F1.狙われている理由
ひどく喉が渇き、水の入っている紙カップを持つ手が震えている。口を付けるだけでテーブルに置いた。
「本当なんですね?」部筑は念を押す。
「間違いありません」
抑揚がなかった。そして口を閉ざしてしまった。美佐江はわかっていたのに、改めてことの重大さを再確認しているような態度になっている。狙われている者を目の当たりにして、もう後戻り出来なくなっている気がした。
しばらくして、部筑が言った。
「わかるよう、説明して貰えませんか?」
「私は来週、T村に出張予定なのです。先日打ち合わせをしていたのも、そのためです」
次の殺人事件は今年の二月、詳しい日時までは書かれていないが、恐らく義男の滞在する来週末いっぱいの、どの日かに狙われることになっていた。場所は低雲丘、殺害方法は本によって殺される。ただ、それだけでは納得できるはずもなく、僕らの反応を伺っていた義男は、どこから話すべきかを吟味している様子だった。
「もしかして、出張予定の場所は『㈱エコノミーテクノ』ではありませんか?」
「はい。ご存じでしたか?」
「ええ、憶測ですよ。以前訪問させてもらったとき、環境推進部の関係者の方が集まっていると聞いたので。それに『㈱エコノミーテクノ』はT村観光をしていたときに見ましたから――失礼ではありますが、あのような場所には似つかわしくないって思いましたし、印象に残っていました」
「何でもご存じなんですね。弊社にほしいぐらいの人材ですよ」
「いえ、技術に関しては無知なので、厄介者を抱える羽目になりますよ」
部筑は自分の発言で笑い、義男を巻き込んだ。
「『㈱エコノミーテクノ』は弊社の子会社になります。主に製造をする工場となっています」
六年前に創立された会社だった。丁度、Dタントに環境推進部ができたことで、当時、義男は新規プロジェクトを立ち上げる際、義男は頭を悩ませていた。新規プロジェクトとは、要約すると開発の革新だった。その一環として、会社を立ち上げる話しもあった。
「奇しくも小園から借りていた『ブビリオフィリア』の内容からヒントを得たんです。会社の創立を提案したのも私になります」
「環境開発をするって聞きましたが?」
部筑は睨むような視線を送った。
「はい、弊社の製品を開発するために、T村の資源が必要と考えました。それが『ブビリオフィリア』に記されていたのです。後つけで調べてみたところ、日本中を探してみても、T村ほど適している場所はありませんでした――しかしながら、環境開発のコンセプトがあるにも関わらず、森林伐採による環境破壊をしているように思える。と、部筑さんの考えられているのでしょう?」
「ええ」
「あの環境を目にして、良く勘違いをされるのです。しかし、環境破壊はしていません。弊社は刈り取った森林を製品に使うと同時に、新たな資源を生み出す装置も開発しているのです。いわば森林の成長を促すための装置です」
抽象的に表現しているのは、社内機密に触れないようにしているからなのかもしれない。僕は社内機密の重要性について、企業説明会で散々聞かされていた。
「『㈱エコノミーテクノ』で、その装置の実験も行っていると?」
「はい。出張の目的は、その開発の監査になります。大まかな開発フローは、ここで設計を行い、T村の工場で製造を行います」
「で、出張と石崎さんが狙われていることとの繋がりは?」
「『ブビリオフィリア』に出て来るT村での殺人事件、その被害者は限りなく私の経歴に似ているのです。いや、描写されている背格好も、仕草も、本名さえも同じですから、すべてを投影していますね。古い友人が書いた小説なのだから、私を投影した登場人物が出てきてもおかしくはないでしょう。ところが、私が辿っていく人生まで予言していたかのような結末になっていました」
予言……半自伝的な小説となるであろう。の後書きが連想される。
「今の話で、狙われると言い切れますかね?」
「また、最終的に明かされる犯人の、T村への愛着は書籍と同等でした」
自然保護団体も真っ青になるほどのナチュラリストらしい。新たに参入してきた会社が環境破壊をしているのに強い恨みを持ち、その会社を創立させた発案者が殺される。殺人動機としては、ただ漠然と万引き犯が憎くて殺していく第一、第二の殺人よりも、よっぽど現実味のあるものだった。
「その被害者こそが、私なのです。しかし、既に書かれている書物に環境破壊はしていませんと弁明しても意味はありません。犯人に直接訴えかけるしか方法はないのです……」
義男は握りこぶしを作り、皮膚が白くなるまで力を込めていた。
「被害者の金子大輔、城島博志も、同じように酷似しているものは書かれていましたか?」
「先程の話と重複しますが、彼らは場所と日時と職業、それに万引きをした者という共通点はあります。裁かれる対象としては、不条理なものがあります。ただ、私を投影しているような、人物の細かい描写は省かれていました」
「小園さんは、執筆される前に断りは入れていたんですか?」
「ええ、彼が執筆するのに当たり、登場人物に使わせてもらうかもしれないという申し出は受けていましたよ。それに全国で流通される書籍ならともかく、自費出版本は十冊ぐらいしか出回らないと聞いていたので、被害者になっても、犯罪者になっても、どう使ってくれてもかまわないと答えました。出来あがった原稿を読ませてもらって、感想も述べましたし、私が投影されている箇所は手直しなしでいい、そう承諾しました。あくまで物語上ですからね。かたく考えなかったんですよ」
「小園さんを不幸にさせるような、何か恨みを買っていたってことはありませんか?」
義男はすぐに答えられず、頬に人指し指をめり込ませた。
「ない――とは言い切れませんが」
「あったとしても、小園猛さんは自殺しているし。それは関係ないか」
部筑はつぶやいた。
「関係、大ありじゃない!」
声を荒げた美佐江はつづけた。
「最初は簡単な口約束だったのかもしれないけど、今は『ブビリオフィリア』通りに殺人が行われているのよ。軽く思わないで」
「……すいません」
「おいおい、止めなさい」
義男は我が子に注意した。
「それに、小園猛さんは自殺してしまったとしても、彼を受け継いでいる者がいるってことも考えてよね」
「彼を受け継いでいる者?」部筑の問いに、美佐江は頷いた。
「美佐江がこの事件を解決しようとしたのは、父親が狙われていること以外にもあったのか?」
「うん、失踪したのは知り合いの話をしたでしょ――その子は小園猛の娘、小園由美子なの」
僕の胸板はピクりと動いた。動物学を好み、カメレオンの生体に興味を持っている女の子。
「なあ、写真とかないの?」
部筑が訊くと、美佐江はハンドバックを漁り、一枚の写真を取りだした。中央に折り目が走っていて、右下には、一年前の日付が記載されている。一年前、成人式で二人一緒に取った写真であり、百六十センチの美佐江と同じ目線の高さだ。顔の輪郭は卵型で線の細い身体をしている。色白の肌で、切れ長の目、長い黒髪を後ろで束ねていた。顔のつくりがはっきりしている金髪の美佐江とは対照的だが、どこか守ってあげたくなってくる雰囲気があった。
義男と美佐江の話を統合すると、両親を失い、天涯孤独になった小園由美子だ。彼女が失踪したのは二ヶ月前、小園猛が自殺した一ヶ月後になる。それに、今年で二十二になる。性別の書かれていない犯人像にぴったりだ。彼女なら父の死で自棄を起こして殺人に走る可能性は充分にあると、美佐江は考えていた。しかし、彼女が理性を失うような子ではない。その葛藤があるようだった。
「確かに、小園猛さんを自殺に追いやった者は、交友関係だと考えるか。小説に出て来る人物が実在する人物だったとすればなおさらだ」
「でもさ、第一、第二の書籍を万引きした被害者は、小園猛さんと実際に繋がりはあったのかな?」
部筑に問うたつもりだったが、口を閉ざしていると義男が答えた。
「小園は大学時代、私と話しあっている時にこんなことを言っていました。あれは、一緒に飲んでいたときです。日本の法律についての話題になり、『人様の物品を万引きする者達の実刑は軽すぎる。自分が裁く立場であるならば、もっと刑を重くするだろう』と。彼は出版社に就職するために努力していましたし、夢かなって、勤務もしていました。書籍の万引きが増え始めた頃だったので、許せなかったんでしょう」
「万引きでつぶれてしまう書店もありますからね」
「わたしも由美子から聞いていたよ。小さい頃から他人様に迷惑かけることは絶対するなって教育されてきたんだって」
「小園らしい」
義男はしんみりと相槌をうった。
「会社から帰ってきて、不機嫌になったり、八つ当たりするのは決まって出版社が発行している本が万引きされたときだったらしいよ」
「……責任を感じていたんだろうな」
「だから、小園猛さんはミステリー小説として万引き犯への恨みを書き、それを受けついだ小園由美子さんが実際に殺人事件を起こしているのか。筋が通るな」
部筑は顎に手を置いた。
「盗まれた本は、小園猛さんが勤めていた出版社の発行しているものだったのかな?」
僕が言うと、部筑は着ているセーターを捲り、ズボンに挟んでいた文庫本を取りだした。第二の被害者が持っていた『どん底から億万長者への道』である。売り切れていたハードカバーに比べて百ページ近くも増えているらしい。僕達が阿武隈川を散策している間、新横浜の書店で購入してきたものだった。義男は手に取った。
「大手出版社のものですね。小園の勤めていた出版社ではありません」
「万引き犯で、場所、日程、職業があえば誰だってよかったのかな?」
義男はパラパラとページを捲っている。
「誰だってよかったんだろ? ピンポイントで小園猛さんと繋がりのある本を万引した奴を狙っていたら、どれだけの確率になると思っているんだよ」
「計算して答えを出したら天文学的な数値になりそうね」
美佐江は理系モードになっている。顔全体が輝いているようにみえた。
「だろ? 今まで本通りに殺人が行われているだけでも、奇跡に近いぐらいだ。それに繋がりを求めていたら、少なくとも生きている間に殺人はできないっしょ」
「待ってください。繋がりがない、とは言い切れませんよ」
義男は捲っていたページを三分の二程度の場所で止めた。もし、ちゃんと読んでいたのならば、相当な速読スキルを持っていることになる。
「■お金はどこにでも転がっているの項目に、捨ててある雑誌や書籍を発見したら、そのまま通り過ぎたらダメと書かれています。どんな本であれ拾い、初心者は上場している新古書店かネット通販で売るべき。そして上級者は起業して新古書店を作るか、ネット通販のシステムを作ってしまうべきだと」
「はいはい、ハードカバーの方で読みましたよ。俺の美学では真似できないですね~」
部筑は浅く座り、煙草を吸う真似をした。
「もう、ブック、ふざけないでよ」
「冗談だって。つまりは書籍のリサイクルによって、出版社の経営を圧迫しているってことですよね?」
「そうですね。小園の反感を買う理由になります」
「ただ、反感を買うような書籍が万引きされたとしてですよ。万引きした犯人を殺す動機になりますかね?」
「これを書いて有名になった著者を恨むべきでしょうね」
「ですよね」
部筑はその話を膨らませたくないのだろう。まだ動機よりも殺人方法に執着しているのかもしれない。「あの場所で殺人なんて出来るのかな」と呟いた。義男から本を渡してもらい、同じ箇所を読んだ。
――二百七十ページ目の項目だ。これは? 被害者の傷と同じ数……
と、口に出そうとしたときだった。
義男の発言は部筑の意向もかき消すと共に、すべてを払拭させた。
「本日の生放送番組でやっていたのですが、この本の著者は自宅に届いた手紙があって、それは『脅迫状』だったと証言していましたよ」
「なんですって!」
出張の準備を終えた義男は、会社にあったTVを見ていたら約束の時間に遅れてしまったらしい。本日放送のことを、すっかり忘れていた。
「新横浜のどこどこみたいに、場所を指定されていたようです。時間は殺人があった日、単身で来なければ、ゴーストライターを雇っていることをばらし、殺すと脅迫されていたようです。著者は事実無根だと証言していました。それまで警察に通報しなかったのは、良くあることだから、無視していれば何も起こらないと鷹をくくっていたらしいですね」
書籍ソムリエの部筑は、実はゴーストライターによって書かれたものだったら、本に印字された作者ではなく、ゴーストライターの名を言い当てることが出来るのだ。芸能人が書いた自伝なんかは、そのパターンが多く、読まないのに購入している姿を見かけたことが多々ある。
他には、しゃべっている内容を書籍化するにしても、しゃべっている人の名を言い当てるのではなく、しゃべっている内容を活字化する編集者の名を言い当てる。それらに関して、証明するには出版社の協力ながいと不可能であり、あまり信ぴょう性はなかったが、部筑の前ではごまかしが効かないのだ。
『どん底から億万長者への道』を手にしていたのだから調べ済みだろうし、否定もしていないので、ちゃんと作者が書いたものなのだろう。
人気作家は大変だなとは想ったが、僕が『殺人予告』を受け取ったらたぶんパニックになる。携帯に入ってくる架空請求のメールだけで、二、三日眠れずに悩んだこともあるぐらいだからだ。
「俺は『どん底から億万長者への道』を売るためにやっていたとしか思えませんけどね。それか生放送で初めて告白するインパクトを狙っていたんじゃないですか」
義男はそうかもしれませんと答える。わざわざ身を危険にしてまでする行為といったら、テレビ番組の視聴率よりも、自分の著書を売るために行ったと考えられる。
「それで、約束の場所にはいかなかったのね」と、美佐江は眉を上げた。
「そうだね。著者は今までメディアにいっさい顔を出さなかったし、出版された本にも顔写真を載せていなかったから、社内の人間が『脅迫状』を送りつけたのではないかと疑っているよ。それで指定された場所で本当に殺人があったのだから、驚いていたな」
「なるほど。本当に殺人があって、黙っておけなくなったんでしょうね」
「そうとも考えられますね」
「犯人は、呼び出してきたと思われる著者を被害者である城島博志と間違って殺してしまったのかもしれないと?」
「ええ」
「待ってくださいよ。そうなると、万引き犯を狙った殺人事件じゃなくないですか? 『ビブリオフィリア』には、第一、第二の被害者は万引き犯って書かれていたんでしょ?」
「犯人にとって、予期せぬことが起こったのかな?」僕が言う。
「偶然、万引き犯が殺されてしまったとしても、元々は『どん底から億万長者への道』の著者を殺そうとしていたのなら、話が変わってくるじゃない?」
義男は首を横にふった。
「違うよ。第一、第二の被害者は万引き犯と書かれていだけど、明確な事件の背景は書かれていないんだ。著者に『殺人予告』があって、偶然の成り行きで別の万引き犯が殺されてしまったとしても、本の内容と実際の差異はないだろう」
「偶然っていってもさ、確率論でいけば奇跡みたいなものだよ。信二か部筑が将来、総理大臣になることぐらい非現実的なんだから。父さんだって、狙われているかわからないよ」
僕の受け売り。さり気なく傷つく表現だ。もちろん、彼女にはそんな気はなさそうなぐらい、神妙な顔つきになっている。義男が狙われている事実を認めたくないだけなのだろう。
「いや、著者は生放送でこうも言っていました。以前に発行した本は沢山擦ったのに全く売れず、倒産してしまった出版社には迷惑をかけたと。そして、出版社の名前を聞いたとき、私は驚きました」
「まさか……」
「小園猛の勤めていた出版社の名前があがったんです」
『殺人予告』と潰れた出版社の関係か。著者が謝罪した裏には根深いものが潜んでいるのかもしれない。
「ここからは推測になりますが、『脅迫状』を送った者と犯人は別物と考えてみたらどうなるか? 犯人は何らかの理由で『脅迫状』を送った事実を知っていた。『殺人予告』を送った者は実際殺人を犯そうなんて考えていなかったが。犯人はそれを利用して、万引き犯を殺し、『殺人予告』を送った者に罪をなすりつけようとしている。私はそう思っています」
「そうか」僕は手を叩いた。
新横浜の現場検証で報道されているものは、他の場所で殺されてから、運ばれたのではないかと言われていた。つまり、死体を『脅迫状』にあった指定場所へと運んで、放置し、『脅迫状』を送った者に疑いがかかるよう仕立てた。
「ええ、殺害方法がどうであれ、本の内容と差異はありません」
責任を感じているのは、仕事で家族を失ってしまった小園猛だけではなく、仕事で友人を失ってしまったであろう義男も同じなのかもしれない。
「出張の延期は出来ないんですか?」
「そうしたいのは山々ですけどね。大事な仕事ですから。犯人も、殺人予告もない状況で、とある小説通りに殺人が行われていて、その小説が手元にないのだが、私の命が狙われているから身を隠したいと申し出たところで、誰も取り合ってはくれません」
「そんな……」美佐江は言葉を詰まらせた。
「義男さんはなぜ、小説通りに殺人事件が起こると信じているのですか?」
「意味はありません。ただ――」
「ただ?」
「……犯人はT村へと、必ず来ます」
義男は額に浮かんでいた汗を、ハンカチで拭った。彼は何かを隠している、と直感した。しかし、問い質しても抽象的な答えしか返ってこなく、みるみる青ざめていく顔色に、それ以上の追求を憚られた。
美佐江は出張の手伝いをしたいからと、義男と一緒に、彼が住んでいる実家へ帰った。誰も止められることなく実行されている殺人事件、万が一、T村でも起こってしまうのを想定して家族で過ごす日を大事にしようとしているのだろう。
小園由美子の写真を貸してくれないかと提案した部筑に、写真は一枚しかないからと、写メールの画像を携帯電話に送信した。もちろん、さっき見せてもらった写真と同一人物だとわかったが、長い前髪が顔の輪郭を隠していて、少し陰気な印象のある画像だ。
親子の後姿が小さくなり、やがて街に溶け込んでいく姿を見て、絶対救ってあげたいという衝動に駆られていた。