X.取り調べ
――どうして……
ふざけるな。俺達はやっていない。部筑の怒声が、スニーカーの擦れる音が、激しい息づかいが、背後から聞こえてきた。僕はといえば、息をしているのさえわからない。振り返る気力もなかった。
四角くて無機質の空間で、沢村と対峙した。昼だというのに、恐ろしく暗い。僕の心はもっと暗いはずだ。耳を塞いだ。血液の脈動が聞こえてくる。
冤罪という言葉が頭を過った。満員電車で良く起こる出来事ぐらいは知っている。しかし、痴漢とは罪の規模が違う。悪い意味でだ。
「義男さんか美佐江が、僕達を犯人だって、言ったのですか?」
「答えられない」
短く答えた沢村はバインダーに引っ掛けられている書類に目を落とした。まだ現実を受け止められずにいる部位が弛緩しているかのように、力が抜けていった。
「僕が何をしたって言うんですか?」
んうんと、喉を鳴らした沢村は、顎をあげた。自分の置かれている状況を考えろ、と表情に表れている。
「連続殺人事件だ」
「待ってください」
「時間はたっぷりある。君次第では、疑いが晴れるかもしれない」
と言った沢村は、ラッキーストライクのパッケージを取り出し、美味しそうに煙草を吸った。その弛緩している顔に、引いていた血の気が蘇ってくる。
「ですが。やっていませんから」
「T村の『㈱エコノミーテクノ』という会社で盗難事件があってね」
――なぜ……
「客先展示用に飾られていた製品だ。盗まれたのは二つ。身に覚えはあるよね?」
僕はうな垂れるように頷いた。
「どちらも、信二君が盗んだのかな?」
「いえ。ひとつだけです」
義男に引き取ってもらったことも話した。T村の警察には話が付いているはずなのに。沢村は否定も肯定もせず、ボールペンで何やら書き込んでいた。
「どうして盗んだのかな?」
「いや――」
事件捜査をやっていて、殺人の道具に使われたのではないかと推測していたことを話した。
「その話は後で聞こう。次に不法侵入だが」と彼なりのペースになる。
『㈱エコノミーテクノ』の不法侵入、低雲丘で発見した遺体の、匿名での通報とつづいた。
確かに、盗難も、不法侵入も、処分は義男に委ねていた。しかし、義男はなかったことにしようとしていた態度だった。どこで狂い始めてしまったのか。
「それらは、事件捜査のために行ったんだね?」
僕は頷いた。
「悪気があったわけではありません」どうしても、そうする他になかった。
「悪気がなかったら、やって良い行為ではないんだよ」
「わかっています」
「新横浜で事件があった日、君は現場付近にいたよね?」
知っていて、質問してくる口ぶりだ。しかも、僕が返答に困ることも予想済みのようだ。
「それは……」
「K書店員さんが、君の写真を見せると、身に覚えがあったらしいんだ。あの日、君は何をしていたんだい?」
「就職活動で、企業面接をしていたんです」
「何時ごろから?」
「ええと……」言葉を濁す。余計なことを話してしまい、企業の内定取り消しが思い浮かんだからだ。
「企業名を教えてくれるかな。連絡するから」
「止めてください――十五時からです」
「ふーん。なるほど」ボールペンを使って、書類をトントンと叩いた。
「十二時頃、K書店の前を歩いていて、被害者にぶつかった。それで、一旦家に戻り、十四時三十分頃、石崎美佐江さんと駅のエスカレーターで偶然会ったと。うん、食い違いはないね」
被害者、城島博志の第一発見者の通行人は十三時に通報していた。沢村が言うには、死亡推定時刻が十二時から十三時。まるで、証言者と発見者の言葉で成立したような死亡推定時刻だ。二者の証言を除いた空白の二時間半なら、殺人を行うには充分だと、沢村は考えているのだろう。
「だが、一旦家に戻った証拠は無いんだね?」
「一人だったから」
「君の髪の毛と思われるものが本に挟まっていたんだ」
「挟まれていた?」
沢村は城島博志が持っていた『どん底からの億万長者への道』の二百七十ページ目に、僕の髪の毛と同じ物が挟まっていたと真面目に言う。『希林寿』で借りていたときに、偶然抜け落ちてしまったとしか考えられない。
「いや、事件当時に挟まっていたものだ」
あのページには横線が引かれていた。他のページより熱心に読み込んでいたのではないかと示唆している。だから、髪の毛が挟まっていたのだとも。人間は一日に五十本の髪の毛が抜け落ちるとの蘊蓄も出てきた。
「事件前、あの本には触れていませんから」
「殺人遂行に集中していて、抜け毛を振り払うまでは気が行っていなかった。とか?」
「違います」
沢村は眉を上げる。いつの間にか、煙草のフィルター以外はすべて灰になっていた。
「君達がいない間、『希林寿』の浴掃を調べさせて貰ったんだ」
鹿野紀子の話だと、宿泊客は一週間以上途絶えていていた後、僕達が初めて『希林寿』を訪れ、再び宿泊するまでの間も、宿泊客はいなかった。
「部筑君がボウズで、信二君が短い髪の毛だからね。何本か落ちていた」
――もしや……
美佐江から、話しがあると言って、公園で失踪した小園由美子の話をしたあのとき。僕の白髪を抜いてから、化粧ポーチを取り出していた。あれは、化粧直しをしようと考えていたのではなく、僕の髪の毛を持ち帰ろうとしていたのか……
偶然、新横浜で出会ったときに「話しがあるの」と言ったのは、本当は僕を犯人に仕立ててしまったことなのか……いや、そうだとしても、話せるはずはないのだが。
「僕はやっていませんよ!」感情を込めた。
「誰も、最初はそう言うんだ」
しかし、軽くかわされてしまった。
「挟まっていたのは、白髪ではありませんでしたか?」
「さあ。それは鑑識に聞いてみないとわからない。どうして?」
「いや、何でもありません」
説明する気力が失せていた。沢村はパイプ椅子に座った状態で背延びをした。
「君に貸してあげた『どん底からの億万長者への道』は誰かに見せたりしたかい?」
「『希林寿』に置いていたので」
僕の目が届く範囲では、誰も見ていなかったはずだ。死者の訴えを読みとった事象については、喉元で堪えた。
「そうそう、後、蛍光色の本か」
部筑が見ていた。
「だろうね」
沢村は貸していた本から、指紋を採取していた。『どん底からの億万長者への道』からは僕の指紋を、蛍光カバーの本からは、僕と部筑の指紋を。返すときになって、沢村が食い入るように見つめていたのもそのせいなのだろう。
――やってしまった……返す時は指紋を拭き取ろうと思っていたのに。手袋をしていたのもそうなのか。訊いた。
「そうだよ」素っ気なく、沢村は答えてからつづけた。
「城島博志さんの持っていたハンドバックに、君の指紋が付着していてね」
「ぶつかったとき、触れたんだと思います」
「ぶつかったときね~」
含み笑いをしている。彼の表情を見て、何もかもが信用して貰えないように思えて仕方なかった。
「阿武隈川で発見された縄と、被害者が持っていた本には、部筑君の指紋が残っていた。君は何か知らない? ――それに、あの蛍光色の本は、友達の書斎にあったそうじゃないか。部筑君は一月辺りから、けっこうな頻度で泊めてもらっていたみたいだしね。事件のあった二〇一〇年一月三十日も、君と一緒に『密造書展』にいたんだろ」
「彼はやっていません」
「どうして?」
「あの日は、『希林寿』に宿泊していたので」
「それは女将さんに聞いたよ。ただ――」
あの日、鹿野紀子が僕達の姿をみたのは午後七時頃が最後だった。次の日は、午前九時半頃に顔を合わせている。午後八時の新幹線に乗車したとしても、二時間で神奈川に到着する。田中満高の死亡推定時刻は、午後十一時~午後十二時。つまり、『希林寿』を抜けだして、神奈川に戻り、田中満高を殺してから車を使うか、朝方の新幹線を利用しても、犯罪が成立する時間がある。
「君達は夜中に『希林寿』を抜けだし、『㈱エコノミーテクノ』に侵入しているからね」
「ありえません」
「阿武隈川で殺人に使われた本に、『限界文芸店』の刻印があった。調べていくと、美佐江さんの代理で部筑君が前日購入したそうじゃないか?」
「それは聞いています。しかし――」
「手慣れた犯行とも呼べる」言葉を遮られる。
「やっていません」
「被害者、金子大輔さんが持っていた本の百十ページ目にも、挟まっていてね」
沢村の視線は、僕の胸元から上昇し、頭のてっぺんあたりで固定された。全身がふるえていくのを感じた。
「君の髪の毛だ――」
金子大輔が殺された日は、僕の人生の大半がそうであるように、何の変哲もなく、何をしていたのかさえ思い出せない日だったのを記憶している。ただ、部筑と美佐江が一緒にいたことは聞いている。
沢村の何をしていたかの問いに、適当に誤魔化すわけにもいかず、記憶を手繰り寄せる。家でエントリーシートを書き、近場の牛丼屋で夕食を済ませた。その他はどうしても思い出せなかった。
「その日は誰にも会っていなかったか。そうか」沢村は勝手に納得している。
「念のため、指紋も、髪の毛も、後で採取させてもらうよ」
と言いながらも、僕に髪の毛を抜くよう指示してきて素直に従ったら、部屋を出ていった。一人になった数十秒の間、僕は現実を実感し始めていた。
――このままでは、本当に殺人事件の犯人になってしまう。
逃げる手段と、石崎親子を疑っていた事実をしゃべってしまう手段、その葛藤がある。
もちろん、前者が何の解決にもならないことぐらいは、平常心が消えかかっているこの状態でも感知は出来ていた。
部筑がどう証言しているのかが気になったが、共犯として疑われているのであれば、どうしようもない。
誰が本の間に、僕の髪の毛を忍び込ませていたのかをつき止めるしかなかった。いや、それが出来るのは限られているし、話しの流れからすると、石崎親子しかいない。
――じゃあ、なぜ?
疑ってしまったからいけなかったのか。美佐江が流した涙は、僕達が思っている以上に根深かった。だが、殺人をやっていなければ、感情に流されて僕達を殺人犯に仕立てるなんて、するような二人じゃないと思える。
――やはり、あの二人が犯人としか……
沢村は戻ってきた。ついでに部筑の様子を見てきたらしい。
「気丈なんだね、彼は」
部筑の取り調べは、多くの人に恐れられている刑事がやっているらしい。彼を憐れんでいる雰囲気が伝わってくる。
「いつまでもつことやら」
もちろん、部筑の精神力の話をしているのだが、取り調べをしている刑事も、いつ頭の血管が切れ兼ねない、という意味も含まれているらしかった。
「さて――」自分を発起させるように、沢村はそう言った。
「残念ながら、人通りの多い横浜、新横浜、阿武隈川からは、君達の足跡を検出することはできなかった――それはさて置き、雪が降っていた数日間だろうな。低雲丘への道に足あとが残っていた。スニーカーの形状が、君の履いていたものと同じだったんだ」
僕の履いていた『アドダス』のスニーカーを見やった。
「被害者の鹿野隆さんのものと、熊? らしき足跡もあったかな」
「僕は発見しただけです」
「そうか。まあ、低雲丘で起きた事件は、まだ詳しく捜査されていないから、ここまでにしよう」
沢村は、隅にあるデスクまで歩み寄り、引き出しを開けた。
「決め手となるのはこの本かな」
沢村は透明なビニール袋に入っていた『ブビリオフィリア』を取り出した。
「今話題になっているの、知っている?」
僕は答えなかった。
「手に入れるの、大変だったよ。予約が殺到しているのに、出版社の生産が追い付かないんだって」
自費出版本を復刻させたいところが多いと言うのだ。義男の発行していた別バージョンはすべて回収されていた。他人に出回っていたのは数冊であり、ネット販売していたサイトに協力を仰ぎ、迅速な対応が行われていた。また、その本の扱いは盗作疑惑とせずに、隠蔽する方針になっていた。
「犯人は今年で二十二歳だ。君の年齢と同じ」
沢村は親指に唾をつけ、ページを捲っている。
「それが、どうしました?」
「小説の内容とあまりにも酷似しているからね。読んだだろ?」
「ええ、まあ」
「だけど、世の中があれだけ小説通りに殺人が行われているって信じられているのが、信じがたいよな」
とマスコミ報道の仕方も含めて呆れた。沢村は『ブビリオフィリア』を題材にして何が言いたかったのか不明のまま、事件の証拠説明がひと通り終った。膝がしらをぺチンと叩き、沢村は鼻から大きく息を吸う。
「あとは殺人動機なんだよな」
「そんなのはありません。やっていませんから」
許せない。
目の前にいる刑事は殺人犯になってもらうよう僕を説得してくる。説得マニュアルがあって、その範囲内で事足りている余裕すら感じられる。
他人の人生を左右して面白いのか?
僕のこれからを想定しているのか?
無罪の可能性は考えていないのか?
捜査を仕損じたところはないのか?
殺人動機について、しつこく尋問された。あるわけがないのだ。彼らを殺す理由なんてない。事件を知らなければ赤の他人だったし、そもそも、人を殺す勇気なんてものはない。
「サイコパスの心理実験は知っているか?」
その名ぐらいは知っていたが、僕は首を横に降った。
「君の祖父のお葬式にある女の子が参列した。君はその女の子に一目ぼれをする。弟も惚れてしまったと告白して来る。寝ても覚めても、女の子のことが頭を離れない。そしてその翌日、君は弟を殺した。どうしてだと思う?」
「弟はいません」
「想像してみるんだ。君がその立場になったら、どう思うか?」
想像するのは容易かった。きっと、嫉妬してしまうに違いないからだ。
「弟に彼女を取られたくなかったから。殺した」
自分で発した言葉に、敏感に反応してしまう。殺した。殺した。いや、僕はやっていない。すると、沢村は顎に手を置いた。
「なるほど。サイコパスは、葬式でもう一度女の子に会えると思って弟を殺すんだよ」
「無茶苦茶です」
「君は美佐江さんに気があったらしいじゃないか?」
その事実を知っているということは、プライベートまで根掘り葉掘り調べられている気がした。
「誰が……そんなことを」
「悪いが答えられない。でもね、誰かを好きになるのは素晴らしいじゃないか」
「――」
部筑も美佐江に気がある前提で話を進めていた。普通の恋より、ライバルがいた方が燃えると沢村は語った。
「恋敵を押しのけて、手に入れる方法がある」
僕は聞き耳をたてていた。
「それは――対象となる人を支配してしまうんだ」
「支配? と言いますと」
「サイコパスを真似るんだよ。極論だけどね」
あまりにも、非現実的過ぎる。沢村は僕の中にある狂気を表に出させようとその話を持ちかけたのかもしれないが、逆効果だ。支配なんて言葉を軽々しく口にする人を、信用しない。権力で弱者をねじ伏せられるとでも考えているはずだから。真剣に聞いていた自分が馬鹿だった。そんな自己嫌悪に陥っている僕を尻目に、沢村は言う。
「彼女は事件捜査に興味を持っていた。もし、事件と連なりのある人が殺されれば、一緒にいれる時間が作れるから、殺人を犯したとか」
「本気なのですか?」
「例えば、の話だ。だが、誰しも心の中ではサイコパスを飼っている。そう思わないかな?」
「思いません」
沢村は頬杖をした。
「ボランティアをやっている最中に、ボランティア団体の中で気に食わない人間がいる。鬱屈が積み重なって殺してやりたくなる。その直後に恵まれない誰かを救い、家に帰ったら、気に食わない奴を思い浮かべてしまう」
反応を伺ってきた。僕が無言でいたら、
「――そんな人間にボランティアをやるなという権利はない。善、悪が混同した胡散臭い側面を持っているからこそ、精神のバランスは保てたりする」
「完璧な人は存在しないんですね?」
「ああ。要は危ない感情を表に出すか否かの違いだけなんだ」
殺意と殺人は大きな境界線が引かれているのだけれど、ちょっとしたきっかけでタガが外れ、境界線を飛び越えてしまう人間は沢山いるというのだ。彼の経験から得た犯罪心理学の到達点なのかもしれない。
「沢村さんは、サイコパスなのですか?」
彼は自分の顔を指さしている。
「まさか。サイコパスが刑事なんてできないよ」
「刑事は人の心を殺せますよね?」
「参ったな」
僕は現実に殺意を持っていた。
状況を変化させるための殺意だ。神奈川警察所を爆破させるでもいい。僕なんかに構っていられなくなる犯罪が、戦争が起こってくれたら、他に望みはない。連続殺人事件の疑いを掛けられた経緯をすべて紛失させるための殺意。
だが、結局は沢村に殺意を持っていた。