D1.書斎にあった本の行方その2
一年前の夏。
単位不足の彼が留年を左右するテストがあった日だった。僕は寝坊した。時計を逆算して考えると、かなり急いでもテスト開始時間には十分は遅れることがわかり、十五分遅れで校門に辿り着いた。足を止めてしまったら大量の汗が噴き出て、いろんなやる気を失いそうな感じを意識していたた。その時、部筑が広場で知らない女性と対面していた。しかも、女性は二人いた。一人はスラリと背の高くて、もう一人は丸顔の古着が似合った女性だ。明らかに、深刻な話をしている様子だった。
それが意味しているものがなんとなくわかっていた。部筑は同時に複数の女性と付き合っていたことを、数週間前の帰り道、他人事のように話してきた。あまりにもぞんざいだったので、その関係を持続出来るとは思えなかった。
僕は部筑の背後に回り込んで近寄った。ひと段落着いていた。静かな口調で話していた女性二人が部筑を見つめた。
――どっちと付き合う気があるの? ――
背の高い女性は、一刻も早く煮え切らない部筑の本心を知りたかったのだろう。ねぇ、を連呼した。
部筑の顎の筋肉が動いた。しかし、発した言葉が聞こえなかった。僕は、さらに距離を詰めた。背の高い女性は強張った表情を崩さず、
――あなたは何が大切なの? ――
――本――
部筑はっきり言った。彼女らは流石にたじろぐ。ところが、そんな突拍子もない回答で、女性が納得するはずもなく、怒りの度合いは増すばかりだった。
女性を応援したくなっていたのだと思う。恋愛経験が殆どなかった僕にとっては彼の境遇は恵まれ過ぎていた。その後の展開が知りたくて胸が躍った。
ふと、僕を追い越していく姿があった。部屋に漂っている匂いをまとった美佐江だった。
――修羅場中にごめんね――
――誰? あんた――
女を忘れたかのようなしかめっ面だ。二人は部筑と深い関係を持っている、新たなる女性だと思ったに違いなかった。
――関係ないでしょ。てかさ、彼はあなた達を、付き合っていると思っていないよ――
――わかった口、聞かないでよ――
――はあ――
丸顔の女性も、穏やかではなかった。
まだわからないの? と、美佐江は目を見開いた。
――体の関係が持ちたかっただけ。遊びよ。そういう男だから――
部筑は否定も肯定もしなかった。今思えば美佐江は彼の本心を代弁していたのだろう。女性と本気で付き合うような性格を持ち合わせていないからだ。二人は『最低』とか『信じられない』と言い残し、その場を去った。
それから、部筑の噂が広まった。つるんでいる僕にも波及していった。アダルトDVDを購入しているところを携帯のカメラで激写され、その画像がネットに載せられた。ぐらいならまだ良かったのだが、あらぬ噂まであった。
友達として浮気は良くないと忠告しておけば、少しは事態が丸く収まったのかもしれない。しかし、月並みな忠告で彼を白けさせるのが怖かったのだ。
まさか、大学生にもなって、いじめがあるとは信じられなかった。そして、瞬く間に友達を失った。大学時代の友達なんて、何かあれば壊れてしまうものだと思えるほど強くなかった僕は、一時空に閉じこもるようになった。この平和な世の中に、自分が含まれていないように思えた。
しかし、美佐江は選挙前の議員が街頭演説をするように、大学の広場で噂の撤回を呼び掛けた。色眼鏡で観察していた者も、少しずつ受け入れていき、交友関係の芯にある亀裂は戻らなかったものの、ぎくしゃくした空気は正常に戻った。つまり、美佐江を怒らせて絶交なんて言われた日には、僕らの大学生活が壊れてしまうのだ。
回想を打ち破ったのは僕達を呼ぶ声で、二階にあがった。
美佐江はスウェット姿で正座していた。訊きたいことは四つある。
一つ目は失踪した知り合いの行方。
二つ目は新横浜で会ったときに話そうとしていた内容。
三つ目は報道される前に事件現場近くにいた理由。
そして先ほど浮かび上がった警察よりも早く事件を解決しなくちゃいけない理由だ。いや、まだあった。ストーカーのこと。
なるべく彼女の機嫌を損ねないようと考え、一つ目を選んだ。
「前に公園で話してくれたことあったでしょ?」
「カメレオンの話ね」――いや、失踪した知り合いの話だよ。
と言おうとしたが、美佐江はカメレオンクイズに不正解だった僕の話をしはじめた。
「どうせ知りませんでしたから」と、すねる。
「カメレオンの死んだときの状態を知っていたわたしとブックが警察だとしたら、知らなかった信二は今のわたし達なの」
「例えているの?」
その問いに、美佐江が面倒くさそうに答えた。
「少なくとも警察は報道されている内容以上に事件のことを知っている。捜査も進んでいるはずだからね。その点では報道でしか情報を知らないわたし達は不利なの」
まさか僕らのやりとりを棚に上げてくるとは思わなかった。
「美佐江はわたし達の事件かもしれないって言ったよね?」
「うん。恐らくわたし達の事件ね」
「全然、意味がわかないよ。それなら直ぐにでも解決しないとヤバいはずじゃないの? 海外旅行に出かけている暇もないぐらいだと思うんだけど」
しゃべって、いきなり後悔した。機嫌を損ねないようにと考えていた矢先の失言である。泳いだ視線は何食わぬ顔をした部筑を捉えた。フォローしてくれそうにない。
しかし、意外な答えが用意されていた。
「スリランカに行ったのは、失踪した知り合いがいないか確かめたかったからよ」
「へっ?」
驚いたのは、僕だけだった。部筑はある程度の事情を知っていたようだ。
「カメレオンが死んだときの様子を教えてくれたのは、失踪した知り合いなの。あの子は大学で動物学を専攻にしていたから。スリランカはカメレオンが生き生きと生活できる場所だし」
「スリランカに行ったら、失踪した知り合いがいるんじゃないかと思ったのか?」
美佐江は当然のように頷く。スリランカがいったいどれ程広くて、探すのが困難なのか知っているのだろうか。ただ、部筑と同じく思い立ったら即行動の彼女だ。僕の価値観をぶつけてみても、あまり効果はないはず。
話の発端は、部筑に失踪した子の相談をしたときだったらしい。カメレオンと聞いた彼は中学生の思い出を話した。英語の教科書に掲載されていたスリランカの子供の顔が、彼にそっくりであることから、スリランカ人のハーフだとからかわれていた。
「真剣に話をしているんだからって、それを話して怒られた時は冷や冷やしたけどな。その後、スリランカはカメレオンの生息地で有名だって教えたら、つぎの日には飛行機で飛んで行ったから」
「見つからなかったけどね」
美佐江は瞳を閉じる。
「まあさ、ストーカー駆除にはよかったんじゃないか? 美佐江が旅行にいっている間に、俺が住んでいるところを目撃していれば、もう来なくなるでしょ」
「怪しい男でもいたの?」
「……いや」
ストーカーのことにはあまり関心がないようだ。
「わたし達が警察よりも有利な点もあるの。コーヒーを入れたら話すから待ってて」
丸いテーブルに乗っているコーヒーと、それを囲んだ僕達。すっかりくつろいでしまい、ちっとも話そうとしない美佐江に痺れを切らせた。
「新横浜にいたのってさ」僕が一番訊きたかったことだ。
「あれはね。旅行前に寄ったの。信二に会えるとは思わなかったけど」
「いや、それはわかる」
「万引き犯が殺される場所を知っていたの」
肺が収縮する。ひどく息苦しく、呼吸も忘れていた。
「……知っていたって。まさか……」
美佐江の表情はぼんやりしていた。どこか遠くを見ているか、あるいは何も見えなくなったかのように。しばらくしてから言った。
「犯人は、わたしじゃないよ」
「犯罪予告があったとか?」部筑が訊いた。
「予告通りね。犯人は物語を忠実に再現しているだけなの」
「その物語って?」
「『ブビリオフィリア』。T村で探していたんでしょ?」
美佐江は大きな瞳で部筑を見つめる。
「うん――そうだけど」
「次はT村で殺人が起こる。間違いないわ。それがわたし達の有利な点」
美佐江は悪戯を思いついた子供がするような含み笑いをした。
あり得ない現実を目の当たりにすると、話しの範疇であれ、強張った体を通り越して眩暈がやってくると実感した。新横浜で美佐江が話したかったのは、事件捜査の協力だった。なんとなく予想はしていたものの、意気消沈していたのも事実だ。確かに新横浜駅の雑踏ではしゃべれない内容でもある。
『ブビリオフィリア』が手元にない。読んだことがあるのは美佐江の父親で、この事件に関心を持ち始めたのが彼だとなれば、話は簡単だった。
「父親に会わせてくれないか?」
美佐江は膝を崩した。
「別にいいけど。かしこまらないでよ」
「ヒントが『ブビリオフィリア』にあるんだとしたら、その方法しかないんだ」
「ブックに聞いたのね?」
「俺は、殆ど伝授したよ」
「話がはやいね」
美佐江は五郎さんという大家に家賃を払わないとやばい、と言い眠りについた。三人で川の字になって寝る。随分と久しぶりの睡眠だったような気がした。