Q.解決の合図
「まさか――熊に殺されたなんて言うんじゃないよな?」
部屋に集まった三人に事情を話し、部筑は片目を細めた。今頃、低雲丘は現場検証されているのだろうか。複雑な気持ちだった。
「まさか、じゃないって。襲われた衝撃で、持っていたたいまつの炎が身体に移った。それしか考えられないんだ」
僕だって、そんな嘘みたいな推理をしたいわけではない。
「熊らしき足跡が森に続いていて、横っ腹に爪の跡があったのなら、考えられなくはないですね」
と言った義男はスーツ姿のままだ。
「ええ」
「争った形跡とか、被害者が逃げようとしていた形跡はなかったんだろ?」
「そうは言っていない。血痕もなかったけど、燃えた勢いで周りの雪が溶けていたし、それに」
「それに?」美佐江は顔を寄せて来る。離れるのが惜しかったが立ち上がった。
「この本が落ちていたんだ」
暖房の近くに置いておいた『ブビリオフィリア』を見せた。
「これは……」
最初に反応したのは、義男だった。念のため、小園猛が出版したものかを訊ね、彼は肯定した。
「犯人が小園由美子だったとしたら、父の作品を燃やそうとはしない。だろ?」
「背の部分に、ラベルがあるね。図書館のやつかな」
美佐江が触れた。なぜか匂いまでかぐ。
「濡れていて、開けない」
「あんま、触らないで。乾いたら読めるようになるから」
取り上げると、元の位置に戻した。
「僕が発見した遺体は鹿野隆さんだって思うんだ。体格も良かったし、鹿野紀子さんに聞いた外見の特徴とも繋がる。左近字図書館員の加藤さんだって、『ブビリオフィリア』を万引きしたのは鹿野隆さんって言ってたし」
「うーん、どうも解せないんだよな」
「私も」ついでに義男も部筑の意見に賛成している。
「義男さんに脅迫文を送っておいて、なんで鹿野隆さんが殺されているんだよ」
何回か考えていたことだ。午後六時を過ぎても、僕の他に人気はなかった。低雲丘までの道にあった足跡がそれを証明してくれる。答えは出ていた。
「犯人にとって予期せぬ出来事だったからじゃない? 本当は義男さんを待っているはずだったんだけど、熊が現れてしまって」
「たいまつは、何のために持っていたんだよ?」
「温まるから。とか、言いづらいんだけど――義男さんを殺す手段に使おうとしたとか」
落ちていた『ブビリオフィリア』を手に取り、あの感覚がこなかったのは、不慮の事故だったからだと考え始めていた。逆に、誰かに殺されたときのみ、あの感覚が来るのではないか。
「あるとしたら、後者でしょう」
義男の表情は硬かった。
「どちらにしても、義男さんが無事だったんですから。良しとしましょうよ」
僕は残酷なことを口走ったとは思っていない。後は小園由美子を見つけるのみだ。これで本当に事件解決するのかと思うと、幾分気持ちは楽になった。
午後十時頃、風呂上りで階段を登っていたら、下から着信音が聞こえてきた。鹿野紀子が出たようだ。それに後ろ髪を引かれて、立ち止まっていると、徐々に、泣き声が混じった応対になってきた。
思わず、引き返した。鹿野紀子は電話器の前で膝まずき、両手で顔面を覆って泣いていた。
「どう、しました?」
待った。いつまでも待つつもりだった。しばらくしてから言った。
「主人が、遺体で発見されたみたいです」
場所は低雲丘だ。尻ポケットに入っていた財布の中から、鹿野隆さんの身分を証明するものが見つかったらしい。発見したのは僕です、現場に残されたものを預かっています、とは言えず、言葉を失った。
「すいませんが、少しの間、旅館を開けますので。何かあったらこちらにご連絡ください」
鹿野紀子が指したのは、電話器の後ろの、十一ケタの番号が書かれた張り紙だった。こんな事態でも、僕らを気遣っている彼女を前に、居たたまれなくなった。
「まだ、決まったわけじゃありませんよ」と声をかけるのが精いっぱいだった。
警察に呼び出された鹿野紀子は、『希林寿』を出ていった。
部屋にいた部筑は、『ブビリオフィリア』の背を摘まみ、中をひらひらさせるように動かしながらヘアドライヤーを当てていた。
「おい、何やっているんだよ」わずかだが、焦げくさい匂いが室内を漂っている。
「早く乾かしたいんだ。結局、事件に振り回されている俺達は、元凶のこの本を読んでもいないんだからな」
「元凶とか言うな。小園猛さんに失礼だろ」
静かにドアを閉める。部筑はドライヤーを固定したまま、話をそらした。
「本のテイストは、乾いた状態じゃないと出来なさそうなんだ」作者は小園猛だってわかっているのに、本のテイストをする必要なんてない。鹿野紀子の境遇と、部筑の呑気さの落差に、苛立った。
「だから、焦げるって」
部筑から奪い取る。
と、何かしらを愚痴っている部筑の声が遠のいた。
《私ノ犯シタ罪ハ 二ツダケダ――》
《――盗難ト ヤッテモイナイ 殺人容疑デ捕マッテシマイ 妻ヲ一人二シタコトダ》
《服役中 一通ノ手紙ガ 届イタ――》
《――小園猛サン トイウ方カラ 私宛二》
《旅館ノ主人ヲ 殺シタ犯人 ソイツヲ捜シテイルト 書カレ――》
《――出所シタラ 左近字図書館二アル アル本ヲ借リテ 欲ホシイトモ》
《真相ヲ訊クコトハ 出来ナカッタガ 彼ナリノ 事情ガアッテ――》
《――アルイハ 私ガ 出所シタコトノ 合図ヲ確認スル為 ダッタノカモシレナイ》
《彼ノ 指示通リ 出所シテ直 アル本ヲ 借リヨウトシタガ――》
《――盗難シテシマッタ 図書館員二 身分ヲ晒スノハ マズカッタカラダ》
《結局 小園猛サントハ 会エナカッタ――》
《――ソシテ 犯人ヲ知ッテイル者カラ 葉書ガ届イタ》
《約束ノ低雲丘二 向カウト 女ノ子ガイタ――》
《――女ノ子ハ 私ヲ 父殺シノ犯人ダト 勘違イ シテイタ》
《混乱シタ 事件トハ 金子ガ殺害サレタコトト 無関係デアリ――》
《――女ノ子ハ 私ヲ 殺害スルツモリデ 呼ンデイタノダ》
《奇シクモ 彼ノ子供カラ 彼ノ死ヲ 告ゲラレタ――》
《――女ノ子ノ 名前ハ 小園由美子 小園猛サンノ 子供ダッタ》
《初メテ会ッタノ二 コンナ形二ナルナンテ――》
《――女ノ子ハ 熊ノ足ヲ 履イテイタ 低雲丘二来ル 途中デ見タ》
《アノ足跡ハ ソレナノダロウカ――》
《――女ノ子ハ 右手二 熊ノ爪ヲ 嵌メテイタ》
《熊ノ爪ハ 私ノ 脇腹二 向カッタ――》
《――ドウシテダロウ 傷ヲ負ッテカラ 何モ感ジ無ク ナッテイタノ二》
《妙二 体ガ 熱イ――》
そこで途切れた。眩暈も感じる。
「おい聞いているのかよ!」
いつの間にか、部筑は激昂していた。もう、隠してはおけないと、全神経が訴えかけて来る。
「なあ、僕のこと、信じられるか?」
「はあ~シカトしておいて、何だそれ?」
「真面目に訊いているんだ」
僕の顔が相当怖かったに違いない。日頃、穏やかなキャラだったのが役に立っている。部筑は後ずさりしてから頷いた。
「まあ、信二は裏切ったりする奴じゃないよな」
「聞いてくれ――」
こんなにも、慣れ親しんだ部筑と話すのに緊張したことはない。このまま黙っていると、吐しゃ物を吐き出してしまいそうだ。
「本から、死者の訴えを読みとれるんだ」
部筑の視線は、僕の目と『ブビリオフィリア』を往復した。
「僕は、何度も読みとった」
部筑から、初めて書籍ソムリエの話を聞いたとき、しばらくの間、その能力を信じなかった。むしろ、異端の人間を色眼鏡で観察し、信じられるわけないじゃないかと、強く反発していた。
世の中、霊能力者や超能力者といった、特殊な能力を持っている人は沢山いる。テレビに出て来る人だけでも沢山いるのだから、隠している人や、自称を含めたら、気が遠くなるぐらいの数がいるだろう。
しかし、彼らは科学者によって否定されている。本当に能力を持っていたとしても、ひと握りに過ぎない。その下には、人を欺く術を研究しているだけの能力者がごまんといるだろう。そこにはエンターテイメントを重視した能力者も混ざっている。ある種、本当に能力を持っている人間を上層としたピラミット構造の中で、嘘の能力者は下層だ。まして身近な人間、少し皆と違った雰囲気を持っている奴の、虚言だと思っていた。
信じさせるには、信じさせるための証明が不可欠であることも知っている。言葉で欠けたものは、行動で示し、行動でも欠けていれば、別の人をつかってでも。ただ、今の僕には、何も……なかった。
「俺と似たような能力じゃないか。すげえな」
肩を叩かれた。やっぱり友達になっておいてよかったよ。同じものを前から感じていたんだと部筑は付け加える。
「えっ? 信じてくれるのか?」
「しつこいぞ。お前が打ち明けたのにはわけがあるんだろ。話してみろよ」
やはり、部筑に打ち明けたのは正解だった。胸の奥で固まりになっていたものが、氷解してくようだ。僕は涙を堪えた。
「鹿野隆さんは人を殺していなかったよ。あの人は、単に殺されたんだ。小園由美子によってな。この本が訴えかけて来たんだ」
「犯人じゃなかった、ってことか?」
部筑は探るように問うてきた。
「ああ。小園由美子は動物学を専攻していたのは覚えているか?」
「美佐江が言ってたな」
「黒岩さんには、T村に生息する動物を訊いていた。それでピンと来たんだ。自分が熊になりすまし、鹿野隆さんを殺し、熊が殺したと思わせようとした」
「マジかよ」
「沢村が持ってきた本からも訴えを読みとった。それと合わせていくと……」
言葉尻を濁し、『ホテル・旅館ソムリエ』と『どん底からの億万長者への道』、蛍光の本を並べた。
「今も読み取っているのか?」
「いや、残念ながら、読みとれるのは一回だけなんだ。その後は何事もなく消えてしまうというか。たぶん、成仏してしまうんだと思う」
「ふーん、不便なんだな。で?」
蛍光の本に触れた。
「田中満高が美佐江の書斎に侵入したとき、小園由美子ともう一人の中年が殺人計画を話していたらしいんだ。田中満高は彼女のストーカーだし、顔も知っていた。彼はそれを盗み聞きしてしまったせいで、殺されてしまった。で、一人の中年は鹿野隆さんじゃなかった。鹿野隆さんは、殺される直前、低雲丘で初めて小園由美子と会ったから」
「小園由美子は犯人確定として。別の共犯か……」
僕としては絶対、疑いたくなかったのだけれど、疑わざるおえない人物がいる。
「それと、小園猛さんは自殺したって言われていたけど、小園由美子は他殺だと思っている。鹿野隆さんが殺したんだと、誰かが小園由美子に吹き込んだんだ。部筑が疑問に思っていたことと同じだな。なぜだかはわからないけど。でも、そう思わせる要因が必ずあるはずだ」
「別の共犯が小園猛を殺したか、本当は自殺だったけど鹿野隆さんが殺したって教え込んだのか」
「後者であってほしいけど」
どちらにしても、鹿野隆は殺されてしまった。鹿野紀子の泣き顔が浮かんでくる。
「なあ、美佐江の書斎の話しに戻るけどさ。あのとき、俺が二階の窓の鍵を閉めていたとしたら、入口の鍵を開けられるのは大家である五郎さんか……」
「義男さんだ」
商店街での聞き込みで、不審人物の目撃証言がなかったのも、そのせいなのか。美佐江の書斎に入って不自然じゃない二名のうちのどちらか、加えて小園由美子。いや田中満高が侵入している時点でも手掛かりがなかったのだから、不審人物の目撃証言は当てにしないでおくとして。問題は、なぜ美佐江の部屋に集まっていたのかだ。確かに、五郎さんか義男と、小園由美子が会う場所に適しているかもしれない。ただ、確実に殺人計画を話し合うのだとすれば、美佐江が海外旅行に行く情報も、部筑と僕がT村に行く情報も掴んでいるはず。強いていうなら、僕達三人が留守にしていることも、知っている人間がいる。
僕は、金子大輔と城島博志から読みとった内容もすべて話した。随分身体が軽くなった気がする。部筑は、T村を訪れる前あたりから、義男のことを疑っていたようで、理由は度重なる偶然があまりにも出来過ぎているからだった。
廊下から、美佐江の笑い声が聞こえてきた。足音は二つ、恐らく義男のものだろう。
記憶を遡っていく。テレビの報道より先に現場を訪れていた。
やはり、美佐江も加担しているのか……小説通りに殺人事件が起こるなんて、本気で信じられる者なんて、条件は限られている。その条件を満たしているのは、石崎親子だ。
部筑は『㈱エコノミーテクノ』で、僕が抜け出している間、義男と美佐江に事件当時のアリバイを確認していた。第一の事件が起こった二〇一〇年一月二〇日、義男は海外出張から帰ってきて、会社に寄らずに直帰していた。死亡推定時刻は午後五時から六時までの間、その間、義男は夕食中だったと言う。美佐江は部筑と一緒にいたのでアリバイはある。第二の事件が起こった二〇一〇年一月二八日、義男は会社で仕事中だった。美佐江はスリランカへ行く前に僕と会っている。その日の夜、『密造書展』での密会。これらは、関係者と口合わせさえしていれば、犯行しえることを意味していた。
「それにしても、読みとった内容を良く覚えていたな。読みとれるのは一回だけなんだろ」
部筑にこれ程、褒められたのは初めてだ。
「まあね、記憶力には自信があるんだ」
「前に、竹取物語の一節を丸暗記していたっけ?」
「そうそう。就職の面接でも、何回か披露した」
「就職面接ってさ。半自伝的小説みたいだよな」
はっ? 思わず訊き返した。
「また、わけわからないことを」
「だって、全部がノンフィクションじゃ、なかなか内定もらえないだろ?」
「わかるように説明してくれ」
「例えばだぞ」
話しには起承転結がある。就職面接で、学生時代に取り組んだ活動を質問されたとする。僕がある研究の取りまとめ役をやっていたが『起』、ある研究の成果を『結』。何となく他の人に役割分担をするが『承』、計画性がないうちから研究に取り組み、予想異常に苦労したが『転』。
真実だったとしたら、全部がノンフィクションだ。それでは面接官のつける評価が低く、受かる見込みもなくなる。
各個人の適性に合いそうな役割分担をし、やる気が薄い人を説得させて、全体の研究意欲を高めたが『承』、ちゃんとした計画を立ててから、先を想定して研究に取り組んだが『転』に作り替える。つまり、『起』と『結』を偽っていなければ、『承』と『転』をリアリティ―のある嘘に作り替えても、罪にはならず、面接で受かる見込みが上がるというのだ。
これが半自伝的小説だと、部筑は説明する。確かに一理ある。
「てか、研究も、取りまとめ役もしていないし」
「例えばだって」
部筑は就職活動を甘く見ている、とは思えなかった。