A.第二の事件
本は財産だ。
先人が作り出した作品は数百年前から生き延び、人々の血肉となっている。
この言葉達も後数百年は生き、誰かに根付くであろう。
本は生物だ。
表紙、頁のすべてに生命が宿っている。
本が大人しくしているのも、暴れ出すのも所有者の手にかかっている。
『ブビリオフィリア』の引用文 ――作者不明
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事件を知ったのは、新横浜で企業の面接を終え、どこにでもある定食屋で食事をしている最中だった。
二〇一〇年一月二十八日十二時頃、新横浜駅のロータリーから右手側の大通りを進んでいたら、ひと際存在感のある大手銀行の建物が見えた。それが目的地を過ぎている目印になっていた。慌てて持っているA4サイズの地図と見比べようと広げた瞬間、視界がぶれた。地図は歩道のアスファルトに着地した。
どうやら人とぶつかったらしい。
五十代ぐらいの男性でスーツ姿、小さな瞳の上にある広い額には大粒の汗が光っている。ビジネスマンだろうか、半開きの口は沈黙している。ぶつかった衝撃よりも、彼が持っているハンドバックに硬いものが入っていて、太ももに直撃した方が強烈だった。とっさに動いた手は、ハンドバックの底に触れる。硬いものは手を弾くように逃げていった。
彼は全身におびえた雰囲気をまとっていた。
「す、すいません」
届いているかはわからない。ハッと急用を思い出したように踵を返すと、僕が進んできた方向とは反対側の、大手銀行がある方へ走っていったからだ。
今、立ち去った男をはき出した自動ドアが閉まった。見上げると縦長のビルにK書店の看板があり、窓ガラスを隔てて新刊のベストセラー本が行儀よく並んでいた。
舌打ちをした。地図を確認しながら歩いている僕は、確かに前方不注意だったかもしれない。しかし、こちらが謝っているのに、無言のまま立ち去られたのだ。悔しさが込上げてきた。さらに、あの男が最初から大手銀行がある方向に進んでいれば、ぶつからなかったのだ。
絶対あいつの顔を忘れないぞと思っていたら、自動ドアが開いた。藍色の前かけをしているK書店員らしき人物だ。眼鏡の奥は辺りを見渡してから、僕へと注がれた。羞恥を感じ、直に背を向ける。
「ついてないな……」
下半身が心もとない。というか冷えた。歩き始めてようやく気がついたのだけど、はいているトランクスの臀部がやぶけていた。叫びたい気持ちをぐっと堪える。早すぎる時間帯に来たのが仇となってしまった。しようがなく、辿ってきた道を逆戻りした。
足早で肩を落としている若者の後ろ姿を、あの書店員はどう観察しているのだろうか。笑いを堪えているのかも。変な被害妄想が癒着した。
振り返ってみる、気も起きなかった。
部屋まで戻って着替え、再び新横浜へ向かった。いつまでも、ついてないときはつづかない。その言葉を胸にしまった。
巨大な駅のエスカレーターを降りはじめると、視線を身に受けた。構内放送やら、話声やら様々な音がぶつかりあっているようなのに、シンジ、と名前を呼ぶ声が聞こえて来た。
注意を払った視線の先には、額を覆い隠す金色の前髪、それを跳ね除けるような大きな二つの目があった。かたわらの昇りエスカレーターに石崎美佐江がいる。僕が軽く手を上げると、彼女は微笑みかけてみせる。
「ねえ、話があるの」眉を沈ませた。
ただでさえ他人の目を奪う彼女に僕の姿が重なり、周りからどんな関係なのかを探られている気がした。
「い、今?」
すれ違った美佐江を目で追いかける。聞きたいことは沢山あったが、次々なだれ込んでくる乗客に道が封鎖されているので、逆走して体で追いかけるわけにはいかない。十五時からの予定も迫っていた。
「近いうちに部屋まで来て」
思わず身を引いた。
「あ、うん」否定の余地はなかった。むしろ期待を持ち始めていた。
「お願いね」
と言い残し、僕の高鳴った鼓動も置き去りにした。彼女はプラットホームへと消えていく。その後をスーツケースがついていった。
膨らんでいく期待を現実に戻した。似たような場面があったからだ。
美佐江は僕と同じ大学の理工学部に所属している。海の広さを数値で示すことができれば数億円の賞金が手に入ると豪語したり、数々の講義をことごとく休んでいたので、成績優秀とは言えないだろう。
あれは秋が深まってきた頃、洋服の買い物をしに行く予定だった電車でばったりと会い――話したいことがあるの、といきなり切り出された。買い物を諦めた僕は、美佐江と一緒に、週末でしか使われていないような公園のベンチに座っていた。
枯れ葉が地面を舞っている。それを見ていた美佐江がこう切り出した。
――カメレオンが死んだら何色になると思う? ――
――舌が伸びるやつだよね。カメレオンって――
訊きながらも、頭の引き出しを丁寧に探るように考えた。カメレオンなら、外敵から守る、あるいは餌を採る手段としてのカモフラージュのため、皮膚の色を周囲に合わせるイメージがある。生物の中でも、裏方の存在に思えた。
――そう。生きているときは黄、緑、黒、灰色に変えられるの――
彼女なりのヒントらしい。死んだら目立ちたくはないだろうなと、自らの尺度で考える。それぐらいの美意識なら、カメレオンには備わっていても可笑しくない。
――死ぬときの、周囲の色によって違うんじゃないかな。例えばあそこにある草むらだったら緑色だったり――
青々として若そうな草むらを指さした。
――最初はわからなかったな。わたしも――
含み笑いをする。「はずれ」を意味する伏線と同時に、美佐江はカメレオンと対話でもした経験でもあるのでは? そんなあらぬ考えが芽生えた。
――答え、教えてよ――
――その前に話したかったことが――
言葉を飲みこんでから、肩で息を吐く。まさか、これが告白の空気なのか。唾を飲んだ。
関係ない話をして照れ隠ししていた。いや、カメレオンの件だけに、肝心の告白はカモフラージュさせておいて、『実は前からずっと、信二のことがす……』と切り出すのか。妄想が膨らんでいた。
――失踪した知り合いを見つけたいの。誰かに打ち明けていいか迷っていて――
何度も考え抜いた末に放ったのだと思う。かなり深刻なことだというのに、流れるように話してくる。失踪した知り合い……と、愛の告白はどうしても結びつかない。期待はずれをカモフラージュさせる内容でもあった。
――失踪? ――
――うん、何も相談なく――
姿を消してから二ヵ月は経っていた。その前からあまり連絡が取れなくなっていて、心配になり部屋に行ってみたら、いなくなっていたらしい。その子は美佐江の同級生で、両親とも死別していて、アパートに一人暮をしていた。自殺という言葉が頭をよぎった。
――いろいろ大変だったと思う。人に頼ろうとする子じゃないから――
綺麗に整えられている栗色の眉が微動した。両親がいないのはどんな状況なのだろう。どれだけ大変な境遇なのか、逃げ場のない孤独を味わっているのではないか。
想像したところで答えは出なかった。
――警察には連絡したの? ――
していない。どうしても自分の手で探したいというのが、美佐江の意思だ。どこか、自分の責任で失踪してしまったんだと思い悩んでいるようでもあった。それだけ彼女との絆が深いのだと勝手に解釈していた。
しかし、本当は違っていた。
――あの子の部屋に置き手紙があってね――
美佐江は携帯電話を弄り出して、画像を見せてきた。少々ぼやけている画像だが、鉛筆で書かれた筆圧の強い字だとわかる。
『しばらく留守にしますが、警察には連絡しないでください。もし連絡したら』
警察に連絡した場合の先が途切れている。
――絶対にやらないでほしいって気持ちは伝わってくるか――
この文面からすると、美佐江に探さないでほしいと言っているわけではなさそうだ。僕は唸った。
――でしょ。すごく嫌な予感がして、警察には連絡出来なかったの――
美佐江はとりあえず大家さんに訊いてみたらしい。当然、所在は知られていなかったが、失踪した子からは家賃の振り込みがあった。
――どこから振り込まれていたのか――
僕の言葉を遮るように、言う。
――個人情報になっちゃうから、教えられないんだって。あの子の友達である証拠があればよかったんだけれど、説得するのも面倒になっちゃって。それで、自分で探してみようと思ったの――
――何かわかったことは? ――
――あの子を殆ど理解していなかったことぐらい。友達に訊いても、何もわからなくて――
友達と聞いて、若干救われた気持ちになる。すっかり引き込まれていく自分を意識した。
――じゃあ、僕も探そうか? ――
――今は大丈夫。しゃべってすっきりしたから――
美佐江はブランコから飛ぶように立ち上がった。
――カメレオンは死ぬときの感情によって皮膚の色を変えるの。敵に襲われて怖かったか、体が弱まって自然死したかで色が変わってくる。すごいでしょ――
反応を伺う前に、美佐江は僕の頭上を凝視してきた。
――白髪が生えてる。抜いてあげようか? ――
答える間もなく、美佐江は僕の背後に回った。脳内からプチっと音がした。それは陽に当たって透き通る繊維のようだった。彼女に恥ずかしいものを見られているみたいで、落ち着かなかった。
――私のもみて――
――美佐江は金髪だから――
――いいから――
微かにシャンプーの香りがする。予想通り、白髪と金髪の見分けがつかないでいると、美佐江は化粧ポーチを取りだした。
――なかったよ――
――そう。よかった――
――苦労していないんだね――
――白髪は髪の毛の寿命なの。苦労の度合いとは関係ない――
訂正された。失踪した知り合いのことは何となくはぐらかされた。それきり、連絡が途絶えていたのだ。
僕は面接のために憶えてきた言葉を復唱しながら駅を出た。青い空は背の高いビルの向こうに広がっている。長い人の列が、タクシー乗り場へと伸びていた。
人生の大半を綺麗なかたちで打ち明けたような面接を終え、裏路地にあった定食屋に入った。客は一人だった。夕刊を開いたり、閉じたりで落ち着きがなく、麦酒のコップを片手に持っている小柄なおじさんがいた。店主とのやりとりを聞いた限りテツさんと呼ばれている。テツさんは天井近くの棚に置かれたブラウン管テレビに耳をそばだてた。
「これは、アレだな」
店内の隅々まで聞こえるように手を叩いた。テツさん自身のみが納得している素振りである――アレって? どれだよ?
気になった。そんな心からの要望に応じてくれるわけもなく、彼はテレビから視線を外さぬまま、麦色の炭酸を流し込んだ。気を利かせた店主は手を伸ばし、ボタンをカタッと押して音量を上げた。
新規発行される出版物は年間約七万冊にもなるのに対し、年初めから十月までの万引きによる被害は七十万冊を超えている。十年分の出版点数がたった十カ月の間で人の手に渡っているという前置きあった。それから詳細が報道された。
白昼堂々の犯行。
被害者は城島博志、五十歳の会社員、書籍の万引き犯とされている。そう判断されていたのは、殺される直前にとある書店から盗まれた本と、遺体が持っていた本が一致したからだ。顔写真は公開していない。遺体は新横浜の路上で発見されていた。
心臓が高鳴っていく。
「目と鼻の先じゃねえか」
テツさんはメニューの書かれている札の方を見た。
上空から撮影されている映像は夕暮れどき、ビルの間に位置する路地を映し出していた。国道に繋ながる場所で、警備員の周りには人だかりが出来ていた。
被害者の全身に二百七十箇所の切り傷があった。その一つが首の動脈を切断していたことから失血によるショック死と断定している。今のところ、遺体からの血痕もわずかであり、現場での目撃証言がなく、別の場所での他殺だとして捜査を進めていた。四時間前の十三時頃、第一発見者の通行人が通報している。対応が迅速にみえるのは慣れによるものや、予期されていたものだと思えてしまう。
既に一人の犠牲者をだしていて、似たような事件が起こっているというアナウンスされた。
八日前、つまり二〇一〇年一月二〇日に同じ死因での犠牲者がいるというのだ。死亡推定時刻は午後五時から六時までの間、テツさんが言ったアレとは、恐らく横浜市で発見された一人目の報道を知っていたが故の納得なのだろう。テツさんはお絞りで顔を摩擦させた。
城島博志と同様、一人目の犠牲者も万引きの常習犯であり、万引き現場の目撃証言がいくつか寄せられていた。彼の全身に百箇所以上の切り傷があり、一方で殺害されたときの目撃証言がない。これは、突発的な殺意によるものではなく、何かの目的を抱え、計画的に行った殺人であると、遅れた実感があった。
まだつづいた。
自業自得と主張する一般市民や、出版、書店に携わっている者を容疑者であると当たりを付ける警察、果ては万引きされた本の熱狂的なファンが殺人を犯している等のストーリーを組み立てる者までいた。
「言いたい放題だな。まったく」
テツさんは呟いた。確かに、残された家族にとっては泣きっ面に蜂の報道内容になっている。テツさんと店主は顔を見合わせ、最近の犯罪はわけがわからないものだと言わんばかりに、揃って首を横に振った。
「憐れんでいるようには見えませんね」
「いくら不況だってな」
僕も同じ考えだった。盗んだ本を、そのまま新古書店に売ろうとしていのか、純粋に読みたかった本なのかはわからない。ただ、社会現象になっていることは間違いなかった。テツさんは言いついでにもう一本の麦酒を頼んだ。
キャベツたっぷりの生姜焼き定食はすっかり冷え、肉は固くなっていた。悪いと思いながらも定食を残し、会計を済ませる。
「おい若者」
突然、声をかけられた。無視するわけにもいかず、僕を見据えていたテツさんの方を向く。「はい?」
「万引きはするんじゃないぞ」
外見で判断されたのか。僕はスーツ姿でどこにでもいる、無害な男の代表みたいな顔をしていると自覚があった。過小評価されている気がしてムキになった。
「しませんよ」と。頬が引きつった。
「だな。それがいい」
意外にも温かい笑顔だったので、拍子抜けした。
「あの、すいませんけど、現場って近くなんですよね?」
「ん?」テツさんはポカンとしていた。そのまま待っていても、得たい情報を引き出せそうにない。
「さっきのニュースでやっていた事件現場です。目と鼻の先だっておっしゃっていましたよね?」テツさんは記憶を手繰り寄せているようだ。
「君はここら辺の人じゃないね?」
店主が助け舟を出してきた。
「Y市に住んでいるんです。今日は企業の面接があって、こちらに来ていたもので」
「駅前のロータリーがあるだろ」
電車を降りて、駅ビルを出たところだ。美佐江の残像へと想像が膨らんでいく。
「そうそう。駅から見て真っ直ぐ行くとな」
店主の説明を聞き終わってわかったのは、面接を受けた企業に近いことだ。
「ありがとうございます」
また来てください、店主は愛想良く言い、厨房の中へ消えていった。
「おい若者よ」先程よりもねっとりした声だ。絡み足りないといったふうに「まあ聞け」と、テーブルに肘をつき、両肩が胸より狭くなった。
「はい」
「野次馬するんじゃねえぞ」
「どうしてですか?」
「近くに犯人がいるかもしれねえし、捜査の邪魔になるからな。警察に任せておけばいいんだ。またテレビで報道されるだろ」
「わかりました」わかったのは報道されることのみだが。店のドアを開けてから言った。
「忠告どうもです」
携帯電話で美佐江の番号を押した。電波か、電源が入っていないという女性のアナウンス、『近々行く予定だから、都合悪い日あったら返信してね』と、メールを打った。
現場は本当に目と鼻の先だった。駅前のロータリー経由で大通りを進むと間もなく、複数のパトランプが光る場所があった。
周りは大通りを挟んで美容室やチェーン店の居酒屋が入っているビルが存在していた。車の往来を見積もっても、二階の美容室なら事件現場を正面から見渡せるのだろう。美容師らしき人が窓越しにチラチラ外を眺めている。居酒屋は窓ガラスの内側にシャッターが閉まっていた。
ビジネスホテルといくつかの会社が入っているビル、その中央部になる路地の現場付近は立ち入り禁止区域で、トラ柄の紐で仕切られていた。路地は中型車が擦れ違えられる程度の道幅だった。奥へと進むに連れ、道幅が狭くなっていて、背の高い建物がつづいている分、わずかな時間しか陽が当らない場所なのかもしれない。
もし警察関係者が通行人を誘導しているのではなく、ヘルメットを被った警備員だったのならば、道を舗装している工事現場に見えていただろう。野次馬をかき分けないと現場は傍観できないと予想していただけに、この手薄な状況は少しばかり予想外だった。時間帯のせいなのか、通行人もそれ程多くはなかった。
トラ柄の紐の向こうは、シャッターを切る者や、メモを取っている者、他四名の捜査員らしき人がいた。中でもものすごい剣幕で現場を指揮している体格の良い捜査員は、気の短くなっている酔っ払いの言動に似て、離れている僕にも声が筒抜けだった。
「証拠を逃すなよ!」
地面に這いつくばり、ほふく前進をしている捜査員はくぐもった声で返事をした。
僕はゆっくり近づいていった。立ち入り禁止区域が足の届く範囲になると、歩を止めた。路地に入って二十歩分ぐらいの地面に人を象ったテープが貼られていた。あの場所で被害者が倒れていたに違いない。すると警備をしていた警察に声を掛けられた。
「すいませんが、ここで立ち止まらないようにしてもらえますか?」
彼は両手を広げた。
「わかりました。ちょっとお尋ねしたいのですが?」
交番を探していたのですが、なかなか見つからなかったものでといいわけをし、僕はK書店までの道のりを訊ねた。ついでに就職活動中のどこどこ大学に在籍していることもしゃべった。職務質問をされたからだ。彼は御苦労さまですと言い、丁寧に解説してくれた。
「ありがとうございます。何かあったんですか?」
「ええ、詳しいことは教えられないんです」
おさえた口調の中に余計なことは詮索するな、帰って勉強しろ大学生よ。そんな感情が入り混じっている気がした。僕は軽く頭を下げ大人しく退散した。
※※※
視線に入っているテレビは音声だけを受信する不良品になっている。買い替えも修理もせず、ここ数週間は放置している。安物だ。
帰宅したらまず何をしますか? 的なアンケートがあったら、迷わずテレビを付けると答えられたのは二年ぐらい前だ。連続ドラマを、眼球もしくはディスプレイかに穴が開くぐらいみた時期でもある。日常をロケーションにし、役者が非日常を作り出す。やがて涙を誘う。毎回山場があって、仲間と次回の予想をし合うのが楽しくて仕方なかった。
殺人事件をテーマに扱っていたとしても、犯人はびっくりするほど早期発見され、そこには感動が生まれるのだ。人殺しの登場人物が回を重ねるごとに良心的な人だと思えて来る。実は取り巻く環境を改善するために行った犯罪だと知り、誰が悪かったのかがぼやける。
現実はそう上手くはいかない。白黒がはっきりしていて、殺人は極悪であり、殺意の真相はどれも耳を疑いたくなる。動機なんてものは、あってないようなものだ。殺人罪の罰が軽すぎると思わされるのがほとんどだ。
なぜ、テレビで報道されていた事件が気になったのか。
僕は万引きを実行した経験はない。被害者と交友関係でもあればまったく別なのだろうが、第一の事件発生から七日経過していた今も、そのような知らせはなかった。強いて言うなら、未来の就職先になりうる場所の近くで殺人が起こったのが影響しているのかもしれない。美佐江と会ったのも影響しているだろう。
そう思うと引っかかった。嘘をついて、後に残ったシコリみたいな引っかかり方だった。蔑ろにすべきではない気持ちが芽生えてくる。
考えれば考えるほど、別の方向へと発展していく。
この殺人事件を、世の中は否定しているのだろうか? 本心でだ。
ネットの掲示板には、それが顕著にあらわれていた。多数決をとれば、恐らくどんな殺人であれ否定の決議がされるだろう。目には目を、人殺しには人殺しを、捕まえたら死刑で決定だなんて匿名の書き込みがあった。どれも幼稚な内容に思えた。殺人を否定するにしても、先人の書き込みでまともな意見の一節をコピーアンドペーストしている者までいた。そうなると、まともな意見さえ間抜けな印象になる。
ところが殺人を肯定する書き込みは、あまりにも理路整然とした意見が目立った。個性があり、引き込まれて行く。
これで書籍の万引き犯が減る。軽犯罪者は裁かれても仕様がない。その結論に集約しているようだ。
妙な胸騒ぎがした。
布団に入った。電気を消しても、胸騒ぎは持続していた。むしろ目を瞑っている分、妙な胸騒ぎに神経が集中してしまい、上手く就寝できるか定かではなかった。
うなじの下あたりから、全身に訴えかけて来るような痛みがあった。シュッという音が、遅れて聞こえて来た。食道に隙間風が入ってきて、乾燥してくる。夢の中である自覚があったのでひどく混乱した。後ろにまわした手に温かい液体の感触があり、視野に入れるのが怖くてたまらなかった。
――ツッ、ツッ、ツッ――
音が連続した。変調音楽みたいに間が狭まり、音が皮膚を擦っている。殆ど時間が立たないうちに、僕の視界にある皮膚は切り傷からの血がにじみ、綺麗なストライプ模様になっていた。
地面にひれ伏した。誰かにされたのではなく、自らの取った自然の行動だ。指一本動かせなくなったら、まず重心が傾いている方へと倒れる。揉み上げの辺りまで地面に食い込み、身動きが取れなくなっていた。
――フォンハイキテ――
ぼやけた音でそう聞こえた。
『――なに?』
僕はそう言ったつもりだ。くぐもった、めり込んだ地面から反射して来る声だ。耳には『なに?』ではなく『バァヌィ?』と聞こえてきた。
しかし、うなじの下あたりから開いた傷口の背後に声が漏れたのだろうか、反応があった。
――フォンハイキテ――
さっきよりも大きな音で聞こえる。いや、これは耳で聞いているのではなく、心にそのまま介入してくる声なのだろうか。
――フォンハ――
きっとそうだ。介入してくる声を、僕が認識しきれていないのかもしれない……
そんな夢で起された。
首筋に薄ら汗をかいていた。粘っこくなる前に掬いとった。
夢判断でもすれば、深層心理がわかるのだろうけども、とても調べる気にはなれなかった。金縛りのせいだと勝手に決め付け、身を起こした。
鏡の前で自分の顔を写し、息を吸う。
「フォンハイキテか」
呟いてみた。母国語ではないのかもしれない憶えのない言葉、考えても何のことだかさっぱりわからなかった。