T.本は生きている
――フォンハイキテ――
いつかみた夢の続きなのだろうか。記憶が斑となっていた。四方が真っ白に囲まれた場所で、聞き覚えのある言葉が耳に入ってきた。ただ、一つ一つの発音が独立していて、曖昧だった。
――本は生きている――
今度は明確に聞きとれた。瞬間、膝に毛布がかかっているのが、視界に入った。
僕は本を読んだまま、寝入ってしまったようだ。時計は午前四を示していた。大体一時間眠っていたことになる。部筑は布団の中で、夢でも見ているのだろう。
「本は生きているか」
そう呟くと、僕はなんでそんな夢をみたのか納得した。『ブビリオフィリア』に書かれている文にも、同じようなものがある。しかし、違った記憶を呼び覚ましていた。
祖母の言葉だ。
就職活動の面接で、尊敬する人は誰ですか? 度々聞かれた質問だった。その企業色に合いそうな人物を答えていた。結果、祖母ですと答えた企業は必ず次の面接に進めるという経験則があった。これは他のとってつけたような嘘、偽りはいっさいない。
まだ僕が小さかった頃、実家の庭でプラスティックのバットを使って遊んでいた。すると蛾が飛んできて祖父の大事にしていた盆栽にとまった。バットで仕留めてやろう。振りかぶった矢先、蛾は次の目的地へと飛んで行った。でも、バットは盆栽を直撃した。
土と根っ子が離れ離れになってしまい、なんとか誤魔化そうと、根っこの上に土を被せてみたものの、何本かの枝も折れていて結局上手くいかず、庭にあったトタン板の押入れに隠した。
数日間、祖父は普段通りだったので、ばれずにすんでいると思っていた。祖父は痴呆症の前兆があったので、それも手伝っていたのだと思う。
僕は黙っていた。
祖父の記憶がすべて消えてしまえばいいとさえ思っていた。後から思えば、なんて残酷なことを考えていたのか。祖父に謝りたかった。
介護の苦労は報われず、祖父は間もなく他界し、盆栽のことも忘れかけている頃だった。陽射しが強い昼下がり、縁側で祖母の切ってくれた西瓜を食べていた。
――悪いことをすると、お天道様が何でもみているんだよ――
背後から、軽く肩に触れるような、小さな声だった。でも、僕には何よりも胸に刺さる言葉だった。
――なに、それ? ――
悪いことをして、生きているものを傷つければ、強く記憶に残る。生きていないものを傷つければ、記憶に残りにくい。相手がいないからだよ。でも、お天道様がみているから、本当は平等なんだよ。
小学校を卒業して間もない時期、祖母の容態は悪くなった。布団から起き上がれないようになっても、人や物に悪いことをしてはいけないという信念は変わらなかった。そして、
――本は生きている――
力ない声でそう言った。骨と皮だけの手が、祖父の神棚を向いていた。
祖母は、祖父の神棚に一冊の本を飾っていた。毎日のように線香をあげてから、必ずその本を手に取って、頭の上に掲げていた。真意はわからなかった。僕はいつも奇妙なものを見る眼差しをしていたからだ。
その本は、祖母の棺桶に納められた。
父親の話だと、彼女は読書家というわけではなかった。小さな茶色の棚に同化できそうな程、茶けた本が数冊置いてあった。タイトルやら、作家名が擦り切れていて、お世辞にも、読んでみようという気が起こらない代物だった。ただ、一冊の本に取りかかったら数カ月間、ずっと同じ本を読み続ける。一語一句、暗記するようだったと聞く。
どちらかというと、本を読んでいる人の姿を見るのが好きな印象が強かった。眼鏡を眉毛の位置までずらして、目を細めて読んでいる祖父を、こっそり観察している祖母を見たことがある。
――本は生きている――
今の僕には、祖父の思いを祖母が読みとったのだと思える。たった一度きりだったとしても、いつかまた、最愛の人の思いを読みとれるのではないかと考え、幾度も手に取っていたのではないか。だから、生きていないものでも大切にしろって、教えてくれたのだ。
部筑は心地よい寝息を立てていた。起そうか迷ったが、頭の中に渦巻いているものを取り除いてもらいたくて、彼の肩をゆすって起した。半目の状態だったのが、話をしていくうちに、ぱっちりしてくる。
「小園猛さんは、殺されていたのか……」
いろいろな新事実を知って驚愕しているのか、自分の推理が外れて悔しかったのか、部筑は言葉を失っていた。
「間違いないよ。そう読み取ったんだ」
鹿野隆が殺される直前、小園由美子が『父は殺された』と言っていたのも、やはり本当だったのだ。
「小園猛さんは、何かしらの不正を暴こうと調べていくうち、低雲丘にも足を運んだ。それか、他の場所で殺された後、低雲丘に放置された」
「とりあえず、油を被って焼身自殺の話は嘘だったことになるか」
「義男さんが故意で嘘を付いていたのだとしたら……」
いろいろな辻褄が合う。
「原稿の段階で、義男さんが阿武隈川の事件を削除しろと言ったのは、他の事件と違って浮いていたんじゃなくて――書かれては困ると思ったからじゃないか」
「ああ。小園猛さんは、妻の死の真相について、義男さんには話していない様子だった。でも、義男さんは、話してもらう必要さえなかった――義男さんが、小園猛さんの奥さんを殺したから」
「小園猛さんが殺されたのも、何かを掴んでしまったからなのかな?」
「時効が成立しているんだぞ」
そう、時効が成立しているのだから。なぜ、殺されなければならなかったのか。部筑は、小園夫妻の結婚記念日に注目した。一月二十日と言えば、
「そうか。横浜で第一の事件があった日と同じだ」
「でも、小園さんの奥さんが殺された日と、何か繋がりはあるのかな?」
T村阿武隈川の事件は、二〇〇九年の一月二十日と書かれていた。田中満高の殺された日とはずれている。しかし、二十年前に起こった事件を書こうとしていたことを考えると、一九八九年一月二十日としても、小園の妻が殺された一九九〇年一月二十日とは一年のズレがある。
「完全に再現させようとは思っていなかったんじゃないか?」
「辛くなるからかな?」
「何かしらの意図があって、やっていたのかもな」
「意図か……」
「妻殺しの犯人は、それがきっかけで次々に殺人を犯していくとか」
「少なくとも、書いている当初は犯人の特定が出来ていなかったとすると――」
ただ、証拠はなかっただけであって、僕達が置かれている状況のように、疑っていた人達はいたのではないか。頭の中にある豆電球が光ったような気がした。
「小園さんが犯人になりきって、実際に起こった事件の犯人候補になりそうな人間を、小説の中で殺していったって考えられない?」
そうやってカタルシスを得ようとしたのではないか。二十年前なら、小園猛は二十四歳だったはずだ。小説での殺人犯とは違う。阿武隈川の被害者を除くと殺されたのは三人。となれば、第一の被害者である大学生の男性、第二の被害者である五十代会社員の男性、第二の被害者である四十代の男性、つまり義男が含まれている。ただ、義男は四十代の男性とされているので、二〇一〇年の時点では六十代の男性ということになる。どんどん遠ざかっているようで、その推理事態は危険なものがあった。
「信二の能力からすると、死の直前に持っていた本はこれだな」
部筑はカバーなしだった本を手に取った。
「そうだと思う」死してもなお、抱きかかえて、我が子を守るように持っていた本だ。彼の望みは叶っていたことになる。
「で、こっちは」
「どうして、本にしようと思ったんだろうな? それほど、犯人が憎かったのかな」
「当然だろ。妻を殺されたんだぞ」
部筑はT村での阿武隈川事件が書かれている『ブビリオフィリア』を舐めた。
「こ、これは……」
「どうした?」
「不正の味がする」