C.T村、低雲丘の調査
「よく眠れたようですね」
階段を下りてきた僕達に、鹿野紀子がほほ笑みかけてきた。
「ええ」
若いうちはぐっすり眠れるものですからと賛美されて面映ゆかった。チェックアウトの時間は十時までだったので、後三十分残っていた。
鹿野紀子に送ってもらい、左近字図書館に到着した。到着するまでの間、速度を上げたとき、運転席の下から後部座席の脚置きにするりとプリクラが滑ってきた。映っていたのは鹿野紀子と随分歳の差が離れていそうな男だった。二人は左手を前に突き出し、薬指の指輪を見せつけるようにしていた。
僕はあまり詮索しない方が妥当と考え、いや、見てはいけないものを見てしまった感覚に襲われ、運転席の下にそっと戻した。
左近字図書館は茶色の木目の外観をしていた。森の中をイメージしているのだろう。遠くからだと、山に溶け込んだ図書館として映った。
本館と書かれた建物に入館するなり、受付に座っている同年代ぐらいの男が頭を下げてくる。青白い顔をしている彼の傍で、部筑はこう話しかけてきた。
「この図書館は、本が盗まれてもわからない仕組みだな」
睨まれた。僕は慌てて部筑を連れ書架のある広い部屋へと入った。後ろから咳払いが聞こえる。
「失礼だろ」
「別に、間に受けてくれた方が、彼らのためじゃん」
「ここは万引きするような人がいないんだよ」
「うわー偏見もっているな」
入口で荷物を預けるシステムも、防犯ベルが鳴る機器もない。確かに素通りで出入り可能な図書館だった。
「じゃ、調べるか」
低雲丘についての資料は、階段を上がった二階の奥にあった。地元の資料が並んでいる書架のなかに、タ行の地名にちなんだ本がある。僕は辞書やら百科事典を手元に置き、本を開いた。発行年が一九八五年だから、二五年前になる。僕が生まれる三年前だ。
名前の由来:冬の季節、木々の枝に付着した霧氷が雪と重なって雲のようになる。丘からの景色が、雲の近くに立っていると錯覚したことから、低雲丘と名づけられた。
霧氷は霧のいたずらというふうに、一夜にして山に花を咲かせる冬桜。霧が零度以下に冷やされ、水蒸気のまま流されてきたときに発生する。木の枝や岩にぶつかった瞬間、その刺激で過冷却の水蒸気が個体、すなわち氷片になる。
歴史:二百年以上も前から存在していたと、文献に記されている。七十年前まで、村の祭りごとを低雲丘で行っていた。丘の頂上で火を焚き、豊作を願った。一説によれば焚書の儀式もされていた。
すかさず調べた。焚書とは、学問・思想を権力によって弾圧するための手段として、書物を焼き捨てることだった。
次の項目には、儀式の意味について書かれていた。
だが、政治的背景から、その時代に焚書を行っていたとは考えづらい。丘の上で焚書ではなく、使い古した本を燃やす儀式をしていた説が有力である。霧氷の出来やすい環境を整えるためである。燃え盛る本の煙が辺りの樹木を壊死させ、裸の枝のみが残る。裸の枝は低雲丘の光景をより神秘的なものにする。という古くからの言い伝えがあった。
ここまで調べて、部筑の様子を見に行くことにした。彼は文芸書のコーナーをうろうろしながら、何やら呟いている。その表情は決して収穫があったようには思えなかった。
「見つかったか?」彼の耳元でささやいた。
「外に出よう。作戦会議だ」
建物の脇に喫煙スペースがあり、自転車が止めてある駐輪所と併用だった。その数からするに、図書館職員は自転車通勤を義務付けられているのかもしれない。部筑はマウンテンバイクに跨り、両足をペダルに置いた。
「全然だめだ。図書館員に内容を説明しても、取り合ってくれない」
担当したのは女性の職員らしい。眼鏡をかけているおばさんと聞いて、さっき貸出本の返却を承っていた人が思い浮かんだ。
「書架の本をすべて読んだ人のみが採用されていたら、そんな逸材、日本中探してもいないでしょ」 皮肉を交えてから、
「検索かければ出て来るのでは?」
バランスを崩した部筑は、舌うちをした。
「検索用のパソコンがないんだよ。修理に出しているとかでさ。ありえなくないか?」
利用客が使える検索のパソコンが一台しか存在しないと言うのだ。左近字図書館の客数を見れば、それだけで事足りるのかもしれないが。
「『ビブリオフィリア』を職員の頭で検索してもらって、本図書館にはありませんって、はっきり言われたし」
「国立図書館にいかないとないのかもな」
「そうそう。まったく、どうなっているんだよ」
部筑は肩をすくめる。
「地元を舞台にしているんだぜ? 本は地域貢献しているのに、地域が本に貢献していないなんて、ひどくね?」
「だから~卑下するわけじゃないけどさ、自費出版だし」
そう、国立図書館の書庫でさえ、自費出版をすべて置いているとは限らない。
「読んでいる奴なんていない、か……」
部筑は、目を細めた。
調べた結果を話した。彼は上の空で聞いている。
「これでわかった?」
「書いてある内容があやふやだな。どれを信じていいものやら」
「詳しい人がいたら、聞いてみようか?」
「探しておいてくれ」
「鹿野さんぐらいかな。あの人の伝手があれば」
部筑は自らの思考で忙しそうだった。
「どうせだから、少し読書でもしていこうか?」
他にどんな本が並んでいるか、興味があった。
「俺はもう少し調べてみる」
T村関連の歴史を辿る作業だ。別館に資料室があるらしい。
僕らが入館すると、アポイントを取った客を待ちわびていたかのように、眼鏡をかけているおばさんが声をかけてきた。名札には加藤の文字がある。
「あの、すいません」
「あっ」
部筑は声が裏返っていた。ついでに後ずさりしている姿から、僕達のやり取りを聞かれたと思っているのだろう。
「調べてみたのですけど、小説『ビブリオフィリア』は貸出中になっていました」
「なんですって!」
部筑は態度を急変させた。ネット検索で左近字図書館の書籍データベースを調べれば、『ビブリオフィリア』はあることもわかる。そんなオチだった。
「いつ?」
加藤に詰め寄る。受付の男が心配そうに見守っていた。
「ええ、五日ほど前になります」
「返却予定は?」
「当館は貸出期間を一週間としていますので、普通なら二日後です」
「その人の名前は?」
「個人情報ですので、お教えするわけにはいかないのです」
貸出するには、T村か、その周辺の住人である証明が必要だと、受付の張り紙に書かれていた。
「返却されたら、連絡ください」
部筑は一方的に携帯電話の番号を教えた。それとなく聞いていた受付の男がメモを取っている。
「あの、予約は出来ない規則になっていますけど、宜しいでしょうか?」
「ダメです。貸出してくれって頼んでいるわけではないんです。あの本がどうしても必要なんです」
部筑から顔を背けた加藤は、受付の男に視線を送った。彼の唇はチャックで閉められている。
「規則を破ってください」部筑は折れなかった。
「……わかりました」
聞きわけの悪い利用客を、あまり相手にしてこなかったのだろう。その弱々しい対応で可愛そうになってきた。と思ったところで仲裁する言葉も思いつかず、気まずい空気の後、僕は散策した。
背表紙に張られているラベルが、書架に陳列されている。多くの読者によってたらい回しになった本達は、光沢が失われ色が抜け落ちていた。手に取った本に息を吹き駆けると、空気中へと舞い散る埃で顔をしかめた。
「彼らの寿命は」
僕はビクッと、体を動かした。加藤だ。
「扱った人間によって左右されるのです。環境を作り出すのも人間ですから」
ならば、もう少し大切に扱われてもいいんじゃないか。しかし、加藤の表情は、こちらにも事情があるんだと訴えているようにも見えた。
「なるほど」僕は本を戻した。
「何かあったんですか?」
「この地域では、本を修理してくれる場所がありませんから、他の図書館に比べ、廃棄率が高いんです」
胸にしまっておくつもりではあるが、果たして、教えて大丈夫なのかと思うぐらいの内容だ。
「寂しい……ですね」
「はい」
「先程は、友人が失礼してすいませんでした」
「いえ。あなた方のように、本を探そうとしている人は、絶対大切にしてくれます」
「経験上ですか?」
「ええ、そうですよ」
本をテイストするために舐めなければ、部筑は誰よりも本を大切にしますよ。とは返せなかった。この図書館の裏事情をしゃべったのは、部筑の言動が効いていたのだろうか。あるいは、周知されているのか。後者を聞いてみた。
「知っているでしょうね」
トラックの荷台に積まれた本を、定期的に搬送しているとつづける。次々に新しい本が入荷され、古くなった本は去っていく。焚書の歴史が頭を駆け巡った。しかし、それ以上、口に出すのを憚った。まるで、余計なことまでしゃべってしまったかのように。僕はさりげなく話を変えた。
「T村に詳しい人を知りませんか?」
聞き方がまずかった。加藤は余計に疑問を煽られた顔をしている。僕は低雲丘の名前の由来やら歴史を調べている説明をした。
「大学の卒業研究で低雲丘を調べているんです」
加藤はやっと頷いてくれた。
「黒岩さんなら、詳しいよ」
親しみやすい対応になった。本来の加藤だと思い、頬が緩んだ。僕は年上の人に敬語を使われるのが嫌いだった。
「ずっと住んでいらっしゃるんですかね?」
「そう、T村の生き字引よ」
信頼のおける知人を紹介している口調だった。
教えてもらった住所と、地図を照らし合わせた。場所的には、低雲丘に近い。しかも、連絡先まで教えてくれた。
「ありがとうございました」
「研究がんばって。応援しているよ」
僕は照れ笑いを隠すために、頭を下げた。
本館と別館を繋いでいる通路には、縦長の机が置かれていて、その上にパンフレットが並んでいた。左近字図書館の案内が記載されているパンフレットをもらい、別館の地下にある食堂へと向かう。
メールで連絡してから待っている余裕もなかったのだろう。冴えない表情をしていた部筑は、調べた成果はなかったのもあり、出された料理をまずそうに食していた。
「黒岩さんに聞いてみよう」
加藤のアドバイスに従うよう提案した。どの道、宿の予約を入れていなかったので、滞在時間も限られていた。
「納得いかない。どうしても、事件を隠しているとしか思えない」
「なぜ?」
「勘」予め用意していた反応の速さだ。
「でた。全部調べてないのに、それはないでしょ」
「だってそうだろ。平和な村であれば、負の遺産を隠蔽するに決まっている。ましてや人殺し。田舎なら、それが可能だ」
「偏見だな」
だいたい、半自伝的小説の内容が、T村で起こっていると信じて疑わない方が変だ。
「違う」
部筑が何か言おうとしたとき、着信音が鳴った。
「番号非通知って誰だよ」
「いいから出ろよ」
「もしもし、部筑です……あ……はい。……えっ? 開いている?」
彼は電話を持ち替えた。みるみる表情が強張っていく。その様子から、良い知らせでないことだけはわかった。
「今、Z県のT村にいるんです。これからすぐに戻りますので。それまで見張っていてくれませんか。……三時間か四時間ぐらい……お願いしますよ~」と頭を下げる。
「あっ、切りやがった。くそ」ディスプレイに悪態をついた。電話をかけ直すか迷っている。しかし、番号非通知であったのを思い出したようだ。
「どうした?」
「『密造書展』に泥棒が入ったらしい」
コップの水を飲み干してから、部筑はそうささやいてきた。
「はっ? 泥棒って、いつ?」
「知らん。さっき見つけたらしいから、昨日の深夜か今日の早朝だろう」
「そうか。僕らが出たのは、昨日の昼ごろだし」
――てか、それしかないし。
「戸締りしたのかよ?」
「信二も見ていただろ」
「入口は、な」
「帰るぞ」
タクシーを呼び、駅へと向かった。