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D.書斎にあった本の行方その1

 駅から商店街までのアスファルトには雨の降った跡があり、オレンジ色に染まっていた。そこから微かに放たれる、雨の乾いた匂いがした。泥棒の知らせを受け、帰ってきたのは十六時過ぎだった。部筑の携帯電話が書かれた張り紙、入口は施錠されたままになっている。

「あれ……」

 僕が頭上を指刺す。二階の窓が開いていた。

「畜生。あそこから侵入したのか……」

『密造書展』の一階と二階の間は平面の外壁になっているので、向かいのシャッターの閉まっている店から、窓際に飛び移ったとは考えづらい。となると、梯子を使わないと無理な高さだ。

「入ってみよう」

 中央の棚にあった片面の本が、ごっそり消えていた。僕達は立ち止まり、茫然とした。

「盗まれたとしたら、これだけの本を持って、二階から逃げたのかな?」

「無理だな。本が消えたとしか思えない」

「ありえないって」

「じゃあ、どうやったと思う?」

 ざっくり見積もっても、消えた本は数百冊ぐらいあるだろう。

「わからない。二階も確認してみよう」

 書斎の奥にある木製の階段を登った。二階は一Kの間取りで、仄かに香水の香りが漂いる。

「荒らされている形跡はない」

 敷きっぱなしの蒲団、それを見下ろしている箪笥やら押入れやらを覗いてから、部筑が言った。彼は下着類があっても躊躇いがない。ひらりとレースのパンツを摘まみ、僕に向けてきた。

「どこも昨日のままだ。変態の仕業ではなさそうだ」

「……変態はお前だろ。仕舞えよ」

「ひどいな」部筑はその場に座り込んだ。入り込んでくる冷気を遮断するのに、窓に手をかけようとした。

「触るな!」

 手は、窓の寸前で止まった。

「いきなり大きな声だすなよ」

 振り返った。

「犯人の指紋が残っているかもしれないんだ。閉めるのなら、手袋をして、外から触れられない箇所を持つんだ。いいな?」

「……了解」

 僕は美佐江のクローゼットから、毛糸の手袋を取り出して、窓をしめた。

「部筑は触れてないの? T村に行く前とか」

「触れてない。ずっと閉め切っていたからな。窓の鍵が開いていたのも知らなかったし」

「そうか」

「無くなったのは、本だけか……」

 それは、お金を盗まれるよりまずいことを意味する。もちろん、部筑も承知していた。以前、ゼミで一緒だった男が、常に本を読んでいる美佐江をこう形容していた。

――美人なのに、活字中毒なんて勿体ないよな――

 彼にとって、男らしい、女らしいと同列に、美人らしい、若しくは美人はこうあるべきという美学があったのだろう。僕は賛成も反対もしなかった。もし恋人がそう思っていたとしても、彼女は自分の生活スタイルを変えるとは思えない。しかも、美佐江は活字中毒者だけではない。

 新横浜で起こった事件、僕が彼女に疑いを持ったのは、彼女の趣向が背中を押してきたからだと解釈できる。

 美佐江は書物愛者だ。

「美佐江になんて言えばいいんだ」

 泣きそうな声で顔を抑える。報告したときの反応を考えると、とても可愛そうに思えてきた。

 僕は部筑の背中をポンとたたいた。

「事実を話すしかないよ。フォローするから」

「――」

 裏手の戸を開けてみたら、いくつかの本は裏手の河川に捨ててあった。薄いミルクティーのような濁った水にページがめくれ、水中でひらひらと漂った本達がある。たぶん、ハードカバー等の重い本は沈み、軽い文庫本は流されたのだろう。

「……こういうことだったのか」

「川に捨てるなんて」

「夜中になれば、誰も歩いていないからな……」

 虚ろな目を川の流れに向けている。つまり、夜中であれば侵入者がいたとしても、咎める者がいない。そう言いたかったのだ。

「ん? 待てよ」

 部筑は辺りを見回した。そして小さな物置まで確認した後、

「縄もなくなっている」意外な事実を知ってしまったかのように言った。

「縄? 何の?」

「本を束ねておいた縄だよ。昨日、信二が来たとき、あっただろ」

 見ただろ? 見せたよな? 執拗に問いかけてきた。

「ああ、クリーム色の縄ね。確か解いて中央の本棚に納めてから、そこらへんに放置していたやつか」

「なくなってる」

「あれなら、東急ハンズとかに売ってそうだから、買っておけばいいでしょ」

「……そうだな」 

「なあ、ストーカーの仕業じゃね? 旅行に出かけているのを知って、忍び込んだとか」

「だから、そんな男は見たことないんだよ」

 部筑は蚊の鳴くような声だ。もうひとつ考えられるのは土地勘のある商店街住人の仕業だ。美佐江を快く思っていない人物がいる。いや、たんに騒動を起こしたかったのか。どちらにしろ、じっと待っているわけにもいかなくなってきた。

 通報してくれた人の名前を聞いていなかったのを、部筑は後悔し始めた。意気消沈している彼をみて、安堵している自分がいた。美佐江が部筑に気があるのであれば、もっと堂々としているはずだから。

 

 僕達は通報もせず、交代で見張りをしていた。事体を大きくしたくなかったからだ。それにこうしていれば、美佐江をストーカーしている奴も見つかるかもしれない。

 仮眠する番になっても眠りがおとずれず、部筑も同じだった。最初は使命感に駆られて張り詰めていたものの、それが二日とつづけば意識が朦朧としてくる。きっと、張り込みをしている刑事や探偵はもっと過酷なのだろう。

『密造書展』の前を歩く人達は、午前一時を境にばったりと消え、午前七時ぐらいからまた現れた。まるで決められた時間を歩く通行人エキストラのようだった。

 昼間は手分けして、『密造書展』に侵入した者を目撃した人を探した。ついでに怪しい男を見かけなかったかも含め。商店街の住人、河川に沿った建物にいる人達、通り過ぎる人達までも捕まえては、逐次説明を加えた。最初は耳を傾けてくれるが、結局誰からもめぼしい証言は得られなかった。

 運悪く警察が商店街を巡回し始めたのをきっかけに、僕達は部屋に籠った。これが商店街に店を持っている者で、僕達が客引きだったら店は潰れていただろう。もっと親身になって話を聞いてもらえる、他人を引き付ける方法はないものか。真剣に考えた。

 次の日、スーツケースとお土産用の紙袋を携え、美佐江が帰国した。『密造書展』の前に立っていたときだった。

「信二も来ていたんだ。目充血しているし」

 美佐江は、大きな目をパリクリさせる。僕はガラス戸に背中を密着させた。

「待っていたよ」

「何で?」

 こっちが聞きたいぐらいだ。

「覚えてないの?」

 頭皮と髪の毛の間に指を入れ、ふわりとさせた美佐江は微笑んだ。

「嘘だって。疲れているんだから話はあと」

「喫茶店でもいかないか? ちいさいのが商店街にあるでしょ」

「そこどいて」

「あ、いや」

 中からガラス戸が開き、転びそうになった。部筑は作り笑いを浮かべている。

「おかえり」

「ただいま。ブックも疲れている顔ね。何かあったの?」

 ブックとは、美佐江がつけた部筑のあだ名だ。ただし、僕がそのあだ名を口にすると、不機嫌になる。

「いろいろあってね」

「調べておいてくれた?」

 彼は曖昧に頷き、自転車で蕎麦の出前をしているような形の手のひらで、足を交差させた。

「まずは中へ入ってください。姫様」

「気持ち悪いし」

 美佐江は書斎を通り過ぎたところで振り返った。鋭い視線が、僕達を突き刺した。

「ねえ、本がないんだけどさ」中央の本棚を顎で示した。部筑は絞り出したような声で口を開いた。

「……実は」

 泥棒にあい、河川に沈んでいる本のことを、慎重に説明した。

「ええええ!」

 耳を塞ぎたくなる悲鳴が響いた。心配になった人が、『密造書展』に駆け寄ってきた。

「すいません。なんでもありませんので」

 と、僕は弁明した。しかし、正確には美佐江が追い返したことになる。

「ちょっと。どういうことなの?」

 静かだが、有無を言わさぬ迫力があった。そこでT村の話をする。角が立たないよう、部筑は若干の脚色を加えていた。

「ごめん」

 美佐江は腕を組んだ。

「部筑も悪気はなかったんだし……」

 その後がつづかない。僅かな間が永遠のようで、飲んだ唾が喉に引っ掛かった。

 美佐江は深い溜息をついた。

「棚にあった本はリストアップしているから、買い揃えてきて」動こうとしている彼女を引きとめた。

「む、無茶だよ」金銭的にも、体力的にも。 

「じゃあ、絶対にこの事件を解決して。そしたら許してあげる」

 この事件とは、万引き犯殺人事件を意味していた。

「えっ? 許してくれるの」頭を垂れていた部筑は、顔を上げ、目を見開いた。嬉しがっているよう だが、どれだけ難題を押しつけられているのかわかっているのだろうか。彼らの膨大な目標を、僕が静観してから現実へと引き戻す。この三人でいると、いつもこんな役目になる。

「絶対、警察よりも早く解決するの。ついでに、わたしの本を川に捨てた犯人も捕まえる」

「……犯人を」僕は床を見つめた。

「でないと、許さないから」

 二人して頷いた。

「でもさ、何で警察より早く解決する必要があるわけ? 美佐江の本を捨てた犯人ならわかるけどさ。殺人事件は僕達が関与するより任せておいた方がいいんじゃない?」

「普通ならね。でも、今回の事件は普通じゃないの」

「どういう意味?」

「わたし達の事件かもしれないから」

 ますますわからなくなってきた。わたし達の事件? 美佐江が事件現場にいたことが関係しているのだろうか。又は、わたし達と表現しているのなら、僕や部筑も関係しているのか。

「よろしく」

「待ってくれ!」

「何よ?」

「二階の窓には触れないでくれ」

 本を捨てた犯人が二階の窓から侵入していた事情を話し、指紋が残っているかもしれないからと、部筑は注意した。

 階段を上がっていく美佐江を見送る。身近な存在だった者が、どんどん遠くへ行ってしまう感覚だ。贔屓にしていたマイナーなバンドが、ブレイクしてしまう寂しさに似て、胸の中が痞えた。しかし、彼女の心が読めないことによる嫉妬が含まれているのも察していたから、軽い口調で、部筑へ耳打ちした。

「て、どうするんだよ?」

「チャンスじゃないか」部筑は満面の笑みで、親指と中指を使ってパチンと鳴らした。

「正直もう終わったかと思ったけど、俺達はついている」

「本気なのか?」

「当たり前だ。もし、美佐江に嫌われたら」

「大学にはいられない」

「その通り」

 部筑が美佐江に頭が上がらない理由は、泥棒の件以外にもあった。


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