結婚相手に望むのは「怒鳴らない人」だけだったのですが、今はあなたがいいのです
「次にお会いする方には、何を望む?」
伯母は、私の前へお茶を置いて尋ねた。
窓のそばで、伯父が手紙を読んでいる。
誰も、早く答えなさいとは言わなかった。
「怒鳴らない人がいいです」
言ってから、私はカップの持ち手へ指を添えた。
もっときちんとした答えがあるはずだった。
「ええ。それは大切ね。ほかにも、あなたが望むことはある?」
伯母の声に、指を離した。
「ほかは……すぐには、思いつかなくて。すみません」
「そう。では、そこは譲らずに探しましょう。ほかは、思いついたら教えて」
私は、伯母を見た。
彼女は椅子へ座り、私のお茶が冷める前にと、自分のカップを取った。
「まだお会いするだけ。合わなければ、お断りしてよいのよ」
頷いて、お茶を飲んだ。
温かかった。
返事を待つ人の前で飲むお茶は、いつも、冷めてから口にするものだと思っていた。
◇
父が声を荒らげると、私は先に謝った。
何について怒られているのか、途中までしか分からなくても。
「聞いているのか、セヴリーヌ」
「はい。申し訳ありません」
母を亡くしたのは、十二歳のときだった。
その後、父と二人で食卓を囲むようになった。
父は、母に代わって私をきちんと育てなければならないと言った。
椅子へ座るのが遅い。
質問への返事が遅い。
客の前で話さないのも、口を挟むのもよくない。
叱られる時間を早く終わらせるには、父の言うとおりにするのが一番だった。
何が好きかを尋ねられても、まず、父が好みそうなものを考えた。
一度、父にも、声を小さくしてほしいと頼んだ。
「普通に言って分かるなら、叱る必要もないだろう」
そう返されると、私は続きを言えなかった。
それでも、自分の好きなものまで、なくなったわけではない。
母と使っていた小皿には、青い葉が描かれていた。ところどころ、少し傾いている。私はその違いを見るのが好きだった。帳面へ写すうちに、食器棚の皿を見る時間が増えた。
十八歳で成人したとき、母方の親族が遺言に従って管理していた、母のお金を受け取った。父の家の財産とは別だと説明された。
けれど、家を出て別の場所で暮らすために使えるとは、考えなかった。
父の許しを得て暮らすものだと、ずっと思っていたから。
ギヨーム様と婚約したのは、その年の秋だった。
彼は伯爵家の嫡男で、私より二つ年上だった。
両家の紹介で初めて会った日、彼は私の持っていた帳面について尋ねた。
「何を描いているの?」
「お皿の模様です」
「見せてもらってもいいかな」
母の小皿を写した頁を開くと、彼はゆっくり見てくれた。
「これ、家にもあるよ。葉は全部同じだと思っていた」
次には、手仕事の展示に誘ってくれた。
私が食器を見たいと伝えると、先にそちらへ行こうと言った。
父の前では話せなかったことを、彼には話せた。
彼と暮らす日が楽しみになった。
変わったのは、婚約から半年ほど経った頃だった。
彼が選んだ食器について、私は別のものも見たいと言った。
「さっき、これがいいと言っただろう」
「こちらも、見てからと思って」
「だったら、初めからそう言ってくれ」
少し強い声だった。
私は急いで謝った。
彼は、いつもの顔に戻った。
「もういいよ。これにしよう」
それから、私が迷うと、彼は声を大きくするようになった。
彼の話を遮らないようにしていると、黙っていないで答えてくれと言われた。
私は、父と同じように、先に謝った。
一度、お願いしたことがある。
「大きな声で言われると、何を答えればよいか、分からなくなります」
彼は驚いた顔をした。
「そんなつもりはなかった。次は気をつける」
私は嬉しくて、ありがとうございますと答えた。
けれど、しばらくすると、また同じことがあった。
「いつまで考えているんだ。早く答えてくれ」
彼の隣で、肩に力が入った。
父のいない場所でも、私は同じ返事をしていた。
家へ帰り、父へ相談した。
声を荒らげないでほしいと頼んだことも、伝えた。
「そのくらいのことで、婚約者を悪く言うものではない。お前の返事が遅いからだろう」
父は、机に載せていた書類を置いた。
「伯爵家の嫡男がお前を選んでくれたんだ。もっと相手の立場を考えなさい」
私は頷いた。
その夜、帳面を開いたけれど、何も描けなかった。
伯母へ手紙を書いたのは、その翌日だった。
手紙なら、最後まで書いてから読んでもらえると思った。
父とギヨーム様のことを書いた。お願いしても怒鳴られること。結婚したあとの暮らしが、楽しみではなくなったこと。
伯母からは、会って話しましょうと返事が来た。
父には、母の遺品を整理するための招待だと伝え、外出の許しを得た。
私に会ってから、伯母は言った。
「あなたがここまで書くのに、どれだけ迷ったかと思うと……」
彼女は手紙を机へ置いた。
「これまで会ったときには、いつも、変わりないと聞いていたでしょう。私も、その返事で済ませてしまった」
私は、膝の上の手を見た。
「家のことを悪く言うと、父に叱られると思って」
「今日は、お父様に聞かせるための返事をしなくていいのよ」
私は顔を上げた。
伯母は、もう一度尋ねた。
「今日、帰りたい?」
口を開いたまま、声が出なかった。
伯母は待っていた。
私は首を振った。
「帰りたくないです」
伯母は伯父を呼んだ。
二人は私の希望を聞き、部屋を用意してくれた。
伯父は、父への連絡を自分からすると言った。
「君は成人している。私たちも、君を預かることを承知している。居所を知らせておけば、父親が望むというだけで、ここから連れ出されることはない」
母のお金についても、改めて話してもらった。
身の回りの費用を自分で支払っても、すぐに尽きる額ではなかった。
伯父が父と連絡を取り、私の着替えと帳面、それに母の小皿を使用人に運んでもらった。父は滞在が延びるだけだと思っているようだった。
荷物を部屋へ置いてから、私は伯母と伯父に、婚約を解消したいと伝えた。
話し合いの日、父とギヨーム様、それに彼の父である伯爵が来た。
伯母と伯父は、私の隣に座っていた。
「何日、家を空けるつもりだ」
父は、座る前から私へ尋ねた。
「こちらで暮らしたいと思っています」
「勝手なことを言うな。婚約の支度もあるだろう」
私は、膝の上へ手を置いた。
「その婚約を、解消していただきたくて」
ギヨーム様が、私を見た。
「君のお父上も困っていらっしゃる。意地を張るのはやめてくれ」
「意地ではありません。お願いしたことを、覚えていらっしゃいますか」
「声のことだろう。だから、気をつけると言ったじゃないか」
「そのあとにも、同じことがありました」
彼は眉を寄せた。
「急いでいるときぐらい、早く返事をしてくれればいいんだ。こちらにも予定がある」
最後の言葉に、父の声が重なった。
「そうだ。相手にここまで言わせて、まだ分からないのか」
私は、息を吸った。
謝ろうとすると、伯母の手が、私の椅子の背に触れた。
「まだ、セヴリーヌが話しています」
伯父は父を見て、静かに言った。
「最後まで聞いてください。そのために集まったのです」
私は、ギヨーム様を見た。
「予定を変えたことも、急いで返事をしたほうがよかったことも、あります。でも、怒鳴らないでほしいというお願いを、取り下げたわけではありません」
彼は父親へ顔を向けた。
伯爵は、私を見ていた。
「セヴリーヌ嬢。息子には、以前にもそう伝えたのですね」
「はい。一度、謝っていただきました」
伯爵は息子へ尋ねた。
「そのあと、同じことをしたのか」
「そこまで気にするとは思わなかったんです」
私は手を重ね直した。
「私は、もう、結婚を望んでいません」
父が私の名を呼んだ。
私は父へ向かず、伯爵の返事を待った。
「分かりました。本人が望まない婚姻は進めません。条件の清算について、お父上と確認させてください」
ギヨーム様が椅子へ座り直した。
「そんなに、簡単に?」
「簡単に決めたとは聞いていない。お前には、既に直してほしいと伝えていたのだろう」
父は、伯爵へ向き直った。
「娘は少し神経質になっています。私から、よく言い聞かせますので」
「ご本人が結婚を望まないことは、今、確認しました」
父は私を見た。
私は、首を振った。
ギヨーム様が、こちらへ身を寄せた。
「少し時間を置こう。次の展示なら、君も行きたいと言っていたね。そのとき、また話そう」
私は、彼の顔を見た。
機嫌を直すための約束なら、今までも何度もしてきた。
「次の約束は、しません」
彼の手が、膝の上で止まった。
「展示も?」
「あなたと出かける約束は、もうしません」
「今度は待つよ。君が選んでいいから」
私は、首を振った。
「一度、気をつけると約束していただきました。それでも、また同じことがありました。もう、お会いしたいと思えません」
彼は口を開き、何も言わずに父親を見た。
伯爵は、息子へ向いた。
「解消したあと、すぐ次の相手を紹介するつもりもない。相手の訴えを聞かずに、また婚約を進めることはできない」
「では、僕は」
「まず、なぜこの縁が終わるのかを考えなさい」
彼は私へ顔を戻した。
私の返事を待っているようだった。
私は、次に行く場所も、会える日も伝えなかった。
伯父が清算の書類を開くと、彼もようやく、そちらへ目を落とした。
贈られた品と、両家の支度の費用を整理することになった。
解消は、その日に全て終わったわけではない。
伯父を窓口に、父と伯爵が条件を確認した。伯爵が婚姻を進めないと明言すると、父も清算には応じた。
自分の手元にある贈答品は、私が一覧にして返した。
両家の合意を記した書類に、最後の署名をした日、私は伯母の客間で眠った。
父から、帰るように言う手紙は届いていた。
私は、戻らないと返事を書いた。
◇
ユベール様に紹介されたのは、解消から二か月後だった。
伯母の知人の息子で、子爵家の嫡男だと聞いていた。
伯母の家で顔合わせをしたあと、陶器の展示へ行った。
伯母と彼の母親も一緒だった。
「僕は、奥の食器を見たいのです。領地でも、似た形の器を使っているので」
彼は入口で、案内を確かめた。
「セヴリーヌ様は?」
「私も、そちらで」
そう答えてから、入口近くの棚を見た。
小さな皿が並んでいる。
縁の模様が、それぞれ違っていた。
「こちらも、ご覧になりますか」
彼に尋ねられ、私は頷いた。
「少しだけ」
「では、僕も」
私が棚の前へ立つと、彼は半歩後ろにいた。
急いで見なければと思って、右から順に皿へ目を向けた。
棚の端まで来る前に、彼が言った。
「さっきの皿は、見なくてよいのですか」
振り返った。
青い縁取りの皿だった。
「あとで、戻れればと思って」
「今なら、ほかの方もいらっしゃいませんし」
彼は道を空けた。
私は戻って、皿を見た。
縁の線は一本だと思っていたけれど、細い線が二本、並んでいた。
「少し、帳面に描いてもよいでしょうか」
「展示の方に聞いてみましょう」
許しを得て、私は帳面を開いた。
彼も横から見ていた。
「二本だったんですね。遠くからだと、分かりませんでした」
「細いほうが、途中で少し離れています」
私が指で示すと、彼は皿へ目を戻した。
「本当だ。こちらの皿も、そうでしょうか」
私は隣を見た。
そちらは、一本だった。
違いを話しているうちに、時間を忘れた。
伯母が、そろそろ奥も見ましょうかと声をかけた。
私は慌てて帳面を閉じた。
「長くなって、申し訳ありません」
「僕も見ていたので。奥には、まだ十分間に合います」
彼は入口の時計を確かめて言った。
私は、その顔を見てから頷いた。
奥にあったのは、厚みのある茶色の器だった。
彼は、それを指して、子供の頃から家で使っていると話した。
「持ち手が大きいので、父はこればかり使います。僕も、家では似たものを」
「少し、重そうですね」
「はい。それは、困ることもあります」
彼は笑った。
「ただ、慣れているので、手に取ると落ち着くんです。薄い器もきれいですが」
私は茶色の器を見た。
彼が飲み物を持って、机の前に座る姿を想像した。
「お仕事をなさるときにも?」
「ええ。父の手伝いで、帳簿を見ることが多いので」
彼がどんな暮らしをしているのか、初めて、もう少し聞きたいと思った。
◇
ギヨーム様から、手紙が届いた。
声を荒らげたことへの謝罪と、もう一度会ってほしいという申し入れだった。
『今度は、君が返事をするまで待つ。婚約を戻すことも、考えてほしい』
私は、二度読んだ。
初めて帳面を見せた日を思い出した。
優しかった日まで、なかったことにはできない。
けれど、その日があったから、戻りたいわけでもなかった。
伯母へ、会いたくないと伝え、私は自分で返事を書いた。
『謝罪は拝読しました。ですが、婚約を戻すことも、再びお会いすることも、望んでいません。今後の事務的なご連絡は、伯父を通してください』
書き終えてから、これでは冷たいだろうかと、伯母へ尋ねた。
伯母は返事を読み直し、私へ返した。
「私は、これでよいと思うわ。会いたくないのでしょう?」
私は紙を見た。
付け足そうとしていた言葉を、書かなかった。
婚約を戻さない返事に、いつか気が変わるかもしれないとは書けなかった。
その後、伯爵から伯父へ、息子が返書を受け取ったと連絡があった。再面会の依頼は重ねさせず、次の縁談も紹介しないという。
私は返書の控えをしまった。
◇
次の展示は、私からユベール様を誘った。
伯母に案内を見せ、一緒に手紙を出した。
返事を待つ間、皿の模様を何度も見直した。
当日は、私の見たかった棚から回った。途中で彼に呼ばれ、隣の棚を覗きに行った。
小さなカップの前で、彼は緑色のものを気に入った。
私は、その隣の青いものを見ていた。
「こちらの色も、お好きですか」
彼が聞いた。
「はい。でも、緑もきれいです」
「僕は、緑が好きですね」
私は、緑のカップへ目を戻した。
「では、私も」
言いかけると、彼は少し首を傾げた。
「セヴリーヌ様は、青いほうでは?」
「お揃いのほうが、よいかと思って」
それは、私が勝手に考えたことだった。
彼に頼まれたわけではない。
「違う色でも、一緒にお茶は飲めますよ」
私は、青いカップを見た。
持ってみたいと伝えると、店の人が渡してくれた。
手に収まる大きさで、重すぎなかった。
「私は、こちらが好きです」
彼も、選んだカップを持った。
「僕はこちらを。……持ち手は、そちらのほうが大きいんですね」
彼は二つを見比べ、緑のほうを持ち直した。
「迷われますか」
「いえ。これで。色はどうしても、こちらが好きなので」
決めてからも、彼は青いカップの持ち手を見ていた。私が笑うと、困ったように笑い返した。
結局、それぞれ、自分の家で使うために買った。
帰りの馬車で、伯母が、明日の朝から使いましょうと言った。
私は包みを膝に置いたまま頷いた。
その夜、彼も包みを開けただろうかと考えた。どんな机に載せたのか、次に会ったら聞こうと思った。
何度か会ううちに、彼が家の仕事で疲れている日もあると知った。
伯母の家へ来たとき、いつもより口数が少なかった。
私が黙ると、彼は顔を上げた。
「今日は、あまり話せなくてすみません。昨日、領地から戻ったばかりで」
「お帰りになりますか」
口にしてから、胸が落ち着かなくなった。
彼は、少し考えた。
「もう少し、ここにいてもよいですか。お話を聞きたいので」
私は頷いた。
けれど、話し始める前に、尋ねた。
「私も、もう少し一緒にいたいです。でも、お疲れでしたら、今日は短くしても」
彼は私を見た。
「では、お茶を一杯飲む間だけ。そのあと、次に会う日を決めてもよいですか」
私は、自分のカップへ目を落とした。
青いカップを使っていた。
「では、一つだけ。見ていただきたいものがあるんです」
私は棚から帳面を取った。
母の小皿を写した頁の隣に、新しく描いた模様があった。
「葉の間を、少し広くしてみました」
彼は二つの頁を見比べた。
「こちらは、風が通りそうですね」
「風?」
「葉が、同じほうへ向いているので」
そんなふうには考えていなかった。
私は帳面を少し離して眺め、次の葉を描き足したくなった。彼が帰ってから描こうと、鉛筆だけ頁に挟んだ。
お茶を飲み終える前に、次に会う日を決めた。
帰り際、彼は領地の家で使っている器を描いてくると言った。
「持ち手を見ていただきたいんです。今度のカップとは、ずいぶん違うので」
次に会ったとき、彼が広げた紙には、器と、それより大きな持ち手が描かれていた。
「こんなに大きくはないはずなんですが」
私は口元を押さえた。
堪えようとしたせいで、かえって変な声が出た。
「笑ってください。母には、籠を描いたのかと聞かれました」
「ごめんなさい。でも、本当に、籠に……」
彼も笑い出した。
私は紙を持たせてもらい、横へ帳面を置いた。
「器をもう少し大きくすれば、よいのではありませんか」
「直せますか」
「ここから、このくらいまで」
指で辿ると、彼は鉛筆を取った。線を引き足すうち、今度は底が傾いた。
「お茶がこぼれそうですね」
「では、こちらも」
紙の端まで描いてしまい、二人で手を止めた。
「これはもう、描き直したほうが早かったですね」
私が言うと、彼は肩を揺らした。いつもの控えめな笑い方と違っていた。
もう一度笑わせたいと思った。何か言おうとして、先ほどの絵を見て、私までまた笑ってしまった。
お茶を飲む頃になっても、彼は紙を畳まなかった。
「持って帰って、もう一度描いてきます」
「こちらは、いただいてもよいですか」
彼が顔を上げた。
「その絵を?」
「はい。今日のことを思い出せるので」
彼は紙を見て、それから私を見た。
「では、次は別の紙に描きます」
耳のあたりが赤かった。私も顔が熱くなって、帳面の間へ絵をしまった。
その夜、もう一度開いた。線だらけの器を眺めていると、笑ったときの彼の声まで思い出せた。
◇
秋の集まりで、彼は私を踊りに誘った。
伯母に背を押されなくても、私は手を差し出せた。
踊り終えると、彼は私の歩調に合わせて、席へ戻った。
「先日のカップは、使っていらっしゃいますか」
「毎朝。あなたは?」
「机に置いています。前のものより、小さかったですね」
「足りませんか」
「少し。でも、そのぶん、席を立ってお茶を入れるようになりました」
彼は笑った。
私も笑った。
「私のものは、ちょうどよかったです」
「それは、よかった」
彼は席の前で立ち止まった。
伯母は少し離れたところで、彼の母親と話していた。
「セヴリーヌ様。先日の絵は、まだお持ちですか」
「はい。帳面に挟んであります」
「そうですか」
彼は上着の端へ触れた。何かを探すように指を動かしてから、手を下ろした。
「実は、あれを描く前に、二枚失敗しています」
「二枚も?」
「あなたと話すきっかけが欲しくて。器なら、と思ったんですが、描いてみると難しくて」
私は彼を見た。
「でも、持ってきてくださった」
「ええ。あなたなら、どこがおかしいのか見つけてくれると思いました。最初の展示でも、僕の見落とした線を教えてくださったでしょう」
彼は少し笑った。
「あなたと見たあとでは、家の食器まで気になってしまって。裏返していたら、母に何をしているのかと聞かれました」
私も笑いかけた。けれど、彼がこちらを見つめていて、途中で口を閉じた。
「この前、一緒に笑ってくださって、嬉しかったんです。帰ってからも、また会いたいと、そればかり考えていました」
近くで、次の曲が始まった。
彼はそちらへ顔を向けずに言った。
「あなたが好きです。正式に、お付き合いをお願いできますか」
握っていた扇を、両手で持ち直した。
何度も会いたいと思った。それでも、彼からそう言ってもらえるとは、まだ思えていなかった。
「私も……あの絵を見るたびに、あなたに会いたくなります」
彼の手が、わずかに動いた。
私は扇を片手へ移し、空いた手を差し出した。
「ユベール様と、お付き合いしたいです」
彼は私の手を取った。踊ったときと同じ手なのに、顔を見上げるのが難しかった。
「もう一曲、お誘いしても?」
「はい」
席へ戻るはずだった私たちは、また広間の中央へ向かった。
彼も少し足を速めていて、目が合うと、二人で笑った。
◇
冬の間、私たちはお茶を飲み、何度か集まりへ出かけた。
彼の両親とも話した。
暮らす場所と、私が持っていくものについて、伯父たちも相談を重ねた。
私のお金は私の支度と暮らしのために使い、父の家からの持参金を、この縁の条件にはしなかった。
父と離れて暮らす理由も、私から彼と両親へ話した。
「結婚式へも、父は招きたくありません」
話し終えてから、彼らの返事を待った。
ユベール様の父親は、伯父へ向き直った。
「では、支度と親族への連絡は、引き続き、あなたと相談させてください」
彼の母親も頷いた。
ユベール様は、私へ尋ねた。
「当日は、伯父様に付き添っていただきますか」
「はい。そうお願いしたいです」
春に、私たちは婚約した。
父へは、伯父から正式に知らせた。
父は、私に会いたいと返事を寄越した。
「会わなくてもよいのよ」
伯母は、以前と同じように言った。
私は、父の手紙を見た。
結婚式の相談をしたいとあった。
「一度だけ、こちらでお話しします。お二人にも、一緒にいてほしいです」
伯母は頷いた。
父は、約束の時間に来た。
私が席へ座ると、少し痩せたなと言った。
私は挨拶をして、向かいを見た。
「結婚を決めたそうだな」
「はい」
「子爵家なら、こちらとの釣り合いもよい。あちらの当主には、私からも手紙を出した」
私は、膝の上で手を重ねた。
「ご挨拶は、伯父を通して済ませています」
「そう返事をもらった。支度の相談も、こちらのお二人となさると。お前から、父親も一緒にと話しておけば、済んだだろう」
私は父を見た。
「私も、それを承知して、お願いしています」
「式でお前を迎える役まで、伯父に任せるつもりか」
父は伯父へ目を向け、それから私へ戻した。
「私が出なければ、家で何かあったと思われる。招待する親族にも、今は落ち着いて暮らしていると、お前から話しておきなさい」
私は、父の言葉が終わるまで待った。
「こちらでは、落ち着いて暮らしています」
「そうだろう。だから、何も問題はないと」
「父の家へ戻るつもりはありません。結婚式にも、お招きしません」
父の手が、椅子の肘掛けを掴んだ。
「何を言っているんだ。娘の結婚式に、父親を呼ばないのか」
声が大きくなった。
私の肩にも、力が入った。
もう一度言おうとしたけれど、言葉が出なかった。
伯父が、父へ向いた。
「声を荒らげるなら、今日はここまでにします」
「この子に分からせるために、話しているんです」
「本人は、あなたの申し入れを聞いて、返事をしました」
父は、私のほうへ身を乗り出した。
「セヴリーヌ。謝れば、まだ間に合う。式の話も、あちらの家とのことも、私がきちんと進めてやる」
私は、父の顔を見た。
謝れば、この話は終わる。
父の望む返事をすれば、声も小さくなる。
これまで、何度もそうしてきた。
私は、椅子の背から体を起こした。
「そのお声を聞かずに暮らすために、家を出ました」
父は、口を閉じた。
「ギヨーム様にも、同じことをお願いしました。お父様には、私の返事が遅いからだと言われました」
父の目が、伯母へ動いた。
「誰が、そんな言い方を教えた」
「私が、覚えていることです」
私は、手を重ねたまま答えた。
「今日も、お声が大きくなったら、返事ができなくなりました。でも、結婚式へお招きしないという返事は、変わりません」
伯母が、私の隣へ椅子を寄せた。
父は、その動きを見ていた。
「私は、お前のために」
「私は、怒鳴らないでほしいとお願いしました」
父の返事を待った。
父は、伯父へ顔を向けた。
「親族に、どう説明すればよいんです」
「ご自身が出席しないことは、ご自身でお伝えください。セヴリーヌに、円満な親子だと説明させることはしません」
伯母が私へ尋ねた。
「招く親族には、あなたがこちらで暮らしていることと、伯父様が付き添うことを、私たちから伝えてよい?」
「はい。お願いします」
父が、伯母へ向き直った。
「わざわざ、そのような話を」
「当日の付き添いも、今の住まいも、事実です。父親の留守を預かっているだけだとは、説明できません」
父は、もう一度私を見た。
私は頷かなかった。
伯父の手が、呼び鈴へ伸びた。
「本日の話は、ここまでです。今後、娘さんへ面会や結婚支度の依頼を重ねることは、お控えください。必要な連絡は、私が受けます」
使用人が扉を開けた。
父はすぐには立たなかった。
「父親に、帰れと言うのか」
私は顔を上げたまま、答えた。
「はい。今日は、お帰りください」
父は、伯母と伯父の顔を見た。
どちらも、私に言い直すようには言わなかった。
父は椅子から立ち上がり、扉へ向かった。
私は、馬車まで見送りに行かなかった。
足音が聞こえなくなると、重ねていた手を離した。
指が冷たかった。
伯母が尋ねた。
「何か、飲む?」
「温かいお茶を、お願いします」
言ってから、息を吐いた。
しばらくは、ほかのことを話せなかった。
伯母はお茶を用意し、伯父は同じ部屋で、本を開いていた。
私は、お茶が温かいうちに、両手でカップを持った。
◇
支度の間にも、迷うことはあった。料理を選ぶとき、彼の返事を先に聞いてしまったけれど、私も自分の好みを伝えた。違う料理だったので、どちらも出せるか、二人で料理人に聞いた。
結婚式は、初夏に行った。
伯父に付き添ってもらい、私はユベール様のところまで歩いた。
母の小皿は、前の日に、新しい家へ運んでいた。
父のために空けた席はなかった。
事情を伝えた親族は、伯母夫妻と挨拶を交わし、私たちの結婚を祝ってくれた。
父のもとへ戻るように言う人はいなかった。
式のあと、暮らしが始まった。
彼がいつも機嫌よく帰ってくるわけではなかった。
私も、疲れていて、話を短くしたい日があった。
「今日は、少し休んでもよいですか」
最初にそう尋ねたとき、彼は、自分も少し疲れたと言った。
夕食の時間だけ確かめ、それぞれの部屋で休んだ。
食卓で会う頃には、私は、その日に届いた手紙の話ができた。
ある朝、彼が、緑のカップを持って食堂へ来た。
私の前には、青いカップがあった。
母の小皿には、小さな焼き菓子を載せていた。
「次のお休みは、何か予定がありますか」
私が尋ねると、彼は首を振った。
「あなたと、町へ行きたいです。新しい店で、器を並べると聞いたので」
「僕も、案内を見ました。誘おうと思っていたんです」
私は、彼を見た。
「では、一緒に」
「はい。帰りには、お茶も飲みましょうか」
私は頷いた。
少し考えてから、付け足した。
「お店だけでなくて、そのあとも、あなたと過ごしたいです」
彼はカップを置いた。
私へ手を伸ばし、食卓に置いた私の指へ触れる。
「僕もです。では、その日は、夕方まで空けておきます」
私は、彼の手へ自分の手を重ねた。
お茶を飲み終えたら、案内を一緒に見ることにした。
~完~
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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