V1.書物愛は親子愛に勝るのか
小園由美子は事件が起こる前にこう打ち明けていた。
彼女が父親の元を訪れたとき、『ブビリオフィリア』を読んで泣いていたところを目撃していた。父親が泣いている姿を見た経験はなかったので、驚愕に値する出来事だったらしい。なぜ、自分の作品で嘆いていたのかまったくわからず、理由を聞いても、何も答えなかった。
彼女は父親が寝静まったところを見計らい、こっそり読んだ。小園猛が発行していた『ブビリオフィリア』とは、一部の内容が違っている小説があり、しかし、それが泣いている理由とどう繋がるのかはわからなかった。
次の日、彼女はしつこく問いただした。すると、父親はこう言った。自分の知らないうちに、十九年前に書いた原稿の内容が盗作されていると。しかも、ネットで全国流通していた。それを購入していた。
小園由美子は父親が大事に持っていた、ボロボロの原稿用紙を読んで確認した。確かに、全く同じ内容であった。
盗作が作者にとって死活問題になりえるのはプロの話しであって、無名の趣味で書いたような作品が盗作されようが、騒ぎ立てる程でもないと小園由美子は考えていた。
反面、相当思入れのある作品なのかもしれないと考え、その辺を慎重になって訊いた。すると、新たな作品を出版するのに、回収していたことを知った。そして、作者も明記されていない、誰が出版したかもわからない『ブビリオフィリア』を回収するのは不可能なのも知った。当然、発行元に自分が作者だと申し出ても、聞く耳を持ってもらえなかったらしい。
小園猛は誰が盗作したのか、薄々はわかっていたらしい。原稿用紙を持っているのは、義男しかいなかったからだ。しかし、小園猛は問い詰めようとしなかった。あるいは、別の目的があって、それを解決してから、問い詰めようとしていたのかもしれない。
その後、アパートを引き払って、父親の住んでいる実家に住もうか検討していた矢先、小園猛は仕事のため、とT村を訪れた。誰かに手紙を書いて送っていた事実も、返却されてきた手紙で知っていた。宛先は、鹿野隆がいた刑務所になっていた。
小園由美子は盗作によって消されていた、T村にある会社の不正に注目した。それと同時に、予定を過ぎても帰ってこない父親を心配し、T村を訪れた。
奇しくも、父親の遺体を自ら発見してしまった小園由美子は、登場人物にも出てきた石崎義男を調べた末、『㈱エコノミーテクノ』に入社することを決意する。鹿野隆が出所してから、失踪していることも、知った。
ただ、小園猛が泣いていた理由は、本当は妻の殺人事件の箇所を読んだからだろうと思われる。娘には、本当の理由を打ち明けずにいた。それなら小園猛は、妻の死因を墓場まで持っていったのだ。
「好意のつもりだった行為が、小園を自殺へと導いてしまったんだ」
まるで半自伝的小説のように、義男の話はどこまでが真実なのかわからなくなっていた。
「小園さんはなぜ、義男さんに盗作の話をしなかったんですかね?」
僕は探りを入れた。
「わからない。だが、私が内緒にしておくべきじゃなかったのは確かだ」
義男は頭を抱えた。
「奥さんの死を、義男さんに打ち明けられなかったからじゃないか」
「えっ?」声が裏返った。
「どこまで内容を変えるはずだったのか知らないけど、実際に起こった事件を書こうとしていたのは事実だ。タイトルと表現の仕方を変えるだけでも、全く別の本になる。義男さんが言っていたように、十九年経てば感覚はかわる。新たに書き直そうとしていたのなら、なおさらじゃないか。しかも、十冊しか作っていない自費出版本だし。小園猛さんは、本の回収にはそれ程、拘っていなかったと思う」
部筑は、小園猛の妻が殺された事件の描写があったから、新たに発行した本の回収をしたいとは言えなかったのだと推測していた。義男に言えば、美佐江にしゃべるかもしれない。そうなると、友達である小園由美子にも伝わってしまう可能性もある。
静寂がおとずれた。
美佐江は、置いてあった二冊の本を手に取って、鼻に近づけた。音を立てて、吸い込んだ。
「あれ?」
「美佐江?」
「この匂い、どこかで……」そう言った美佐江は、T村の阿武隈川事件が書かれている『ブビリオフィリア』を見つめる。「……思い出せない」
張り詰めている空気を、緩和させようとしていたのだろうか。美佐江は僕達が出会った頃の話をしだした。
「『ジプシーの日常』を、二人が読んでいたのは、匂いで分かったの」
「図書館員に聞いた、とか勘じゃなかったんだな?」
「違う。何となく、わかったの」
初めて、美佐江に声を掛けられたとき、『ジプシーの日常』を返却してから二日は経過していた。部筑は、図書館で借りてから一カ月以上は経っていると言う。いくら嗅覚に優れていたとしても、匂いがそこまで残っているとは思えない。
部筑の目は、金髪の美人を食い入るように見つめた。
「もしかして、美佐江も能力があるのか?」
「かもしれない」
自分が能力を持ってみて、完全に否定することはできなくなっている。むしろ、信じられる。不思議なことでも、何でもないのだと。
「やっぱ、俺達は同じ匂いがしたんだよ。能力を持っている者同士の匂いがあるんだ」
能力、と聞いて僕は本から読みとった言葉を反芻した。
《アル者ハ 私利私欲デ 動イテイルノダト知リ 失望シタ――》
小園猛は、盗作した者を特定せずに逝ってしまったから、『ある者』と形容していた。
《――出世ノ為 不正ヲ働キ》
《人間ハ醜イ 将来ノ為ナラ 他人ヲ 犠牲二スル――》
出世のため、自然破壊、村長との癒着を行ったりして『㈱エコノミーテクノ』は不正を働いていた。しかし、その不正を隠そうと、作者には内緒で別バージョンの『ブビリオフィリア』を発行した。将来的にも、知られてはならない事実が、小説として書かれているからだ。何とか、十冊の小説だけでも、葬り去ることを考えた。幻の本にする必要があったから。
《――良心ガ欠ケタ行為 暴イテヤロウト 考エタ》
しかし、小園猛が取材でT村を訪れていたとき、いろいろな事実を知ってしまった。義男は、止むを得ず、不正が書かれている『ブビリオフィリア』の所有者、小園猛を殺した。そして、本も同時に葬ったはずだった……
「違うよ、部筑――」
僕なりの推理をすべて告白した。それは義男の話を覆すことになる。
「私の言ったことが信用できないんだね?」
「はい」
「わかった。ならば証拠を示してもらおうか?」義男は高圧的な口調になった。考える間も与えんばかりに、つづけた。
「ないのか? え?」
「……」
「話しにならないな」義男は腕を伸ばし、Yシャツが捲れたところにある腕時計をみた。
「もう、こんな時間だ。美佐江、出発するぞ」立ち上がろうとする。
「まだ、話しは終わっていませんよ」部筑が制した。
「この機械は何に使われているのでしょうか?」
『U130』を見せた。
「弊社の製品じゃないか。なぜ君が持っているんだ?」
「侵入したとき、拝借しました」
義男は大きなため息と共に、目を細めた。
「樹木に切れ目を入れるんだよ。そこから、弊社が開発した成長促進剤の液体を染み込ませていく。液体は、支柱の先端部分から入れれば、自動的に刃の部分から噴出していく仕組みなんだ」
「成長促進剤には、どんな原料が使われているのですか?」
「楮、三椏、雁皮等の樹脂だよ。それ以上は企業秘密だ」
黒岩は、和紙に使う原料だと言っていた。森林伐採と思われていたのはそのせいだ。
「殺人につかった機器ではないんですか?」
「どういうことだ?」
「こういうことです」
部筑は『U130』の電源を入れ、段ボールを削いだ。
「段ボールには、等間隔で十つの切れ目が出来ます。金子大輔さんと城島博志さんの遺体に、それぞれ何か所の傷があったかは、ご存じですね?」
「二百七十箇所と百十箇所だったはずだが」
「その通りです。俺達は刑事さんに協力してもらい、被害者の持っていた本を貸してもらった。確認してみると、傷の数と同じページ数の箇所には気になる引用がありました。金子大輔さんの持っていた『ホテル・旅館ソムリエ』には書かれていませんでしたが、絶版の百十ページ目には『希林寿』の酷評がありました。城島博志さんの持っていた『どん底からの億万長者への道』の二百七十ページ目には、■お金はどこにでも転がっているという項目があり、出版業界に悪影響を及ぼす内容が書かれていました。ご丁寧にも、横に線まで引かれていた」
「何が言いたい?」
「傷の数と持っていた本のページ数に何かしらの意味を持たせようとしたんです。犯人である人間が、自分がやったとは思わせないように仕向けた二つの意味です。調べていけば、いつか『希林寿』の酷評に行きあたるかもしれない。恨みを持つ者は、鹿野隆さんか鹿野紀子だと特定できますから。でも、それだけでは弱いと考えた。わざわざ、『どん底からの億万長者への道』の二百七十ページ目に横線まで引いたのは、それらをわかりやすくするためだったのです」
『どん底からの億万長者への道』を見せたとき、義男は二百七十ページ目を指摘した。あれは、小園由美子の殺意をにおわせる演技だったと思われた。
「金子さんの子供である金子大輔さん、金子さんを本当に殺した城島博志さん、普通なら、両者を殺したのは関係のある鹿野隆さんだと思うでしょう。でも――義男さん、あなたも両者に関係ありますからね?」
「確かに、旅館の金子さんとも、従業員だった城島博志さんとも関係がなかったと言えば嘘になる。会社を設立させる前に、旅館の立ち退き交渉をしていたからな。だが、彼らと確執はなかった。殺す理由なんて、あるはずがない」
「わかりました。傷の話しに戻しましょう」
美佐江は、さっきからずっとうな垂れていた。声を掛ける言葉も、タイミングも見つからずにいた。
部筑は沢村に聞いた話をした。約二センチの等間隔の傷があったこと、ナイフの切り口ではないであろうこと、そして、特殊な機器が使われていたのではないかと疑っていたこと。すべての条件が『U130』に合っている。
「傷の数が十の倍数であることが、何よりの証拠になります」
「盗難された機器が殺人に使われた。君はそう言いたいんだな?」
「ええ。盗難されたのはひと月前だとおっしゃっていましたし」
「偶然の一致かもしれないぞ」
「この機器は出回っていないんですか?」
「一部の業者にしか出回っていないはずだ」
小園由美子が持ち去ってつかったかもしれないと、最初は考えていた。しかし、事件当時の小園由美子にはアリバイがあった。
「ふん――私が犯人だったら、そんなヘマをやらかさない。自社の製品を使っていたとしたら、君達が疑っているように、真っ先に疑われるはずだからな」
「俺が殺害方法の話を持ちかけたとき、義男さんは興味を示さなかった。それは、既に知っていることですし殺害方法を検証する必要がなかったからじゃありませんか?」
「勘違いにも程がある」
「美佐江……僕とあったとき、スーツケースの中に『U130』が入っていなかった?」
美佐江は弱々しく、首を横に振った。
「小園由美子の居場所は、知らないのですか?」
「知らない。今頃、自首しているんじゃないか」
「本当に知らないんですね?」
「何度も言わせるな」
「警察に通報できなかったのは、美佐江の生命を守るためや、会社の嘘の不正を暴かれるのが怖かったのではなく、小園由美子を自殺と見立てて殺そうとしたためではありませんか?」
「違うに決まっているだろ」
「彼女が捕まってしまえば、あんた達が共犯であると、自白してしまう可能性があったから」
「違う。違う」
「小園さんは自殺なんかじゃありません」
「……小園を、自殺に追いやってしまっただけだ。私が殺したんだ」
「いえ、義男さん、あなたが殺したのは」
「もう、止めて……」
美佐江はぽつりと言った。
声が途切れ、小さな嗚咽になった。抑えよう、抑えようとしても、込上げてくる気持ちの強さに押しつぶされそうになりながらも、それでも必死に戦っているように、美佐江は切れ切れの声を出した。
「ど。どうして……お父さんの……言うことを信じてくれないの? ひどい。あんまりだよ」
「美佐江」部筑は、風船の空気を抜いてしまったかのように、さっきの勢いはなくなっていた。
「……ブツクと……信二は、そんな人だったなんて……知らなかった」
僕達は、美佐江が落ち着くまで、無言のままだった。
美佐江が泣きやむと、意識が遠のいて、遠くを見ているようで、心ここにあらずになった。瞳が壁を通り抜けた遠くの空を、いや、僕達が見えない、美佐江だけが何かを見えてしまっている、そんな表情をしていた。
大きな瞳は何を意味しているのか? 蛍光灯に反射している、潤っている半開きの唇が、すべて固定されている。
理解しようとしても、わからない。彼女の気持ちを理解したいのに。理解したいと願っているのに。ますますわからなくなる。
どうしてそんな表情をするの?
どうすればいい。血管が張りさけそうだ。
なんでなんでなんでそんな表情をしているの。
否定してくれ。僕と部筑が考えた推理なのだから。
「警察に話すよ」
美佐江の肩を抱いた義男は、そう言った。
「元はと言えば、私が巻き込んでしまった事件だ。私が犯した事件だ」
持ちつづけていた荷が下りた。僕と部筑は軽くなり、美佐江と義男は重くなっているのだろう。
一同はしかるべきところへと散会した。