P.焚書(ふんしょ)
個室で昼食を終えた頃だった。
「小園猛さんは、本当に自殺だったのでしょうか?」
部筑が言いだした。社員食堂から借りてきた食器をまとめていた美佐江は、
「どうしたの急に?」
と、動作を止めた。
「まずは自殺を志願した動機ですよ」
部筑は黒岩が話していたこと、『㈱エコノミーテクノ』をあまりよく思っていないことを含め、小園猛がなぜ自殺したのかを疑問に思っていた。
「以前と変わってしまったこの村に失望していたのなら、父親を見習い、再生計画を考えそうな気がするんです。たった一人の娘さんを残し、自らを死に追いやる動機としては不自然すぎる」
「出版事情とか、自著が盗まれた影響も絡んでくるんじゃないの?」
「それは置いておくとして――」
美佐江の問いかけをさらりとかわし、義男に向き直った。
「神奈川県警が小園猛さんの携帯電話を持っていたんですよね?」
「――そうですね」
「変じゃありませんか? 焼身していたのなら、携帯電話も一緒に燃えているはずなのに、使える状態になっていた」
「携帯電話は、実家に置いてたんじゃないの?」
僕も部筑の着眼点に疑問を持った。
「いや――仮に、小園由美子が警察へ捜索願を出していたとしてもだ。その前に実家とか、小園隆さんがいそうな場所ぐらいは調べるだろ? それに、小園由美子らしき人が第一発見者だった。なのに、神奈川県警が携帯電話を持っていた」
美佐江が首を傾げている。
「こうは考えられませんか。焼身自殺しても、携帯電話は小園の家か、遺体発見現場の傍にあって無事だった。小園由美子がそれを見つけていたが、捜査のため、神奈川県警に渡した。例えば死の直前に連絡を取っていた人物を特定しようとして」
義男と同感だった。
「んん、どちらにしても、疑問ですね」
部筑は顎に手を置いた。
「なぜ、T村であった自殺なのに、神奈川県警が調べていたのか。T村に警察がいない、なんてことはありませんよね?」
「ないですね。警察がなかったとしても、近隣の警察が調べるでしょうし」
「発見者が通報した地元警察が自殺と断定していたけど、神奈川県警が他殺として捜査しているんじゃないかって思っています」
部筑お得意の、根拠のないひらめきだった。
「自殺と断定できない、何かしらの理由があるはずです」
一階の打ち合わせスペースで、食後のコーヒーを飲んでいた。奥の窓際の席は、日本人の平均身長ぐらいはあるだろうか、ついたてのような薄い壁で仕切られている。廊下やその手前の打ち合わせスペースから隠れるようになっていて、そのパイプ椅子に座っていた。
小園猛が殺されていたのなら、小園由美子がその関係者を殺している動機がしっくりくる。という話を、義男が仕事で個室を出ていくまでしていた。
――ただ、なんのために?
小園猛は、『ブビリオフィリア』を回収するため、動き回っていたのではなかったのか。違ったのなら、犯人にとって都合の悪い事実を知ってしまったのか。
彼が残した本さえ手に入れば、きっとわかるはずなのに。
悔いていたら、社員らしき男二人の会話が聞こえてきた。
《最近入ったあの子、今日もいないじゃないか》
《ああ。今日も地質調査とかで、どこかに出かけているらしいぞ》
その後、二分ぐらいつづいた。知らない専門用語が出てきた。ただ、話の脈略から、地質調査の専門用語ぐらいは読みとれた。
《そんなに調べることあんのかね。やってもらいたい仕事は山ほどあるのに》
呆れている。
《さあ、お偉いがたのお気に入りだからな。ちょっかい出すなよ》
――最近入ったあの子? お偉いがたのお気に入り? もしや。
いや、そんなはずはない。義男は小園由美子の顔は知っているのだから。もしそうだったとしたら、僕達を会社に招いたりはしないはずだ。
紙コップをゴミ箱に捨て、個室に戻った。
僕は目を疑った。
ドアからの位置に部筑の後頭部があり、それと重なるように、美佐江の顔が少し見えた。
「な、なにを……」
美佐江の顔が、横にスライドした。
「どうしたの。怖い顔して?」
「い、いや。今二人して何をしていたんだ? 顔を寄せ合って」
――キ……ス……
膝から崩れ落ちそうになっている。
「ああ。ブックのコンタクトにゴミが入ったみたいで。見てあげていたの」
瞬きしながら振り返った部筑は、もう大丈夫そうと言う。
「お前、俺達が内緒でキスしていた、なんて思ってたんじゃないの?」
「なぜ、わかった?」
「図星かよ――違うって。テレビドラマでもっと勉強しろ」
ドラマのキスシーンは、俳優、女優が必ずしもキスをしているわけではなく、カメラアングルの角度で、キスをしているように見せてかけている。か。二人にその気はない。一人で高ぶっていた自分が恥ずかしくなった。
「ええ、そうなの? もう、落ち着いてよ」
深呼吸してみる。上手く笑えなかった。
午後四時三四分、皆に内緒で会社を出ていた。仲良さそうな二人に嫉妬している自分が嫌になったのも、認めるしかない。ただ、犯人へ歩み寄るには、下手に計画的より、たまたま居合わせた観光客ふうに装った方がいい。つまり、低雲丘に張りこんでいた部筑や、小園由美子に知られている美佐江が同伴するよりも、一人で行動すべきだと判断したのだ。無断で拝借した懐中電灯がなくなっているのだから、もう気が付かれる頃かもしれない。
バス亭からの入り口には、人の足跡と、動物らしき足跡がつづいていた。雪が積もって足跡の輪郭がぼやけているが、かなり大きな動物のものだとわかる。熊か? 道路には車体のタイヤ跡があるが、それらしき足跡はなかったので、道路を横断してきたわけではなさそうだ。じゃあ、どうしてここから足跡が始まっているのだろうか。まさか、車が運んできた熊を、この位置で放ったのか。
いや、人の足跡を気にするべきだろう。まだ新しいものに思える。犯人かもしれない。バス亭に来る前の歩道にも似たような足跡があったのは、ずっと歩いてきた証拠だ。
懐中電灯を照らす。肝試しとは違う恐怖が混合している。様々な情報が錯綜し、歩を鈍らせていく。早くも、一人で来たことを後悔しはじめた。
僕は足跡を踏まないように歩いた。会社を出て五十分以上経過しているのに、携帯電話は鳴らない。ちょっと悲しくなってくる。
トンネルを抜け、低雲丘の雪景色を目の当たりにしていた。足跡はまるで人間が熊の散歩をしていたかのように、並んで丘の上へと伸びていた。丘を登っていたら、頂上に窪みが見えた。いろんなものが焦げた匂いが漂っている。慎重に近づく。
そこには、人体らしきものが置かれていた。
いや、人体だったはすだ。
脈動が身体全体を動かし、地震を体感しているような気分だった。
黒焦げた遺体だ。仰向けに倒れている。がっしりした体格は男だろう。厚い胸板に太い腕が、焦げた皮膚からでも目立っている。雪に埋もれているというより、燃えた勢いで周りの雪が溶けているようだ。
足の部分だけ完全には燃えてなく、足の甲の皮膚が禿げあがり、ピンク色になっている。いや、尻の部分も履いていたであろうGパンの生地が残っている。全身に燃え移るまえに仰向けで倒れ、雪の接地面の一部は燃え切っていないのかもしれない。
胸には、焦げたたいまつらしきものが置かれている。横っ腹には五つの小さな空洞があった。
心臓の弁が不規則に動き出した。
「……死んでる」
ようやく、呟けるようになった。雪が降っているというのに、傘も持っていなかったのか。それとも、燃えてしまったのか。
そばに本が落ちていた。
身体が燃えたときに、手放したのだろうか。カバーの半分は焦げた跡がある。
『ブビリオフィリア』の印字がある。
僕はその本を手に取った。本は、ふやけていて、水浸しになっていた。
あの感覚がこない。
自殺で、無念がないのだろうか。あるいは万引きした本で、後ろめたさがあったのだろうか。わからない。知りたくもない。まず、この状況をどうにかしないと。
本を開いた。水を含んだ紙は、ちょっとの負荷で破けそうになっている。加えて明かりの乏しい夜、とても文章を読める環境ではなかった。
辺りは、裸の枝に雪が積もった景色が広がっていた。裸の枝は闇の中に溶け込んでいて、緩やかなカーブを描いた雪達が、空中に浮いているように見える。低雲丘という名の由来を体感していた。ところが、景色を味わっている余裕はないと諌め、視線を丘の真下へと走らせた。
丘の斜面に滑り落ちたような跡があり、その摩擦で削られた箇所から、地面が薄ら顔をだしている。その下に熊の足跡があった。はっきりしないが、足跡は森の中へと続いているようだ。
深呼吸をする。僕は携帯の電源を入れた。
「お願いがあるんだ」
「今、どこにいるんだよ?」
信二と、後ろから聞こえて来る。
「後で説明する。それより、どこからでも良い。公衆電話で通報して欲しいんだ。匿名で」
「わかった。どう通報すればいい?」
「低雲丘で人が死んでいる。と伝えてくれ」
携帯のデジタル時計は、十八時一分を示していた。
遺体に背を向けた。永遠とも思われる二十分間を過ごしていたが、犯人の現れる気配はなく、心底冷え切った体を動かす。
どうして、こんなに落ち着いているのか、自分でもわからなかった。悲しむわけでも、畏怖するわけでも、叫ぶわけでもない。ひょっとしたら薄情な人間なのか、不安になる。
通り過ぎていくテールライトを茫然と見つめ、淡々と帰路を辿っている。脳から思考停止命令を出されているのならば、皆と合流するまでつづいてほしかった。
『希林寿』で、鹿野紀子が迎えてきた。部筑達はまだ帰ってきていない。
「夕食はいりません」
「体調でもくずされましたか?」
「大丈夫です。ただ……」
僕は持っている本に目を落とした。
「いえ、何でもありません。ちょっと部屋で休んでますので。帰ってきたら知らせてください」
『ブビリオフィリア』の前書きがあった。
――この本は亡き父親に捧げる。
自然破壊は災いを齎す。
どうかこの書によって、災いが防げることを――
「災い、か」
呟いた。防げることを願って書かれたものが、逆効果になってしまっていると知ったら、どう思うのだろうか。あまり考えたくはなかった。せめて、死後の世界で彼の父親と再会しているのを願った。
次のページを開こうにも、ひっついて上手くいかない。本文を読むのは、水気が引いてからでもいい。布団に身を投げた。目を閉じる。
低雲丘の光景が蘇ってくる。すると、目撃したもの達が一斉に襲いかかってきて、震えあがらせた。なんでもっと早く来てくれなかったのかと、叫び声が聞こえてきそうな気すらする。死体を発見した後の精神安定法を、五郎さんに聞いておくべきだった。
駄目だ。
目の前を暗闇で満たすと、何を考えてもあの光景が蘇る。さらに、人体が燃えている姿を、丘の下から傍観しているところまで想像が膨らんでいく。僕はその場を一歩も動けない、気の弱い野次馬だ。
なぜだ。犯人でもないのに、こんなにはっきりと炎の中でもがいている人間までもが頭の中に描かれているなんて……
目を開ける。これが終われば、低雲丘の遺体の第一発見者だと、名乗りでるつもりだ。そうでもしなければ、いつまでもあの光景に震えてしまいそうだ。
結局、一階に降り、鹿野紀子をつかまえた。低雲丘の遺体は鹿野隆なのかもしれない。それとなく、外見の特徴を訊き出すつもりだ。
「鹿野さんのご主人が捕まったとき、どんなお気持ちでしたか?」
いったい、何が起こったのかも把握できないまま、すべてが終わってしまった。彼女の心境は、遺体を発見した瞬間と似ている。もちろん、それは勝手な想像だけれど、力になってあげたい衝動に駆られる。しかし、あまりその話を掘り下げるべきじゃないと、彼女の表情が語っていた。
鹿野隆は体格が良く、僕より一回り大きな体をしている。休日は、隣町にあるスポーツジムに通っていたらしい。肉体を維持することで、歳の差をカバーする意図があったと言う。鹿野紀子は夫を思い出してしまったのか、いや、どんな時であれ、忘れたことなんてなかったが、彼の優しさを口に出し、相反する権力を呪う力が余計に強まったのか、瞳に影をおとしていた。
低雲丘の遺体に繋がる。もちろん、断定はできなかった。
外が光った。タクシーがUターンしている。
部筑が先頭に、美佐江と義男が帰ってきた。