R.疑惑
深夜、『ブビリオフィリア』を読んでいた。僕らと同じぐらいの年齢で書かれた自費出版本とはいえ、内容はかなりしっかりしたものだった。義男の言うように、肝心な殺害方法だけは欠如している。これでは、どんなミステリーマニアだったとしても、謎を解く前に犯人が死んでしまうだろう。
それとは裏腹に、僕達の調べていったT村や横浜、新横浜の描写が、現実と殆ど変らない点は驚きだった。あのビル群だって、二十数年前とは様変わりしているはずなのにだ。
どの事件も二〇一〇年に起こっていることになっている。義男が未来を予想出来ていたのではないかと考えたのも無理はないだろう。
T村の自然破壊を行う企業があり、犯人はそこでの全社員を憎んでいる。身長、服装といった外見的要素から、住んでいる場所までを克明にしている。それに比べたらストーカーなんて可愛いものだと思わされ、殺人計画を練っている箇所は鬼気迫るものがあった。
後書きには半自伝的な小説となるであろうと書かれている。僕は、こう考えた。
フィクション 人物(義男を除く)、殺人(第一、第二、第三の殺人事件)
ノンフィクション 場所(横浜、新横浜、T村)、義男
↓ 一九年後
フィクション 人物(義男を除く)、殺人(第三の殺人事件)
ノンフィクション 場所(横浜、新横浜、T村)、義男、殺人(第一、第二の殺人事件)
書き記してみて、くだらなくなり、発行日も発行出版社名も書かれていない本を閉じた。
鹿野紀子は明け方になってから帰ってきた。放心状態だったらしく、居合わせた部筑は、何を声掛けていいのかがわからなかったらしい。詳しい話しは当分聞けないかもしれないが、下手な慰めよりも、そっとしておく方が良い気がした。
朝、美佐江は義男と一緒に出勤した。もちろん、彼女が就職したわけではなく、ちょっとした手伝いがあったからだ。彼らには、鹿野隆の死を伝えていなかった。
T村の住人に聞き込みをしていったら、あっという間に日が暮れた。小園由美子らしき人物は、結局足取りさえわからずじまいだった。その間、低雲丘の入り口を通りがかると、バス亭からの入り口は立ち入り禁止になっていた。その中は大勢が立ち入った痕跡があり、きっと、僕の足跡も調べられていると思う。
足が棒になった状態で『希林寿』に戻る。目元に隈をまとった鹿野紀子は、しばらくの間、旅館を休館させると言った。僕達は金曜日まで宿泊延長しているが、それまではお世話をしてくれることになっていた。
午後八時過ぎ、美佐江達はまだ帰ってきてなかった。
部筑は持っていたマッチを取りだした。連絡したのは商店街にあるスナックだ。彼の受話器に顔を寄せ合った。
『ああ、この間の』
かすれた声が響く。スナックのママだ。後ろから、歌謡曲のカラオケ音が聞こえる。店を出たのだろう、それが遠ざかった。
「美佐江と五郎さんって、何か関係があるんですか?」
『予約かと思えば、関係って。エッチなこと言うんじゃないよ』
「違います」即答だった。
『冗談よ』手を立ててから、手首を軸として直角に倒す仕草をしている。という彼女の絵が浮かんだ。
「美佐江にはやさしいって、以前に言っていましたよね?」
『そのことね。美佐江ちゃんの父と五郎さんは知り合いでね。五郎さんの持っていた土地を高値で買い取っていたから、美佐江ちゃんにもやさしいんだよ。まっ、あの子が可愛いからじゃなくて、頭が上がらないんだろうね』
さりげなく敵対心を燃やしている。
「五郎さんはそちらの店には飲み行ったりするんですか?」
『たまに来るぐらいかな。専ら、『モダン酒場』に入り浸っているみたいだし』
ライターの音がし、大きく息を吐く音もした。
「ここ最近、様子が変だったってことはありませんか?」
『阿武隈川の事件があって以来、顔を合わせていないからね』
「ええ、阿武隈川の事件より前が重要なんです。知りませんか?」
『そうね――』
飲みに来てくれたら教えてあげる。なんて言われそうだ。
言われた。
「後で飲みに行きますから」
『男はすぐそう言うの。気を持たせておいて、ちっとも来やしない』
いわゆる社交辞令ってやつか。最近は羽振りが良い客も少ないのよと、訊いてもいない愚痴が飛び出してきた。
「時間がないんです!」
余りに大声だったので、僕は思わず顔を離した。
「絶対行きますから! 教えてください」
『わかったわ。イケメンに免じて教えてあげる』
去年の冬の時期、夜は冷えるからと、趣味の釣りは控えていたらしい。商店街の連中は、今年になり、どんなに冷えようが釣りに出かけている五郎さんを不信に思っていたと言うのだ。
『まあ、よそで女を作っている感じもしなかったけどな』
五郎さんは、六十を過ぎた今、一度離婚歴があって以来独身であって、何時に帰宅しようが咎める者はいなかった。
「何かを、隠している様子はありませんでしたか?」
『さあ。それなら『モダン酒場』の店主が詳しいでしょうね』
部筑は鼻で息を吐く。これ以上話をしても膨らまないなと思った矢先、ドアの開く音と共に、カラオケ音が吸い込まれ、遠ざかった。
『噂をすれば、なんとやらね。本人に聞いて頂戴』
スナックのママが、五郎さんを呼ぶ声がした。
『まだ、刑事の真似事をしているのか』
やや、不機嫌な声だ。
「忙しいところ、すいません」と下手に出る。
『ふん、仕事はとっくに終わっているよう』
部筑は、T村にいることも、沢村が来ていることも含めて、しゃべった。応答をする代わりに、喉がなる音がし、「あ~」と吐息を出した。
「ここ最近、小園由美子に会っていませんでしたか?」
『こぞの? 誰だそれ』
「いえ、間違えました。石崎義男さんです」どうやったら間違えるんだ。心の中で突っ込んでいると、
『石崎さん、を知っているのか?』
緊張が伝わってくる口調になった。
「ええ、今、俺らの宿泊している旅館で一緒なんです」
『家族ぐるみの付き合いってことか』
「まあ、そんなところです」
『石崎さんにはいつもお世話になっているよ』酔った勢いなのか、義男が顧客を紹介してくれていることまで、しゃべってきた。
「頻繁に、美佐江の部屋を訪れているらしいですね?」
そんな話し、していたか?
『本人がそう言っているのなら、そうなんじゃないか』
なぜ、自分に訊いているのか、五郎さんはよくわかっていない様子だ。
「阿武隈川で事件があったあの日、石崎さんが美佐江の部屋に来ていたと思うのですが、知りませんか?」
『知らんよ――でもよ、あの日は美佐江ちゃん、旅行中じゃなかったっけ?』
「ええ。美佐江の他に、部屋にいた人がいると聞いているんです。田中満高とは別の人間が」
『ははん。そいつが田中満高を殺した犯人だって、勘ぐっているのか――ちょっと待てよ』
五郎さんは、大音量のくしゃみをしてから、
『もしや、沢村が石崎さんを疑っているのか?』
「いえ、あの人は別の事件で忙しそうですから」
『別の事件?』
「それはいいとして、商店街に防犯装置とかないんですか? 古そうだから、設置を義務つけられているとは思えませんが」
『馬鹿言っちゃいけないよ』
ノリで、てやんでぃ、江戸っ子でぃ的なセリフを吐くのではないかと想像した。吐かなかった。
『監視カメラが二台、設置されているんだぞ。知らなかったのかよ』さも自慢気に話す。意外にも、 商店街の天井付近に吊るされているというのだ。悔しいけれど、知らなかったし、部筑も同じだった。
『沢村が田中満高を調べ始めたときも同じ質問されたんだ。商店街に防犯装置はないのかってな。んで、監視カメラの話をした。仕事場でその録画しているからな。見せてやったよ』
「その監視カメラは、美佐江の部屋の入り口も映っていますか?」
『角度から、一階は死角になっているな』
「なら、少なくとも二階から侵入した者がいたら、わかるってことですよね?」
『まあ、透明人間でもない限り、映るんじゃないか』
「なるほど」
つまり、鍵を閉めていた一階の入り口か、裏口なら、死角になっているのだ。監視カメラが二台といっても、商店街のすべてを見通せるわけではなく、必ず死角はある。ただ、そんなことまで知っている人間は、商店街でも少数とのことだ。
「石崎さんと、美佐江は監視カメラがあって、五郎さんの仕事場に映像が送られていることを知っているんですか」
「美佐江ちゃんはどうか知らねえが、石崎さんは知っているはずだよ。あの店舗を借りるときに、映像をみせたり、説明もしたしな」
五郎さんとの電話を切って、僕らは軽く放心状態に陥っていた。疑っていた者が、刻一刻と犯人像に繋がっていく。五郎さんには悪いが、彼に殺人計画を隠し通せるだけの頭脳と、実行する力があるとは思えなかった。
僕が鹿野隆の遺体を発見したとき、『ブビリオフィリア』を持ち帰らなければ、犯人は鹿野隆になり、一連の事件は本の内容と酷似している事実に驚愕するのだが、一件落着で終わっていたに違いない。だが、それを考えても、もう遅かった。
義男が事件捜査で僕達を巻き込むようにしたのは、いざというときの証人になってもらおうとしたのだろうか。重ねられた嘘に、すっかり騙されるところだった。
人は、小さなものから大きなものまで、優しいものから欺くものまでをひっくるめ、一日平均で六回の嘘をつく。どこかの心理学者が言っていた。義男の嘘の数は、平均値を若干高めている程度なのだろう。
しかし、大罪を隠すための嘘だ。
部筑は義男を犯人だと想定した、ある計画を話し始めた。