M.死者は語る
火曜日の朝、昨日と同じく、部筑は低雲丘の偵察に出かけた。適当に頷いて、彼を見送る。調査報告をしてこないのは、めぼしい結果が得られていないことが垣間見られた。
ロビーで待機していると、忘れもしない人物が現れた。身を隠そうとしたが、遅かった。沢村だ。
――なんでここに?
五郎さんにも居場所は教えていなかったはず。T村へ旅行した話はしていたが、一回行けば、当分訪れることはないと考えるのではないか。いや、刑事にはそんな常識が通用しないのか。
僕の顔を確認し、ほほ笑んでくる沢村は建物内に入ってきた。
「いや、冷えるね」
「ええ、まあ」
「もう、本を持ってきてほしいってお願いしておきながら、いなくなるんだから」
「そのために来たんですか?」
「と、言いたいところだけどね――」僕の顔から視線を外し、旅館内に目を配らせた。
「あれ? 女将さんは留守なのかな?」
「いえ、さっき見かけたので、旅館内にいると思いますけど」
事前に連絡を入れていたのだろうか、沢村は『希林寿』の女将さんを知っている様子だ。なら、僕達が宿泊していることも鹿野紀子から聞いていたのかもしれない。
「どうして沢村さんがここに?」沢村は、それはこっちが訊きたいと冗談半分に答えてから、
「被害者の金子大輔さんと城島博志さんはT村出身なんだよ。聞き込みにくるのは当然だろ?」同意を求められても困るばかりだ。
「城島博志さんも、ですか?」
「あれ。その様子だと、金子大輔さんがT村出身だったのは知っていたのかい?」
――しまった……
どう誤魔化そうが迷っていると、沢村は口角を上げる。
「ここで会えるなんで奇遇だね。実はね、君たちにT村の話を聞いてから、被害者の経歴をいろいろ調べてみたんだ」
僕達に執着しているとでも言いたいのだろう。頭の中は、この場面をどう乗り切るかでパンクしようだった。
「城島博志さんは六年前まで、T村に住んでいたんだ」
わけあって、城島博志は神奈川の方に移っていた。ここ数年のことらしい。それで、本の万引きを繰り返していた。だけど、中流家庭みたいだし、どうして本の万引きをする必要があったのか。を自問自答してから問いかけてきた。
「金に困っている様子もなかった。どう思う?」
「そうですね」
万引きが常習化しているのなら、味を占めていたのかもしれない。お金よりもスリルを求めていたりして。
「そうだよね――」彼なりに納得していた。
「あ、約束の本、持って来たよ」
沢村が本を持っていたのは、いつ僕にあっても良いようにとのことだった。沢村の持っている『どん底からの億万長者の道』は文庫本だった。
触れてみる。待っていても、あの感覚がこなかった。
胸をなで下ろした。本を触る度に激しい頭痛を味わってしまったら、トラウマになりそうだ。
ページを開いた。総ページ数が被害者の傷の数と違うのはすでに知っていたが、気になってはいた。二百七十ページ目、文字の脇には線が引かれていた。しかも、義男が指摘してきた箇所と、殆ど一致している。
「この本、少しの間、貸してくれませんか?」
時間が経てば、あの感覚が来るかもしれない。
「ここにいる間だったらいいよ」
沢村は何日かT損に滞在する予定らしい。
ただ、あの感覚がこなかったのは、なぜだ。いや、城島博志が死んだ後になって、犯人が彼に持たせたものじゃないのか。殺害された時間を考えれば、本人が万引きして、読み、線を引いている時間もなかったはずだ。
鹿野紀子は浴場のある方から歩いてきた。警戒しているのだろうか、僕達を見て、片目を歪ませた。
「ちょっと、ここの女将さんに用があってね。君は席をはずしておいてくれないか?」
半ば、強引にその場を追いやられ、二階に駆け上がり、僕の会った刑事が来ていることを知らせた。
「マジで!」
「しっ。声がデカイって」
沢村と鹿野紀子はロビーを抜け、食堂で話しあっているようだった。
僕達は忍び足で廊下を歩き、彼らから見られない角度の位置で、聞き耳を立てた。
断片的だが、その話声が聞こえて来る。どうやら、ご主人の失踪した経緯を説明しているらしかった。
話を聞きながら、文庫本を捲っていた。
城島博志が死んだ後になって犯人が彼に持たせたのだとしたら、傷の数と同じページ数の、線の引かれている箇所に意味があるはずだ。
■お金はどこにでも転がっているの項目を読む。これは、出版社の売上を落とすような結果になる。『どん底からの億万長者の道』のハードカバーが出版されたのは七年前、鹿野隆は、部筑がそうであったように『希林寿』を繁盛させたいがために、読んで、失望したのかもしれない。
鹿野隆と小園猛は知り合い以上の関係で、鹿野紀子はたまたまそれを知らなかった。『藁久保社』が倒産したのも、この項目に書かれているような内容の本が出回っている責任だと思い始めた。鹿野隆が出所した後に、小園が自殺していた。
そして、横浜、新横浜と事件が起こった。『どん底からの億万長者の道』の著者に脅迫状を送ったのは、鹿野隆だろう。しかし、指定した場所に現れたのは城島博志だった。誤って、恨みもない彼を殺してしまった。こじつけでも、一応筋が通る。
二人の会話は、ひと段落ついたようだった。
『●●●●は、神奈川の方で殺害●●●●た。彼は●●●●の●●●●いた●●●●●●ったみたいで』
『○○さん、あの○○○○○○だったんですね。知りませんでした』
沢村の声はこもってあまり聞こえなかったが、金子大輔が殺された話をしているのだろう。そうだとすれば、鹿野紀子は知らなかったふりをしていることになる。
『●●●に●●●申し訳ありません。できれば●●●●を●●にお願いしたいのですが』
『ええ、○○○○はしません』
なぜ、沢村は謝っているのか? 営業時間外の聞き込みをして、悪いと思っているのか。いや、違う。金子大輔の殺人を止められなかったことに、良心の呵責があるのだろう。T村民にはまだ告げ口はしないでくれとお願いしていて、鹿野が承諾しているに違いない。
「ぜんぜん、聞こえなくない?」
美佐江は顔を近づけてきて、息を吐く音にも負けそうな声で言った。
「うん」もう少しで、唇が触れ合いそうだ。足元がおぼつかなくなっている。
「もっと近づいてみよう」
「バレるよ。それより、後から鹿野さんに聞けばいいだろ?」
下を出した美佐江は、そっぽを向き、階段に足を降りようとしている。勢いは止まらなかった。
――ダメだ! そこは食堂から見えてしまう。
話は中断した。
「お客さんなんですよ」
「ああ、どうも」
彼らは顔の向きを変えたからか、声がはっきり聞こえるようになった。美佐江は階段を下り、沢村に話しかけた。よく考えれば、彼女が席をはずしてくれとは言われていないし、僕の友達だとも紹介していないのだ。焦っている自分が情けない。
「こちらは刑事さんです」
「へぇ~はじめまして」
「この時間にお客さんを受け入れるのですか? 受付時間は確か午後だったような」
「ええ。長く宿泊して頂いていますので。そのようなお客様に、受付時間は設けていないんです」
「ああ、なるほど」
沢村が、僕も長く宿泊していることを知ってしまったのを意味していた。
「すいません。お邪魔してしまったみたいで」
「あの、失礼ですが、お一人で宿泊されているのですか?」
「いえ、父親とです。父親の出張先が近くなもので。ついでに遊びに来ているんです」
「親孝行なんですね」
「女房役ですよ」
美佐江は階段を登ってきた。
腕を掴まれる。そのまま部屋まで引き寄せられた。
「階段を二歩降りた辺りなら、食堂からは見えない。信二はそこで本でも読んでいるふりして、話を聞いていて。で、何で神奈川の刑事さんがここにいるか、ちゃんと説明してよ?」
「わかった」
階段に、そっと座る。さっきよりよく聞こえた。話の流れから、城島博志が引き合いに出されていることを確認できた。彼は五十歳の独身であり、T村に住んでいたときの城島博志を知っているかを訊いていた。
『直接、お話したことは殆どありませんが、噂なら』
『どんな噂ですか?』
『すごく真面目な方だと。文句も言わず仕事もちゃんとしていると』
『誰かに恨まれているような話は聞きませんでしたか』
『いえ。悪い噂は知りませんよ』
沢村は頭を悩ませているのだろう。しばらくしてから、
『あまり見たくない品かもしれませんが?』
テーブルに何かしらが着地して、鈍い音がする。本だろうか?
ご存じですねと訊き、鹿野紀子は肯定した。
『『ホテル。旅館ソムリエ』の絶版になった本ですよね?』
『ええ。実はこの本、城島博志さんの持っていたハンドバックの中に入っていたんです』
――ん?
どうしてだろうか。城島博志と鹿野隆の事件に何か関係があったのか。
『もう一度、思い出してみてください。何かご主人と関係があったとか、知りませんか?』
長い沈黙。沢村は時間を持て余したのか、失礼と言って立ち上がった様子かと思うと、入口へ歩んでいく足音がする。僕は慌てて立ち上がり、駆け足で隠れた。沢村は入口を出ると、携帯を掛けた。その後ろ姿は、やがて見えなくなる。
駆け足、階段を下りた。鹿野紀子は目を見開いている。
「ちょっとその本貸してください」
偏頭痛、あの感覚が襲ってくる。ページを捲り、見ているふりをしていると。
《――金子ヲ 許セナカッタ 金子ヲ 殺シタノハ私ダ》
《私ハ旅館ノ 従業員ダッタ――》
《――旅館ガ ツブレテカラ 一年経ッテイルノ二》
《給料ノ 未払イヲシタイタ金子ヲ 許セナカッタ》
《――旅館ハ 新シクデキタ会社二 売却サレ 資金グライ アッタハズ》
《私ハ 最後ノ一人二 ナルマデ 旅館ヲ 支エテイタノ二――》
《――話シ二モ 応ジナカッタ タダ コノ本ヲ 渡サレ 勉強シロト》
《偉ソウ二言ッテキタ 金子ヲ 殺シテイタ――》
《――信ジラレナイコトニ 別ノ人間ガ 犯人トシテ 逮捕サレタ》
《私ハ 不幸中ノ幸イダト 隠シ通シテキタガ》
《――突然 私ガ殺シタコトヲ 知ッテイル人間ガイタ》
《証拠モ アルヨウダッタ――》
《――私ハ 誰ニモ バレテイナイ トイウ 自信ハ 無カッタ――》
《ソノ人間ハ 脅迫 シテキキタ――》
《――私ニ 指定ノ本ヲ盗ンデ 指定ノ場所二 来イト》
《書店ヲ出テ アル青年ト ブツカッタ――》
《――彼二ハ 悪イト 思ッテイル》
《指定ノ場所デ 待ッテイタ 新横浜ノ 裏路地ダッタ――》
《ソシテ サバカレタ――》