I.事件予定地へ
一睡もできないまま夜が明けた。明け方の部屋の隅で膝を抱えていると、美佐江が起き出しそうな気配があったので急いで寝ているふりをした。
T村へと向かっている車中は頭を悩ませていたが、到着してみて踏ん切りがついた。もし、なんて言葉を多用しても、捜査のあげ足を取られるだけだ。
迷っていても仕方なく、待っていても解決にはならない。
実際美佐江の父親は狙われている。犯人を探し出さなくてはいけない期限は最悪週末まで、殆ど時間は残されていなかった。
寒さは一段と厳しさを増していた。東北方面の田舎から出てきた学生は関東の冬を寒いだの、地方と比べれば甘いだの賛否両論で当てにならなかった。移動の車中は数日間で様変わりし、白く彩られた山々の景色を堪能してきた。しかし、こうして駅に降り立って実感する冷気は吐く息も凍結させるのではないかと思わせる。部筑はとび跳ねて身体を温めていた。
僕達は暖房で空気が歪んで映っている駅の待合室にお邪魔し、連絡を入れた。通常、チェックインは午後三時からになっているのだが、到着した午前中でも、客足が少ないからと、快く迎え入れてくれた。
鹿野紀子は三十分足らずで迎えにきた。美佐江は愛想よく挨拶を交わし、僕達はバンに乗りこんだ。
「また来ていただけるなんて思いませんでしたよ」
「はい、T村を気に入りました」
助手席に座っている部筑が言った。
「嬉しい限りです。どうかくつろいでいってくださいね」
『希林寿』に到着すると、用意されていた部屋は整っていた。荷物を下ろし、ロビーで待ち合わせをし、鹿野紀子がお茶を運んできた。そのタイミングで僕達三人が気になっていたことを、部筑が切り出した。
「T村でたったひとつの旅館なのに、大変ですね」
前も同じようなやりとりをしているが、今とではまったく違う意味をなしていた。
「その分、やり甲斐がありますから」
「小園猛さんという方は、以前ご宿泊されていませんか?」
「こぞのたけるさん?」
美佐江は上目使いで口を開いた。
「はい。父の知り合いなんです。父の石崎義男は週明け、ここにお邪魔すると思いますけど」
「そうでしたか。予約は受けていますよ。親子揃ってのご宿泊ありがとうございます」
「小園さんは四十四歳の会社員なんです。三ヶ月ほど前に、T村を訪れていて、もしかしたら、ここに宿泊されているのではないかと思いまして?」
鹿野紀子は天井を見上げ、受付にあった宿泊客の名簿を捲り始めた。その動作は四ページでぴたりと止まる。
「ああ、ありました。去年の十月二二日に一泊されていますね」
記憶が蘇ってきたのだろう。鹿野紀子はつづけた。
「確か、皆さんと同じ、神奈川県から来ていたお客さんだったと記憶しています」
僕達は顔を見合わせた。
「何か変わった様子はありませんでしたか?」
「変わった様子ですか――休日の宿泊でしたし、……一人で旅行されていたみたいですけど」
「小園という名字の方は、T村に住んでいましたか?」
「待っていてくださいね」
鹿野紀子は町民名簿を持ってきて、僕達の座っているテーブルに広げた。その名簿は彼女がT村に来て、『希林寿』を始めた七年前に発行されたものだ。人口は千人にも満たないと聞いているだけあって、調べ終わるのに時間はかからなかった。
「コの行にも、オの行にも小園はないか。結婚して名字がかわったとかない?」
「ないよ。由美子は亡くなったおばあちゃんも同じ名字だったから」
となると、小園猛がなぜT村に愛着があったのかがわからなくなってくる。
「お知り合いなら、美佐江さんのお父様が来てから聞いてみたらどうですか?」
鹿野紀子の言う通りだった。僕達は大事なことをいくつか聞き逃していた。
「まさに、その通りですよ」
「だけどさ。美佐江の父さんだって、大学生以来、殆ど会っていなかったんだぞ」
「まあ、そうだよね『ブビリオ……』」
唐突に横腹を抓られた――危ない。『ブビリオフィリア』が彼の大学時代に書かれたもので、その通りに事件が起こっていることまでしゃべってしまうところだった。まあ、他言したところで、信じてもらえないと思うが。
「いろいろ事情がありそうですね。良かったら聞かせてもらえませんか?」
「実は、小園猛さん、T村の低雲丘で自殺しているんです」
「えっ?」
鹿野紀子は言葉を失った。
「地元で騒がれませんでしたか? 小さな村ですし、人が死ねば噂はすぐにでも広まると思うのですが」
「――い、いえ、全く知りませんでしたよ」
鹿野紀子の顔からは、本当なのか、隠しているのかが判別できなかった。
「つい最近の出来事なんです。思い出してみてください」
「小園さんがなぜ自殺したのかを知りたいんです。お願いします」
美佐江は頭を下げる。すると、鹿野紀子は自分もお茶を頂きますと言い、開いている席に座った。
「お気づきかもしれませんが、私一人の力で旅館を建てるのは無理です。この旅館を初めてしばらくは、二人で経営していました」
鹿野紀子は夫と経営を始めたことを明らかにした。後部座席の下にあった、プリクラに映っていた男、あれが夫なのだろうか。
「何かあったんですか?」
離婚、の二文字が浮かんだ。
鹿野紀子の夫である鹿野隆はある事件に巻き込まれ、刑務所に入っていた。二〇〇五年から四年間、そこそこの大罪を背負っている数値である。それにしても、何処かで聞いたことがある名前だ。たかし、たかし……そうだ。沢村だ。漢字は違うようだ。
「事件はこの村で起こりました。主人は殺人罪で逮捕されてしまったんです」
僕達三人は姿勢を正した。
「殺人罪、ですか? 詳しく教えてください」
「ある出版社から観光スポットの特集を組むから協力してほしいという要請があったのです――村長は大喜びでした。観光客が増えてほしかったのだと思います。でもすぐに倒産してしまったとかで、話は流れてしまいました」
「その倒産した出版社の名前は知りませんか?」
「知らないです」
「わかりました。つづけてください」
「数ヶ月後に、別の出版社から旅館の特集をしたいと申し入れあったようでした。この村で唯一でしたから、『希林寿』が珍しかったのでしょう。それで取り上げられることになりました」
「その言い方だと、鹿野さん達には知らされてなかったんですね?」
「はい。本が出版されてから知りました。なんでも、普通の旅行客を装って、宿泊した時の感想を述べるという形式を取りたかったみたいですから」
「どのように書かれていましたか?」
鹿野紀子は眉を潜めた。
「……匿名の方が『希林寿』を酷評していました。旅館に値しない場所だとも書かれていました」
「ひどい……全然そんなことないのに」
美佐江は辺りを見回す。僕も同感だった。
「匿名の方が誰だったのか、知っていたんですか?」
「ええ。わかっていました」
T村にはもう一つの旅館があった。親の代から継承されていた旅館で、かなりの老舗だったらしい。しかし、『希林寿』ができて一年後ぐらいに潰れてしまった。その要因として、お客さんを取られたからと、館主は目の敵にしていた。その館主が匿名の方なのだと、鹿野紀子は言う。
「それで匿名の検討がつきますかね? 誰かから聞いたとかもありましたか?」
「それもありましたけど、旅館経営者でなければ書けないような内容も記されていたんです。また、 T村に詳しい人物でなければ、知ることも出来ない内容もありました」
普通の旅行客を装いながら、玄人でしか書けない酷評、その細かい矛盾点はたいして問題ではなかった。
「ある日、その館主は自宅で死んでいたんです。包丁で胸を刺されて倒れていました」
「ご主人と争った形跡でもあったんですか?」
「主人は何度も直訴しに行きましたし、それを見ていた方もいましたから、そのすぐ後に起こった事件です。真っ先に疑われました。自分はやっていないと訴えても、他に動機のある方もいませんでしたし、死亡推定時刻の前後に、主人のアリバイを証言できる人はいませんでした」
「鹿野さんはもちろん、ご主人が無罪であると信じているんですね?」
「はい、夫は罪を犯していない。そう信じています」
鹿野紀子が一人で『希林寿』を切り盛り出来ているのも、本の出版と事件があり、極端に客足が遠のいているからという因果関係があった。
「主人が出所したのは去年の十月初旬なんです」
彼が四年間で刑務所から出てこられたのは、事件が起こる前の、出版物にあらぬ酷評を書かれた経緯があった。
「今はどこにおられるんですか?」
俯いた鹿野紀子は、しばらくしてから口を開いた。
「犯人を追うために、姿を消しているのです」
「失踪しているんですね? 行き先はわからないんですか?」
「ええ。ある日、突然いなくなってしまって。連絡も取れなくなりました……捜索願も出しているのですが、今のところ何もわからないんです――そのことがあって、T村の方々との関係は一旦回復しつつあったのですけど、また距離を取られるようになりました」
最初に訪れたときに言っていた、地域住民との触れ合いは、僕達に不安を与えたくなかった為の嘘になる。鹿野紀子は唇を震わせた。
「もしT村の低雲丘で自殺があったとしても、情報が入ってきていない、か」
「ええ、察して頂いてありがとうございます」
「失礼ですが、酷評を書かれた本のタイトルを教えてくれませんか?」
「『ホテル、旅館ソムリエガイド』です」
僕と部筑は顔を見合わせた。美佐江にも、昨日刑事にあった話しを伝えている。沢村が持っていた本のタイトルと一致して――いや、
「当時の事件が起こってから、『ホテル、旅館ソムリエガイド』は絶版になりました。でも最近になって内容を改訂させたものが再出版されています」
「だから、僕のみたその本には、この旅館のことが書かれていなかった……」
「見ていたのですか――ええ、再出版されたものには、書かれていないはずです」
第一の被害者は『ホテル、旅館ソムリエガイド』を万引きして殺されたのだ。僕達が考え込んでいると、古時計が鳴り、午前十時を知らせた。
「いけない、もうこんな時間」鹿野紀子は自分を奮い立たせるように言い聞かせた。
「すいません。用事はあるもので」
仕入れやら、旅館の用事らしかった。引きとめてしまったことをわびた。ごゆっくりどうぞ、小走りの鹿野紀子に声をかける。
「黒岩さんはご存じですか?」と聞いた。
「ええ。あっ、そうだ。黒岩さんなら、小園さんのくわしい事情を知っているかもしれませんよ」
入口付近に止めてあったバンに乗り、鹿野紀子は出かけて行った。
「被害者の持っていた本と同じタイトルだったよな? オレンジ色のカバーのやつ」
「どうしてこう、偶然が重なるんだろう……」
美佐江は神妙な面持ちになっている。
「いや、必然かもしれないぞ」
部筑は根拠のない自信があるようだ。