E1.著者の行方は……
小園猛が自殺した場所、それがT村の低雲丘の頂上であると聞いたのは、Dタントの社員が顧客との打ち合わせのため近くのブースに入ってきて、僕達が会議室に移動した後だった。純白の壁に包まれた六畳程の空間が、無機質な空間となってしまったかのように思えた。
あの場所は部筑に驚かされたところ。嘘だと知るまでここで死体が埋まっているかもしれないなんてあらぬ想像をしていたのは、当たらずとも遠からずというのか。
「先日、俺達も低雲丘に行ったんですよ。あそこで自殺する方法と言えば限れています。首をつって死ぬのは無理です」
「そうですね。私も現場に行きましたので、わかります」
「身体に害を及ぼす薬品を飲んだとか?」
「いえ、小園は自ら石油をかぶり、『ブビリオフィリア』と共に燃えたんです」
剥き出しになっている柔らかそうな土に、ふりかけたような灰、あれは焼失死体の残骸だったのか。そして、図書館で調べた低雲丘での儀式、僕はそれを言った。
「残っていた灰が燃えたときのものであるかはわかりませんけど、焚書の歴史は『ブビリオフィリア』に書かれていました。本を粗末に扱っている者達を浮き彫りにしたかったのでしょう。本を葬り去っている描写は、実に詳細まで書かれていました。殺人事件の犯人は最終的に持っていた本から自然発火して死んでしまうのですが」
本が人を殺したような事件だが、小説内でも結局犯人は存在していたのだ。僕は少しがっかりさせられた。
「本から自然発火した?」
「そう書かれていました。ただ『ブビリオフィリア』の犯人は自殺するつもりはなかったので、自殺した小園が物語を忠実に再現しようとしたわけではありませんね」
「犯人の年齢とか、性別は書かれていなかったんですか?」
「計画を決意した時点では今年で二十二と。誕生日までは書かれていませんでしたから、二十一歳か二十二歳でしょう。丁度、小園が書き始めるあたりの歳ですね。性別、は書かれていませんでした」
「なるほど。そうなると、同じような末路を辿ったにしても、今起こっている事件と小園猛さんを結び付けるのは難しいか。自殺したのが三ヶ月前だしな」
部筑は溜息をついた。
「横浜で起こった事件が三週間前、どう考えても無理ね」
「第一に、小園さんはなぜ自殺してしまったのですかね?」
背中を反らせ、腕を組んだ義男は小さく唸った。
「わかりませんね。悩みを打ち明け合っていたのは大学生のとき以来、殆どありませんでしたし、あの本を返却したときだって数年ぶりの再会でしたから」
「最近になって、環境が変わったとかありませんかね?」
「うーん、小園は出版社に勤めていましたが、その会社が数年前に倒産したのを新聞で読んだぐらいでしょうか。私と会ったときは、既に別の会社に再就職したって聞いていましたから」
と口を噤んだ義男がその調子であり、美佐江と部筑も流石に自殺した理由の推測まではしなかった。
静けさを断ち切るように、会議室のドアがノックされた。三十代ぐらいの男が義男を呼び出しにきたのだ。義男は後ではダメか? と訊き、男は環境推進部の関係者が集まっているので難しいと困っている様子だった。
「すいません。ちょっと来週の出張のことで打ち合わせしなければならなくなりまして」
「いえいえ、こちらこそお忙しい中、急に押しかけてしまい、申し訳ありませんでした」
僕は就職活動で培った振る舞いを、存分に発揮させた。その姿を部筑と美佐江に見せつけてやりたかったという意図もある。
「多分、二時間ぐらいで終わると思うんですが」
「いえ、本日は失礼します。日を改めますので、またお願いします」
出口まで見送られてから、義男の後姿を見送った。
僕達はそれぞれの岐路を辿るはずだったのだが、結局、美佐江の部屋に泊まることになった。駅を降りた頃、美佐江はこう言った。
「ねえ、一人だと心細いの……」
静まりかえる。一瞬であっても、か弱き乙女だと感じで動けなくなった僕は、『今晩は俺がついているから大丈夫』と部筑がくさいセリフを吐いたことで目を覚まし、二人きりにさせるのが心配になったのだ。
「疲れているのなら、帰ってもいいんだぞ」
一人好きであることを知って、言っているのだろう。それにしても、『信二も泊っていってよ』の言葉が美佐江から発せられなかったのが悲しい。
「いや、三人で行動していた方が安全だからな」
いろんな意味でだ。
美佐江の部屋に漂っている匂いが馴染んできていると、自分の衣服に染み込んでいる匂いを嗅いで思ったとき、父親の話をし始めた。話の節々に愛情を感じられていた。彼女の年頃で父親を敬愛している子は珍しい。ただ、僕が対面した義男の印象では、清潔感、立ち振る舞いからしてそれも当然なんだと考えられた。
しゃべり疲れた美佐江は一方的に部屋の電灯を消し、寝息を立て始めるのに時間はかからなかった。
「美佐江は年上が好きらしいぞ」
耳打ちしてきた。一つ上という自分の年齢を、久しぶりに感謝した。
「なあ、美佐江って好きな人いるのかな?」
僕は声を潜めた。クッションを枕代わりにした部筑は、
「いるんじゃないの。本人に聞いてみれば」
他人事だ。実は知り合ってから美佐江の浮いた話を聞いたことがなかった。ただ、僕も同じなので声を大にできないのだが。
「男に興味はあるよな?」
どうしても、告白してきた男をあっけなく断る場面が浮かんでくる。少なくとも、その手の話を二つや三つは聞いていた。
「付き合っているや……」
部筑は眠りに入った。
次の日、五郎さんは『密造書展』に直接出向いてきた。まだ寝ている二人を残して入り口に姿を現すと、角刈りで、額に深い皺を刻ませている背の低い初老のおじさんが立っていた。
「あれ、美佐江ちゃんは留守なのかい?」
濁声で、所在なさ気に言う。彼の血の気が多い噂を聞いていたので、僕は緊張気味だった。
「いえ、今二階で寝ています。呼んできましょうか?」
「おう、そうだったか。いや、邪魔してしまったみたいだ」
彼は側頭部を掻いた。硬そうな髪がジョリジョリ音を立てる。
「誤解しないでください。上には男友達がもう一人いますんで、美佐江さんとはそういう関係ではないんですよ」
なんでこんなムキになっているのかと、早口でまくし立てた後に思った。
「ふーん、あの子はモテるからな」
「ですね」
「連絡くれって言われたもんだから。来たんだけどよ」
「五郎さんですか?」
彼は頷いた。
「話は聞いています。家賃の話があるとかで」
「ああ、なら起きてからでいいからよ」
身体を横に向けた五郎さんを制止させ、待っていてもらうよう伝えた。
結局二人を起こすのに数分かかった。美佐江は起きてから化粧に取りかかったので、部筑と一緒に五郎さんの相手をした。
「そうかい。美佐江ちゃんの大学の友達か」
「はい、いつもお世話になっております」
部筑は僕の横で顔を擦っている。五郎さんは彼を、目を細めて睨んだ。
「許してやってください。彼の態度は悪気があるわけじゃないんです」
「おお。違うんだ。こうしてやらないとな、目が悪くてみえないんだ」
視力が0.1なのに、眼鏡は嫌いだからかけないんだと言う。
「じゃあ、今年で二十一か?」
「いえ、美佐江さんより学年は上で二十二歳です」
「おお、もう卒業か。いや、その年なら、貸している部屋を出ていく学生が多くてな。困っているんだよ」
五郎さんは微笑んだ。どことなく愛嬌がある。すると後方から素早い足音がした。
「思ったよりも元気そうね」
美佐江はスウェットから、ロングコートにジーンズへと着替えていた。
「はは、商店街の連中から聞いたんだな?」
「皆、噂好きだからね」
「まったくだ」
美佐江は福沢諭吉がプリントされた冊を十枚渡す――安い! 滞納期間は三ヶ月だったはず。僕は商店街に住もうか本気で悩み始めた。ただ、美佐江には優しいという言葉も蘇ってきた。
確かに受け取ったと、ポケットにしまった五郎さんは僕達を見渡し、俺も青春時代に戻りてえな、そう羨望した。
「ねえ、水死体を発見したときのこと、詳しく教えて」
五郎さんは、もう警察と商店街の連中全員にしゃべった、なんて冗談を言い豪快に笑った後、表情が引き締まった。
「いつものように仕事を終えて、まっつぐ釣りに出かけたんだよ。なかなか釣れなかったものだから、移動して阿武隈川を下って行ったわけよ。途中で気が変わってな、今日は釣りより散歩でもするかって思って歩き続けていた。そしたら、川に変なものが浮いていたものだから気になったわけだ」
「河川敷の歩道から発見したの?」
「そうだ。夜の内に発見したんだよ」
「警察は他殺って決めているみたいだけど、何でなの?」
「へっ、もう公表しているのか? なんだよ、言わないでくれって念を押されたばかりなのに。沢村のやろう、しょうがねえな」
沢村とは取り調べをした神奈川県警の刑事らしい。五郎さんは自分のことをまったくしゃべらない彼が、好きになれない男だと形容した。
「まあ、他殺で捜査してねえと、俺もあんなに長く取り調べはされてねえか――実はよ。水死体のほうい解剖つう名だったかな――まあ解剖をしたわけだ。そしたら、首の部分になんだか知らねえが、自殺ではつかない傷があったってよ」
殺害されそうになって、抵抗した痕跡でもあったのだろう。
「それともうひとつ。肺に入り込んだ水の量で、殺してから沈めたってわかるからな」
五郎さんは怒っているわけでもなく、舌うちした。
「んで、ちょっと離れたところに縄が置いてあった。刃物がないと切れねえ縄だって」
部筑は急に咳き込んだ。咳をして、余計に喉がかさついて、さらに大きな咳が出てしまっている様子だ。
「大丈夫かい? この時期は風邪がはやっているからな。うつさないでくれよ」
「いえ、昨日カラオケで歌い過ぎて、喉を痛めているんです。気にしないでつづけてください」
彼の嘘はスルーした。
「現場で刃物は見付からねえって話しだし、自殺するのにわざわざ縄まで持ってこないだろうから疑っていたんだろうな。置いてあった縄に指紋が残っていたんだ。しかもな、良く聞いておけよ――」
言葉を切った。言われなくても、彼の煙草の匂いが混じった口臭が気にならなかったぐらい聞きいっている。
「その縄から被害者の指紋は検出されず、別の人間の指紋が検出された」
五郎さんは話をしている間、次第に熱が入ってきたのか、語尾を強調した。
「なっ、他殺の決め手になったわけよ」五郎さんはウインクした。
「被害者の身元は聞いていないの?」
「おお、聞いているよ。田中満高だったかな、二十八歳で無職の男性。かなり長い髪の毛が水面に浮かんでいたんで、女かと思ったんだけどな」
唇の端には、唾が溜まっていた。
「世知辛いよな。隣町で一人暮らしをしていたが、ちょっと前に住所不定になったみたいだな。ホームレスってやつか。髪の毛を刈る金もなかったに違いねえ」
「田中さんか。殺される前の行動は聞いていない?」
「それはわからないな。今頃必至になって捜査しているんじゃないか」
警察は残された指紋を手掛かりに、捜査を進めているらしい。部筑危うし、アリバイの証言はしてやるぞ、僕は思った。
「何もわからずか……」
美佐江は腕を組み、怒っているふうにもとれる顔で言う。
「何かわかったら連絡して。些細なことでもね」
「随分とこの事件に入れこんでいるな。美佐江ちゃん、刑事みたいだぞ。何かあったのかい?」
「私達も事件を捜査しているから――このことは誰にも言っちゃだめよ! いい?」
「……おう」
美佐江の気迫に五郎さんは気圧されている。奥さんに怒鳴られて、委縮しているであろう家庭環境を想像するのは容易かった。
静かに立ち去った五郎さんを尻目に、
「捜査しているの、しゃべって良かったのか?」と部筑は目を細めた。五郎さんはここから見える不動産屋のテナントに入っていった。
「うん、ちょっとまずかった。これから気を付ける。二人も、誰にも言わないでよ」
美佐江は念を押してくる。
「美佐江と五郎さんが口をすべらせなければ、ばれないんじゃない?」
「そっか。って馬鹿にしてない?」
「気のせい」
「全然そうには見えないんだけど。信二はどう思う?」
僕は空気になりたい。