XX.心の中で殺す。それなら自由
身柄を拘束された。
手錠を掛けられ、牢獄のようなバンに乗せられて、刑務所に送られた。同席していた人達の放つ危険な雰囲気も、屈辱的な検査も、どこか他人事になっていた。外の景色を今の内に焼き付けておけと、沢村は忠告してくる。それ程意味のない忠告は、他にはない。すべてがモノクロのように移り、生きた心地がしなかった。
これから、どれぐらい入っているのかはわからない。しかし、無罪を主張しても、誰かから信じてもらえる気はしなかった。早めに認めた方が、刑は軽くなるというアドバイスを受けた。
雑居房が並んでいる部屋に繋がっている、大き目な部屋があった。『物品置き場』と書かれている。
「ここにはな。殺人にあった被害者の遺留品が安置されているんだ。そこの本棚に並んでいる本のいくつかも、遺留品だ」
「遺留品……」
「捕まっている者達はこれを見て、自分の犯した罪を認識することもある」
「……ここにいる間、本をいくつか借りてもいいですか?」
「いいけど、遺留品の読書が趣味なの?」
「ええ」
「変わった趣味だな」
独房に入った。差し込んでくるわずかな陽射しは冷たい。部屋に流れている空気はもっと冷たい。僕の心は、もっともっと冷たい。
僕はやってもいない犯罪を認めていた。独房に入っていること自体、半分は認めているのだと、思えたからだ。
夜は暗く、朝昼は暗い。
当たり前のようにあった者と物が失われ、行動範囲が制限されていくと、当たり前のようにあった感覚さえも失われていくのだと気が付いた。天井を見つめて過ごした一日、膝を抱えていた明け方、過去を振り返ることが、唯一の財産だと思われる日常生活になっていた。
隣の部屋には、叫ぶおじさんがいた。ノイズでしかなく、周りからは言葉で止めても意味がないという暗黙の了解があった。看守に止められては再び叫び声をあげる。枯れた喉を労わろうとする手段は、彼にはないのだろう。僕は放置しておくという手段をとった。
番号で呼ばれることに、抵抗はなかった。それ以上の難題を抱えているのだから、当然なのかもしれない。むしろ、自分個人とこの場所との距離がある感じがして、その方が楽だった。
精神が水分補給を求めていた。僕に、受け皿とスポンジの役目を果たす何かがあるかはわからない。部筑のように、反発心をむき出しにすべきだったかを考えたが、あのときの僕には出来なかった。
これも、やがては慣れてしまうのだろうか。カメレオンのように色を変え、強者に怯えて生きていくのか。生きているうちは、主張も出来なくなってしまうのか。嫌だ。嫌なのに、どうしていいのかさえ思い付かない。
日を跨いでいた。昨日と同じことを、新たな思考をしているかのように繰り返していく。思考によって精神をすり減らし、到達した答えもまた、いつもの答えだった。
四回目の取り調べの日、相手に沢村を指名した。もちろん、融通が効くような場所ではないことぐらい薄々はわかっていたが、沢村が承諾してくれたのだ。
「元気そうだね」
――そんなわけない。
心の中で悪態をついた。
「殺人動機は相変わらず掴めないと聞いている」
他の取り調べでは殆ど黙秘していたから当たり前だ。むしろ、プライベートなことばかり聞かれていたので、閉口させられていた。僕は沢村を無視して、話しの方向をかえた。
「いくつか、聞きたいことがありまして」
「かまわないよ」
小園猛のことを調べているか訊いた。すると、沢村は顔全体の皮膚を下に移動したかのような表情になった。それも一瞬だった。
「あの事件捜査は片手間でやっていたから」
いいわけ、とは少し違うニュアンスがあったのを、僕はそのとき気が付かなかった。
「小園猛さんは自殺と断定される予定だよ」
「なぜですか?」
「こちらにも、色々な事情がある」と約束を翻した。
「自殺には矛盾点があったって、言っていたじゃないですか?」
戸惑った間を埋めるように、沢村は煙草に火を付けた。不自然なその一連の動作を訝った。
「小園猛さんの奥さんが殺されたのは知っていますよね?」
言うと、沢村は煙を吸い込んだまま、動きを止めた。
「誰から聞いたんだ?」
「黒岩さんです」テレビの報道もされていたが、あえて言わなかった。
「あのじいさんか……君は足を突っ込まない方が良い」そうはぐらかされると、余計に追求したくなってくる。僕は前かがみになった。
「小園猛さんは、奥さんを殺した犯人を探している最中に殺されたんだと思うんです。T村を管轄する警察署に勤めていた沢村さんなら、何か知らないんですか?」
紫煙をくゆらせた。
「――あの事件が起こったのは、まだ大学生だった」
当たり前なのだけれど、沢村に学生時代があったことが、少し信じがたい。
「奇怪な事件として報道されていたから、薄ら覚えているよ」
刑事を目指していた沢村は、世間で起こっている事件を隅々まで観察していたらしく、その事件は衝撃だった。聞いたこともないような村で、殺人事件が起こる。しかも、本の束と首を縄で括り、水死させたのだから。
「旅行中は子供も一緒にいたらしいですね?」
「子供も?」
沢村の喉仏が上下し、手に挟んでいた煙草の灰が、デスクへと落下した。
「どこで調べたんだ?」
「どこでって……」
小園猛の訴えていたことを読みとった、とは言えず、左近字図書館に置いてあった新聞で調べたと誤魔化した。沢村は目を瞑って首を左右に振り、煙草を灰皿に押し付ける。
「それは嘘の記事だな」
「ちゃんと書いてあったんです」こうなったら、嘘の上塗りをするしかなかった。
「いや、違う」
小園夫婦は金子の経営していた旅館に二人で二泊していた。当時、捜査を行っていた者からの情報もあり、裏付けがあるらしい。
「……ですが」
「何でもマスコミを信用するのは悪い習性だ」
彼が嘘をついているようには思えず、自らの能力を疑った。本から読み取った内容と現実に差異があった経験は初めてだったからだ。
「金子さんに聞いてんですか?」
「ああ。捜査を担当していた者が聞き込みを行っているはずだ」
今となっても、犯人が見つかっていない事実は、共通の認識だった。
「金子さんは心あたりなかったんですか?」
「さあ、死人に口なしだ」
僕の持っている疑問は三つあった。一つは小園佳代が阿武隈川で殺されたとき、小園猛はどこにいたのか。二つは旅行中、小園由美子はどこに預けられていたのか。そして、小園佳代はなぜ殺されなければならなかったのか。
「一つだけなら答えられる――」と、腕を組んだ沢村は、息を吐きながら言った。
「小園猛さんは旅館の部屋にいた」
しばらく無言のままでいると、沢村は腕時計をしきりに確認するようになった。
「沢村さんはどんな学生でした?」
「世の中を変えたいって考えていたよ。自分の力で。青臭いだろ?」
「いえ。素晴らしい考え方だと思います」
少なくとも、僕にはそこまでの野心はない。カテゴリー分けするなら、草食系男子そのものだ。
「考えるのは簡単だよ。しかし、君に言われたように、人の人生を左右することばかり行ってきた。理想と現実は上手くかみ合わないものだね」
「小園由美子さんは見つかっていないのですね?」
「んん」
沢村は曖昧に答える。刑事のプライドなのだろうか、行方不明になっている彼女を見つけられない状況に憤りを覚えているようだ。ただ、僕の無罪を証明するには、小園由美子の存在が必要不可欠だ。
「お願いです。絶対見つけてください」無罪を証明するには、もう彼女が見つかるしか方法はない。
「ああ――全力は、尽くすつもりだ」
歯切れが悪い。どうも、今日の沢村は本調子ではなさそうだった。
「本を前より楽しんで読めなくなりました。どうすればいいんですか?」
刑務所に入っていたせいだ。
「君が、書いてみる立場になればいい」
「その気も起きなかったら?」
「人を殺してみる」
「無理ですよ」
「心の中で殺すんだ。それなら自由だ」