのか、他殺なのかはまず置いておくとして、もしその二つが使われていたのなら、俺が容疑者になる。というのが部筑の言い分だった。
「そうか! もしそうだったとしたら、縄に残っている指紋でばれちゃうのか――でも、水に浸かっちゃった指紋って、採取できるのかな?」
「さあ」
「採取はできないんじゃない?」僕の問いに、美佐江は曖昧だが答えた。
「どっちでも関係ない。もう一度言うぞ。縄の束ごと無くなっているんだ。俺はその束にこれでもかってぐらいに触れた。そんで、水死体が発見された場所の近くに、縄の束が置かれていたらどうなるか?」
「部筑が容疑者になる」
「わかってもらえたようだな。ただ、物的証拠になりそうなのはもう一つある。美佐江に頼まれて行った古書店は?」
「『限界文芸店』でしょ。わたしは常連客なんだからね」
と、購入して一度も読まれずになくなってしまった事実に、嫌味を込めた。
「はい、姫様、すいませんでした」
大袈裟に謝った。
「あそこの店主とは、美佐江の使いで来ましたって言うと、人が変わったようになり、丁寧に応対してくれた。そのおかげで、二時間ぐらい話しこんだよ。たぶん俺の顔も憶えていると思う。しかも、あの本には『限界文芸店』が販売しているという刻印がされているんだ。それは水につかっても消えないと思う。もし殺人か自殺につかわれているのならば、警察は『限界文芸店』の刻印に目を付けるだろう」
「捜査が進みやすいってことか。哀れだ」
「捕まったら、一度ぐらいは面会に行ってあげるからね」
美佐江は泣きまねをした。
部筑は証拠が残っていそうな現場に顔を出すのはまずいからと慎重になり、第二の事件があった新横浜に向かった。僕と美佐江は商店街の川沿いを下って行き、それと同時に五郎さんからの連絡を待っていた。
「ここまでくると、本が沈んでいるかなんてわからない」
阿武隈川へと合流する地点にある橋の上で、美佐江がそう言った。それまでに何冊かの本は見つかったものの、苦労して拾い上げると、予想通り本は見る影もなくなってしまったものばかりで、乾かしても意味がなさそうだった。
「川も濁っているしね」
僕達は河川敷を歩いた。橋の下で隠れるように煙草を吸っている不良がたむろし、鋭い視線を投げてきたり、ランニングをしているおじさんが追い越していった。
美佐江は河川敷の歩道を隔てた向こう岸にあるところの、川べりの上にある教習所を背伸びして見やった。河川敷の歩道と川の間に伸び放題の草木が茂っていて、彼女の身長では、そうしないとはっきり見えないからだ。車とバイクは互いに道を譲り合い、限られた道路を徐行している。その教習所の敷地から川までの距離はわずかだった。つまり、敷地のすぐ下は川に繋がっていて、こちらの河川敷にある歩道もなく、人が歩けるスペースもない。
「これって意味あるのかな?」
「わからないけど、部筑が捕まったらやばいし」
「けっこう友達想いなんだね」
笑顔を向けてきた美佐江は、僕から目を離さなかった。
「なんだよ、急に?」
「信二って、他人に影響されやすいでしょ?」
「まあ、そうかもしれないかな」
と、曖昧に言った。図星なので、否定するのも無理があったからだ。
「いつもブックの後をおっている感じがする」
「それって、金魚のフン。あいつの真似しようと思っても、出来ないし。結局僕は僕だと思うんだけどな」
「でも、なんだかんだで、事件捜査に協力してくれているでしょ?」
――やっと得た親友を失いたくないから。
本心では思っていても、なかなか言い出せない。
「興味があったからかな。誰にでも協力するわけじゃないからな」
「ありがとう」
美佐江はしっとりした雰囲気を醸し出していた。
歩んできた河川敷の歩道は、目に見える範囲で途切れようとしていた。そこは阿武隈川の下流にあたり、さらに先は港へと繋がっている。川幅は末広がりになっていて、捜査員と思われる紺色の制服に帽子を被った男四人は、夕焼けに照らされながら、黙々と作業をしていた。そのうち二人は捜査の邪魔になるから鎌で刈っているのだろう、現場と思われる地点を中心に、伸び放題だった草木が途切れていた。
僕達は散歩がてらに立ち入った通行人を装い、現場に近づいた。すると、一人の捜査員らしき男が駆け寄ってきた。
「すいませんが、あちらから回り道をお願いします」
男は川べりの上にある住宅街の道路を指さした。
「あ、はい。何かあったんですか」
「ええ、ちょっとした事件がありまして」
事件、と聞いて、はったりをしてみようと考えた。
「事件ですか? もしかして、噂の殺人事件?」
「うそ、あの噂って本当だったの?」
美佐江は口に手を当てた。さり気なく、地元民をアピールする。
「知っていましたか。昨晩、そこの川で水死体が発見されたんです。殺人事件の線で捜査しているところなので、一般の方は立ち入らないようにしてもらっています」
「どうして殺人事件だとわかったんですか?」
興味ある野次馬なら、訊いても可笑しくはない内容だろう。
「はい、状況から判断しました」
「被害者の身元はわかったんですか?」
「申し訳ありませんが、それ以上は言えないんです。事件が判明次第、新聞かテレビで報道されると思いますので、そちらで確認してください」
「わかりました。捜査がんばってください」
僕達はあまり執着すると怪しまれると考え、その場を立ち去った。川べりを登って振り返った。捜査員が鉛筆大くらいになっている。辺りを見回すと、点在した街灯も設えてある。それにより、夜になっても多少の明かりはありそうだ。
「やっぱり、他殺だったんだ」
「決め手があったんだろうね」
「あの分だと、縄が残っていたとしても、回収されているよね?」
「間違いなく」
部筑には悪いが、警察から本や縄を回収することなんて、僕が将来総理大臣になることぐらい難しいと想う。また他殺と断定しているという報告を、午後五時頃、待ち合わせの駅で部筑にした。彼は最初から諦めていたかのような口調である。そして、
「もう、俺達で捕まえるしか方法はないな」
その声は、聞こえて来る電車の音と重なった。
彼が得た情報と言えば、新横浜の現場を観察し、あのロケーションでどうやったら殺人が成立するのか不思議でたまらないという、僕の印象と全く変わらないものだった。
改札口を通った辺りで、書斎が何ものかに荒らされたことと、阿武隈川の事件は父親に話さないでくれと、美佐江は懇願してきた。
「余計な心配をかけたくないの」
僕と部筑はそうするつもりはなかったので、即座に納得した。