B2.本をパクって旅に出てみた
今日宿泊する旅館に到着するのが予定より遅れていた。旅館は『希林寿』という名だ。T村に存在するたったひとつの旅館でもあり、帰り道になってからそれを言い出すのもどうかと思ったが、この旅はすべて部筑にまかせっきりだったので、あまり文句は言えなかった。
部筑が携帯電話で連絡すると、旅館の管理人がバス停まで迎えに来てくれることになった。
「おい。女性の声だったぞぅ」興奮している。電話をしている最中のガッツポーズはそのせいだ。
「別に、珍しくないだろ?」
「無関心を装おっても、嬉しさがにじみ出ているぞ」
確かに、嬉しいことは嬉しい。
「まあ、男だからな」
「期待しておいて、がっかりしても態度に出すなよ」
部筑の方が心配である。彼は思ったことを口出すのに躊躇いがないからだ。
バス亭で足踏みをしながら待っていた僕達は、坂を登ってきたバンのフロントライトに照らされた。目を背ける前に光が消える。黒髪を後ろで束ね、体は華奢でも丸顔の、綺麗なおねえさんが車体から降りてきた。
「鹿野紀子と申します」
優しい声で言う。丁寧だったので、僕も企業面接でやったような自己紹介をした。
相当、急いできたのだろう。化粧っ気がなく、エプロンの上からダウンコートを着ていた。
「そう、低雲丘を見ていらしたのですね」
上がった頬に下がった瞼で、いかにも幸福を呼んできそうな頬笑みだ。
「以前は名所だったんですよ。低雲丘を訪れに、北海道から来られたお客様もいました」
「今も有名です」
部筑は写真集の話をした。ただ、綺麗なころの写真ですよ、と言った瞬間に後悔した表情になる。そのタイミングで、冷たい風が吹いてきたので、車内に入るよう誘われた。
「後ろ狭くてごめんなさいね」
幅を利かせていたのは、段ボールだった。青野菜の香りが漂っていて、奥の方にはカバーの掛けられた鎌まであった。
「収穫とかしているんですか?」
「はい」マニュアル仕様のバンを手際よく発進させてから、
「近くの田んぼでは米を収穫していますし、山菜の採取だってしていますよ」
ハンドルを握っている左手に結婚指輪がはめられていた。詮索するようで、家族で旅館を経営しているのかは聞けなかった。
「へぇ。自給自足ですね」
「近辺の村では、自給自足が生きがいになっている人ばかりなんです」
と、鹿野紀子は楽しそうに住人の話しを始めた。
エンジン音がお腹に響いてくる後部座席で、二人の後頭部を眺めていた。
「もう少し早く来れば良かったです」部筑は夜の景色を見ながらそう言った。
「あまり見られませんでしたか?」
鹿野紀子は顔色を伺っているようだ。
「俺らが来たときは日が暮れていましたから、あまり」
鹿野紀子の、少々困った顔がバックミラーに映った。
「宜しければ、明日、またお送りしますよ」
「いえ。明日は調べたいことがあるので」部筑はあっさり否定した。
山を下りていくと、バスで辿ってきた道をそれた。十分位走っただろうか。右手側に光を放つ小学校ぐらいの大きさはある建物が見えた。
「あれって地元の小学校ですか?」
「会社なんですよ」
鹿野紀子はバンの速度を緩め、門の前で停車させた。『㈱エコノミーテクノ』と立派な広告塔があり建物に繋がっている。建物の周りは広範囲に渡り森林が刈り取られていて、人工芝が敷き詰められていた。
「確か環境開発をしているとかで、けっこう新しいのですよ」
「へぇ~」
「建設するのにあたって、村民とは揉めたのですが、村長の伯父が経営しているものですから、しようがなかったみたいで」
建物の横に倉庫のようなものがあり、待っていたら、シャッターが半分まで開いた。その中は丸太や加工された木材で一杯になっていて、業務用のトラックらしき大型自動車が出てきた。
「環境開発するのに環境破壊か。なんだか矛盾しているな」
「ですよね」
海沿いの大通りからわき道に入り、磯の香りが薄くなったところで『希林寿』の外観が露わになった。二階建ての平屋で、一戸建ての家を大きくした感じの旅館である。入口の上は横長のバルコニーになっていて、二階の各部屋に通じているのだろう、等間隔に木板で仕切られている。その外側にオレンジ色に光ったちょうちんが並び、丁寧に刈り込まれた庭園には小さな池があった。
「お疲れさまでした。直ぐに夕食を用意しますので、部屋でお待ちください」
一階は浴場と食堂があり、四部屋の客室と、ロビー、受付がある。関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの先には、泊まり込み用の部屋だった。
「忙しいときは、あの部屋が住処になるんですよ」
「鹿野さん一人で切り盛りしているのですか?」と尋ねた。僕達以外、『希林寿』にはまったく人気がなかったからだ。
「ええ、現在はそうしています」
「大変ですね。T村でたったひとつの旅館と聞きましたし」
「いえ、ご覧の通り、ご利用して頂けるお客様は少ないものですから」
二階には五部屋の客室があり、案内されたのは二階の奥だった。淑やかな香りを漂わせていたのは十つの畳みで、駐車場から見上げたバルコニーに通じていた。
「一階の浴場はご利用いただけるようにしていますので」
と言い、バスタオルや浴衣の置き場所まで丁寧な説明があった。
「わかりました」
ツッツッというスリッパの足音が遠ざかると、部筑は窓を開けた。開けっ放しでバルコニーに出る。外は黒い風が吹きこみ、窓を揺らしてきた。
「おい、暖房が利いているんだから閉めろって」
反応はない。彼の後を追った。
「自然に囲まれているのって、いいよな」
見上げた空には、満天の星を隠しつつあるチャコールグレーの雲があった。何かに急かされているように流れていくその雲は、やがて半月の光をも遮断した。
「うぅーさむ」
部筑は部屋の中へと入っていった。
沸いた湯でお茶を入れるなどをして一息ついた。することもなかったのだけれど、座椅子に背を委ねていると、眠気を催してくる。部筑が部屋の隅々まで観察している姿を遠目にみつつ、僕はウトウトしていた。
たおやかな身のこなしで料理を運んできた鹿野紀子に見とれていた。盆に乗せられていた産地直送の海産物と、取れたての山菜が中心の料理を残さず食べた。特に山菜のお浸しが美味しくて、自分の胃袋が限界になっていたのだが、おかわりを要求したくなった。
「この辺に図書館あります?」
料理を片付けに来た鹿野紀子へ、部筑は言う。
「ありますよ。場所をお教えしましょうか?」
「是非とも」
部筑は地図を持ってくると言った鹿野紀子の作業を手伝うため、盆に積まれた残りの食器を一階の食堂の奥にある調理場まで持っていった。
「手伝いまでしてもらって、すいません」
鹿野紀子は地図を片手に持っていた。
「いえいえ。こちらこそ、洗い物の邪魔をしてすいません」
テーブルに広げた地図を取り囲んで座った。
「左近字図書館ですか」
「はい、近くの小中学校には図書室がないので、学生さん達が多く利用されています」
『希林寿』と、距離にして六キロぐらい離れていた。低雲丘への山道とは違った山道を登っていく経路だ。その山道に沿っていくつかの民家が点在していた。
「明日に行ってみます」
「行き帰りはお送りしますよ」
部筑は考えてから、手を横に振った。
「帰りは大丈夫です。散歩がてらで戻ってきますから」
「ですが。歩道が狭いものですから、危険ですよ」
昼間乗ったバスの運転手がこの山道を通ってきたらどうなるかを想像し、お言葉に甘えたくなった。しかし、宿泊は明日朝までの予定である。部筑は立ち上がった。
「大丈夫です」有無を言わさぬ空気を放った。
「運動不足を解消したいですから」
と痩身の彼は言い、僕達は部屋に戻った。午後七時を過ぎていた。
「低雲丘について調べてくれ。名前の由来やら、歴史やら、地元の図書館なら資料はあるだろうから」
「部筑はどうするの?」
「俺は例の自費出版本を探してみる。後は、その本の通りの事件が本当にあったのかを新聞で調べる」
「聞き忘れていたんだけどさ、その自費出版本をどこで見つけて、いつ読んだの?」
「美佐江の父親がな――」
海外出張の多い、メーカー勤めの会社員という話は美佐江から聞いていた。
「先週、日本に帰国したとき、たまたまニュースを見たらしい」
父親の大学時代の友達が書いたミステリー小説の内容と、実際に起こった万引き犯殺人事件の内容が似ていたことを、美佐江に話していた。しかも、その本には横浜、新横浜、それぞれで殺人事件が起こっていると書かれていた。
「似ているって、そういうことだったのか!」
「ああ。そうだけど」
本が人を殺した描写だけが似ているのだと、早とちりしていた自分を誤魔化かすように、咳払いをした。
「じゃあ、読んだのは美佐江の父親かよ?」
「そうだ。俺は読んだなんて言ってないからな」
「別に、責めているわけじゃないけど……」
全部受け売りだった。さも自分が読破したかのように振舞えるのも、ある意味才能かもしれないが。ただ、好奇心で娘に熱弁している姿は、ちょっと変わっている父親像を想像させられた。
「大学時代の友達は、この辺に住んでいたのかな?」
「わからない。でもこの辺を舞台に書かれていたのだから、地元の図書館に置いてあるかもしれないだろ」
「少なくとも、一度は訪れていないと書けないと思うからな」半自伝的とあれば、なおさらだ。
「本になって、あの結末がぼやけた内容に驚いたらしいぞ。半自伝的なんて後書きもあったから、彼のことをあまり知らなかった自分を気に病んだらしいし。まあ、それがいつまでも記憶残させたんだろうけどね」
「最後までちゃんと書けって意見はしなかったのかな?」
「さあ。美佐江の父親との面識はないし」僕も同じだった。
「なら、美佐江が帰国するのを待って、父親に合わせてもらって詳しい話を聞けばいいでしょ?」
「あまり頼りにしたくはない」
わかる。初対面の大学生が世間を騒がせている万引き犯殺人事件を追っているなんて聞けば、大概が怪しむはずだ。考えているうちに気が変わりそうになった。
「なあ、何でそこまで拘っているの?」
「彼女から持ちかけられた話だし、事件調査を望んでいるからな」
美佐江にそんな趣味があるとは思わなかった。いや、まったく別の動機があるとしたら。例えば、
「もしかすると、二人目の犠牲者が発見された日に、新横浜に居たのってさ」
「さあ、たまたま空港に行く途中だったんじゃない?」
「いや、空港だったら、新横浜は遠回りだし」
なぜ、気がつかなかったのか。僕はかなり重要な話を聞き逃していた。
「美佐江もこの事件に興味を持っている。事件現場で野次馬していても可笑しくないでしょ」
「野次馬していたら可笑しいんだよ。でも、それ以外考えられない」
「なんじゃそりゃ」部筑は呆れた。
美佐江と新横浜で会ったのが一月二八日の十四時三十分頃、殺人事件の報道はその日の十七時のニュースでやっていた。
「しかもかなり新鮮な情報だったんだろ?」
「その前は、どのチャンネルでもやっていなかったからな」
「美佐江はテレビで報道されるより前から、事件現場を知っていた。裏を返せば、美佐江は事件が起こるのも知っていた……」
「面白い発想だな。疑っているのか?」
「違うけど」
言ってはみたものの、疑いの感情を持ち始めているのは事実だった。きっと、重要な手掛かりを持っているはずだ。
「第一の事件があった日、俺はずっと美佐江と一緒にいたんだぞ。第一の事件と第二の事件は、殺害方法が似ている。警察は同一犯とみて捜査しているしな」
「……そうか」安堵と、嫉妬が絡み合って複雑だった。
「まあ、帰国すればわかる。それまで留守番させてもらっているから、ちょっとはカリをかえさないとまずいでしょ」
僕は麦酒を頼んだ。
新横浜の定食屋にいたテツさんの顔を思い出す。きっと、彼も麦酒のために働いていたのだろう。上司に命令されるだけされても、文句を言わず。文句のはけ口を定食屋に設定して。