B1.本をパクって旅に出ている
新幹線での部筑は、座席をめいっぱい倒して終始、音楽を聞いていた。生音をそのまま録音したであろう古いロックバンドの演奏が、イヤホンから洩れていた。頭を上下させてリズムを取り、動きを止め、耳に焼き付けるように瞳を閉じる。
「目的地へ急げ! 人生は短いぜ! 若き日々は特急だ!」
それを英語で口ずさんでいた。
速度を増すごとに広がっていく緑、建造物が増すごとに、近くになっていく停車駅。血液中に染みわたっていくように旅への期待が高まっていく。下腹からジワジワと実感できた。
私鉄に乗り継いだ。進行方向とその逆側の方向に座席が設けられていて、僕達は対面する形で座った。乗客達は長い一駅間をのんびり過ごしていた。聞きなれない方言で喋るお年寄りがほほえましくもあり、僕は足元に溜まった温かい空気で半分眠り、半分覚醒していた。部筑は窓の下部に肘を着き、難しい顔をしていた。
乗車券をいれる木箱が、改札口がわりになっている無人駅でおりた。到着する頃になると、それと同じような駅を何度か目にしてきたので、珍しいさも半減していた。
澄んだ空気を吸い込む。鼻孔を鋭く突いてくる感触があった。二時間も座りっぱなしだったので、背伸びをしてみると、生き返った気がした。
駅前は土塀で仕切られた木造の民家が数件立ち並んでいて、その一軒一軒が所有しているのだろうか、民家の数十倍はあろう面積の田原が控えていた。コンビニエンスストアや居酒屋、カラオケ等はもちろん存在しない。昭和の追体験をしている感覚であると部筑は形容しているが、まさにその通りであり、僕達の存在そのものが場違いに思えて来た。
場違いといえば、アスファルトとその上を走っていく車も同じだった。緑の色彩を放っている広大な山々が、アウェーの観客達になっている。
いつまでも待っているより、次のバス停までと決めて歩いたら、T村の看板が見えて来た。子供が網を持ち、無我夢中で昆虫を追い掛けている絵が挿入されていて、部筑がそれを実演しようと走り出した。彼の背中がどんどん小さくなり、僕も急いで追いつかなければならなかった。結局、走りださなければ、バスに乗り遅れていたところだ。
貸し切状態であるバスは蛇行する山道に入った。短髪の運転手はしかめっ面をバックミラーに写し、ギアをチェンジする。彼の機嫌は運転に現れていた。対向車がいないのをいいことに、幅の狭い道路でスピードを緩める気配がない。エンジンは悲鳴をあげ、後部座席に陣取っていた僕の体を揺さぶってくる。窓の外と運転手から目が離せなかった。
カーブの瞬間、大きな遠心力がかかった。その反動でダッフルコートのポケットから顔を出した文庫本を落としそうになった。この運転は文句を言うべきだと、部筑に声をかけようとした矢先、彼が尋ねてきた。
「お前、本持っているんでしょ? 当ててみようか」
「さっき、部筑の前で読んでいたし、知っているだろ」
部筑は首を九十度回転させて、すっきりした鼻と大きな目の横顔を覗かせた。
「ブックカバー付きで、わからなかった」
言われてみれば、ゴム素材のブックカバーが文庫本の表紙を覆っているのを思い出した。
「どっちにしても、ダメ」
それが答えだった。
最初、彼の言いだした能力を信じられなかった僕は、部筑の本棚にあったもので試した。次の機会に古本屋で買った本を抜き打ちで試してみた。いずれも当たった。厚さ、ページを捲ったときの感触、舌触り、で、わかるのだというのが彼の持論だ。もちろん、買った本は彼の本棚に収まる結果となった。いくら二年来の付き合いとはいえ、同性の唾液がついた本を、他の本と接触させるのも、持っているのも気持ち悪い。それらを知った後、彼から本を借りた記憶はなかった。
「楽しもうぜ」
と言いながらも、自分の能力を披露しようとはしなかった。
初めは彼のスキルを普通に驚いていた僕だったが、いつしか心変わりしていた。
――いったい何の役に立つのか?
就職を目前に控えた僕だからこそ、この問いは色濃くなっているかもしれない。部筑は本屋に勤めているわけではない。将来の夢を、書籍関係の仕事に向けているようにも思えない。そもそも、先のことを話しあったら、決まってはぐらかされるのだ。もう何年かは遊ぶのだと。この旅が、彼の未来を象徴しているかのようだ。
三十分バスに揺られ、停車ボタンを押した。
路肩に位置する停留所へ降り立った。僕らのほかに、前輪タイヤの窪みがある席にすわっていたおじいさんは、物珍しそうな眼差しを送ってきた。その意図がだいたい予想ついた僕は、錆ついた時刻表と腕時計を見比べた。
「なあ、二時間に一本ってやばくない?」
午後三時四十分を示している。通り過ぎて行ったバスは、二十分前に到着するはずなのだ。
「山だからな」当たり前だろと言った態度である。
「日が沈みそうだし」
あえて後ろ向きな発言をする。自然の脅威なのか、土地全体の醸し出す雰囲気なのか、まったくわからない嫌な予感がしたからだ。部筑は欠伸を噛み殺した。
「山だからな。俺達の住んでいる神奈川の発想は通用しないから」
「地元民みたいだな」
「良かったら移り住んでもいいな」
期待を膨らませた声で言ったかと思えば、停留所から控え目に伸びしている登山道をズカズカと歩いていった。街灯はない。バスで登ってきた道を巡回する形でもあり、やや下りだ。
固い土の道を過ぎた先には、雑草の生えている道になっていた。その伸び具合かららすると、使用頻度の低い道としか思えない。少でも目測を誤れば、泥まみれの靴で散策する羽目になりそうだ。地盤の良さそうな道を歩いていても、スニーカーの靴底が完全にめり込んでしまう箇所もある。高く聳える木々達が日の光を遮り、つま先にまで寒さが伝わってきた。
右手側の曲がり道に入り、いきなり急こう配の坂が現れた。老木の根っ子は地面からむき出しになっていて、階段の役割をはたしている。吐き出した白い息をまた吸い込んで、膝に手を置きながら登った。このまま部筑に遅れを取ったら恥だ。だが、その考えも長くはつづかなかった。
「行き止まり?」
部筑はバックを探って、懐中電灯で照らした。上への景色がまだあるのにも関わらず、登山道はそこで途絶えていた。
「いやいや、トンネルがあるし」
部筑が指を差した方向には、斜面を無造作に切り取って、大きなドリルで開けたかのような黒い穴がかろうじて見えた。僕は目を凝らした。
「トンネルって……あれは何かの巣でしょ?」と言う前に、毛むくじゃらの熊を想像していた。
「調べてこなかったのかよ」
「無茶いうな」
急に連れてこられたのだから。両手を差し出し、手ぶらを示した僕に、苦笑いしてくる。
「あれが低雲丘の入り口」
「入り口?」
彼の言うとおり、その穴は中を覗いて見る限り、トンネル並みの舗装がされていた。心霊スポットに成りうる様相はしているものの、生き埋めになる不安は和らいだ。
「フウゥー!」
部筑は奇声を上げ、反射する自分の声で笑った。俺の声ってひどくね? と同意を求めてくる。低くて幾分こもったいつも聞いている声だ。
彼は外壁に足をかけて三角飛びをした。天井に伸ばした手が着いて、ガッツボーズを送ってきた。
「ここが、例の場所だな?」
腕を組み、大きく息を吸った。部筑は返事の代わりに「さむ」、そのままの感想を述べた。
満天の星空が開かれた森を照らしていた。落ち葉の群れは未舗装の道を平坦にしている。所々、掘り返した跡みたいなものがあった。綺麗な花は存在していない。『美景体系』写真の画像と比べても、かなり見劣りする場所だった。
「なあ、本当にこの場所なのか?」
思い返せば不自然極まりない。写真集に取り上げられるぐらいの場所だったら、案内の看板ぐらいはあるはずだ。
「一人の写真家が亡くなる直前、誰かに伝えようとした場所なんだぞ。人生観だって変わったのかもしれない。失礼だろ」
そう言われると、身も蓋もなかった。
「もっとテンションあげろよい」
飛び上がった体で体当たりしてきた。細身でも背の高い部筑、その衝撃で思わずよろける。
「うざいな」
「楽しいくせに」
「違うから」
と、僕は内側から込上げてくるものがあり、やがて二人は破顔した。
丘を登りきったところで、部筑は膝を折り、尻を浮かせる体勢で座った。高さは十メートルぐらいだろう。周りを取り囲んで切る木々の先端より少し低い目線だったので、山の下方にあるはずの海の景色は隠れていた。
ただ妙なのは、丘を中心とした半径二十メートル程の木々は、裸の枝が剥き出になっていて、その外枠が紅葉で彩られているのだ。つまり、景色を隠しているのは、外枠の紅葉だった。
「ここで人が殺された」殺された、をゆっくりと発音した。僕はとっさに地面を指さした。
「他にどこがあるんだよ」
「えっ……マジかよ?」
これは部筑の嫌いな問いかけである。特に引き締まった表情のときは怒り出しかねない。ただ、いちいち気にしている余裕がなかった。
「殺されたやつはある本を万引きした前科があった。それに腹を立てたってのが、動機だったらしい」
この場所へ来た理由がなんとなくわかった。「無理があるだろう。もっと違う恨みを買っていたとしか……」
僕の知っている報道には、この地域で殺人事件が起こったというものはなかった。
「あの殺人事件とは別件だ」
念のため確認した。あの殺人事件とは、横浜、新横浜で二人の犠牲者を出していた事件だ。
彼の話がもし本当なら、二人の犠牲者も同じ動機で殺されたと考えられる。嫌な予感が頭をよぎり、周りを見渡した。ふと、今立っている地面で目を止める。土にふりかけたような灰が混じっていた。
「嘘だろ……」
地震で大地が盛り上がったかのようなこの丘に、死体が埋まっているのかもしれないの…… 剥き出しになっている柔らかそうな土が多いのは…… そのせいか。
さっきとはまったく違った景色に思えた。
「殺人の心理なんて、知るかよ」
話を終わらそうとしている部筑に、必至で考えてから言った。
「で、でもさ、こんな場所で殺すなんて、可笑しくないか? 死体を運んで来たにしても、車通る道だってなさそうだしさ」
「そんな道があったらデートスポットになる。最悪だ」
ならないと想った。殺人があったのなら心霊スポットだ。少なくとも、地域住人は警戒しつづけるだろう。僕がこの場にいるのは、無知だったからだ。
「犯人が呼びだしたのかな?」あまり考えたくはないが、探るように訊いた。
「本が人を殺したんだ」
「はっ?」
聞こえなかったふりをしていた、いや、片方の耳から筒抜けになっていたのが正直なところだ。
「本が人を殺したんだ。間違いない」信じ込ませたいのか、感情が込められている。
「ちゃんと調べてないんじゃないか?」
「いくら捜査をしても、自殺の跡がないし、人が手を下した形跡もなかった。本が殺したとしか考えられないんだ」
眉間に人指し指を置いた部筑は目を閉じる。瞼が震えていた。
「おい、大丈夫かよ?」
「ある物語の話だ」
怒りを堪えた。冗談にしてはちっとも笑えない。しかし、部筑が僕の反応を見て、楽しんでいるようにも思えなかった。大きく息を吸うと、委縮した体に血液が流れていく感覚があった。
「なんだ、脅かすな。じゃあ着ている服が殺していたって結末でも出来るし」
丘から足を滑らせ転落死っていうガッカリする結末だって考えられる。果ては夢オチと呼ばれている物語のタブーをやらかしているかもしれない。
「それはない」あっさり否定してきた部筑は、目線を上方に走らせてから、さらに言った。
「ベルリンには、五階建てぐらいある本のオブジェがあって、それの下敷きになれば終わりだろうが、それもない」
「どうやって本が殺したっていう証拠があるんだよ?」
「本が人を殺した方法だって書かれていない。ミステリー小説の自費出版本だった」
いくつかのエピソードが謎のままになっているし、要は伏線の回収が完全ではないらしい。謎解きは読者に委ねたかったのか、あるいはそこまで考えていない可能性を疑った。
「作者の意図まではわからん」
「とある理由で、連載を中断の小説は別にしてもさ。売られている小説だったらありえないよな?」
「特にミステリー小説だったらありえないな」と補足し、部筑はつづけた。
「ただ、後書きには、半自伝的な小説となるであろうと記載されていた」
「本当の出来事をなぞっているとでも言いたかったのかな? いや、『なるであろう』だから、書かれた後に起こるって予言していたのか?」
「だろうな」
再び、緊張が走った。半自伝的とはいえ、五十パーセントが本当で、五十パーセントが嘘だとは限らない。予言となれば特にだ。
「似ていると思わないか?」
「似ているけど――本の世界だろ」
部筑は実際の事件と結びつけようとしていた。確かに、目撃証言はないようだし、自殺とも考えられない事件だ。しかし、本が人を殺すなんて、ありえない。絶対に犯人はいるはずだ。
「この謎を解き明かせば、現実で起こっている事件に繋がるかもしれない。いや、きっとそうだ」この根拠のない自信は天性なのだと思う。
「……すごい自信だな」
「騙されたと思って、調査協力してくれ」
今日だけで何回騙されたと思っているのか。頼む、部筑は頭を下げてきた。ここで嫌だと言えば、土下座する勢いがあった。
「とにかく、その自費出版本を読ませてくれよ。部筑のあらすじのみでは見当もつかない」
「手元にはない。これから探しに行くんだ」
「探しに行く?」
「ああ、手元にはないからな」
「タイトルは?」
「『ビブリオフィリア』。訳して書物愛」
顔を上げた彼の目は輝いていた。僕は天を仰いだ。