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結婚相手に望むのは「怒鳴らない人」だけだったのですが、今はあなたがいいのです

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/17

「次にお会いする方には、何を望む?」


 伯母は、私の前へお茶を置いて尋ねた。

 窓のそばで、伯父が手紙を読んでいる。

 誰も、早く答えなさいとは言わなかった。


「怒鳴らない人がいいです」


 言ってから、私はカップの持ち手へ指を添えた。

 もっときちんとした答えがあるはずだった。


「ええ。それは大切ね。ほかにも、あなたが望むことはある?」


 伯母の声に、指を離した。


「ほかは……すぐには、思いつかなくて。すみません」

「そう。では、そこは譲らずに探しましょう。ほかは、思いついたら教えて」


 私は、伯母を見た。

 彼女は椅子へ座り、私のお茶が冷める前にと、自分のカップを取った。


「まだお会いするだけ。合わなければ、お断りしてよいのよ」


 頷いて、お茶を飲んだ。

 温かかった。

 返事を待つ人の前で飲むお茶は、いつも、冷めてから口にするものだと思っていた。


 ◇


 父が声を荒らげると、私は先に謝った。

 何について怒られているのか、途中までしか分からなくても。


「聞いているのか、セヴリーヌ」

「はい。申し訳ありません」


 母を亡くしたのは、十二歳のときだった。

 その後、父と二人で食卓を囲むようになった。

 父は、母に代わって私をきちんと育てなければならないと言った。


 椅子へ座るのが遅い。

 質問への返事が遅い。

 客の前で話さないのも、口を挟むのもよくない。


 叱られる時間を早く終わらせるには、父の言うとおりにするのが一番だった。

 何が好きかを尋ねられても、まず、父が好みそうなものを考えた。


 一度、父にも、声を小さくしてほしいと頼んだ。


「普通に言って分かるなら、叱る必要もないだろう」


 そう返されると、私は続きを言えなかった。


 それでも、自分の好きなものまで、なくなったわけではない。

 母と使っていた小皿には、青い葉が描かれていた。ところどころ、少し傾いている。私はその違いを見るのが好きだった。帳面へ写すうちに、食器棚の皿を見る時間が増えた。


 十八歳で成人したとき、母方の親族が遺言に従って管理していた、母のお金を受け取った。父の家の財産とは別だと説明された。

 けれど、家を出て別の場所で暮らすために使えるとは、考えなかった。

 父の許しを得て暮らすものだと、ずっと思っていたから。


 ギヨーム様と婚約したのは、その年の秋だった。

 彼は伯爵家の嫡男で、私より二つ年上だった。

 両家の紹介で初めて会った日、彼は私の持っていた帳面について尋ねた。


「何を描いているの?」

「お皿の模様です」

「見せてもらってもいいかな」


 母の小皿を写した頁を開くと、彼はゆっくり見てくれた。


「これ、家にもあるよ。葉は全部同じだと思っていた」


 次には、手仕事の展示に誘ってくれた。

 私が食器を見たいと伝えると、先にそちらへ行こうと言った。

 父の前では話せなかったことを、彼には話せた。

 彼と暮らす日が楽しみになった。


 変わったのは、婚約から半年ほど経った頃だった。

 彼が選んだ食器について、私は別のものも見たいと言った。


「さっき、これがいいと言っただろう」

「こちらも、見てからと思って」

「だったら、初めからそう言ってくれ」


 少し強い声だった。

 私は急いで謝った。

 彼は、いつもの顔に戻った。


「もういいよ。これにしよう」


 それから、私が迷うと、彼は声を大きくするようになった。

 彼の話を遮らないようにしていると、黙っていないで答えてくれと言われた。

 私は、父と同じように、先に謝った。


 一度、お願いしたことがある。


「大きな声で言われると、何を答えればよいか、分からなくなります」


 彼は驚いた顔をした。


「そんなつもりはなかった。次は気をつける」


 私は嬉しくて、ありがとうございますと答えた。

 けれど、しばらくすると、また同じことがあった。


「いつまで考えているんだ。早く答えてくれ」


 彼の隣で、肩に力が入った。

 父のいない場所でも、私は同じ返事をしていた。


 家へ帰り、父へ相談した。

 声を荒らげないでほしいと頼んだことも、伝えた。


「そのくらいのことで、婚約者を悪く言うものではない。お前の返事が遅いからだろう」


 父は、机に載せていた書類を置いた。


「伯爵家の嫡男がお前を選んでくれたんだ。もっと相手の立場を考えなさい」


 私は頷いた。

 その夜、帳面を開いたけれど、何も描けなかった。


 伯母へ手紙を書いたのは、その翌日だった。

 手紙なら、最後まで書いてから読んでもらえると思った。

 父とギヨーム様のことを書いた。お願いしても怒鳴られること。結婚したあとの暮らしが、楽しみではなくなったこと。


 伯母からは、会って話しましょうと返事が来た。

 父には、母の遺品を整理するための招待だと伝え、外出の許しを得た。

 私に会ってから、伯母は言った。


「あなたがここまで書くのに、どれだけ迷ったかと思うと……」


 彼女は手紙を机へ置いた。


「これまで会ったときには、いつも、変わりないと聞いていたでしょう。私も、その返事で済ませてしまった」


 私は、膝の上の手を見た。


「家のことを悪く言うと、父に叱られると思って」

「今日は、お父様に聞かせるための返事をしなくていいのよ」


 私は顔を上げた。

 伯母は、もう一度尋ねた。


「今日、帰りたい?」


 口を開いたまま、声が出なかった。

 伯母は待っていた。

 私は首を振った。


「帰りたくないです」


 伯母は伯父を呼んだ。

 二人は私の希望を聞き、部屋を用意してくれた。

 伯父は、父への連絡を自分からすると言った。


「君は成人している。私たちも、君を預かることを承知している。居所を知らせておけば、父親が望むというだけで、ここから連れ出されることはない」


 母のお金についても、改めて話してもらった。

 身の回りの費用を自分で支払っても、すぐに尽きる額ではなかった。

 伯父が父と連絡を取り、私の着替えと帳面、それに母の小皿を使用人に運んでもらった。父は滞在が延びるだけだと思っているようだった。

 荷物を部屋へ置いてから、私は伯母と伯父に、婚約を解消したいと伝えた。


 話し合いの日、父とギヨーム様、それに彼の父である伯爵が来た。

 伯母と伯父は、私の隣に座っていた。


「何日、家を空けるつもりだ」


 父は、座る前から私へ尋ねた。


「こちらで暮らしたいと思っています」

「勝手なことを言うな。婚約の支度もあるだろう」


 私は、膝の上へ手を置いた。


「その婚約を、解消していただきたくて」


 ギヨーム様が、私を見た。


「君のお父上も困っていらっしゃる。意地を張るのはやめてくれ」

「意地ではありません。お願いしたことを、覚えていらっしゃいますか」

「声のことだろう。だから、気をつけると言ったじゃないか」

「そのあとにも、同じことがありました」


 彼は眉を寄せた。


「急いでいるときぐらい、早く返事をしてくれればいいんだ。こちらにも予定がある」


 最後の言葉に、父の声が重なった。


「そうだ。相手にここまで言わせて、まだ分からないのか」


 私は、息を吸った。

 謝ろうとすると、伯母の手が、私の椅子の背に触れた。


「まだ、セヴリーヌが話しています」


 伯父は父を見て、静かに言った。


「最後まで聞いてください。そのために集まったのです」


 私は、ギヨーム様を見た。


「予定を変えたことも、急いで返事をしたほうがよかったことも、あります。でも、怒鳴らないでほしいというお願いを、取り下げたわけではありません」


 彼は父親へ顔を向けた。

 伯爵は、私を見ていた。


「セヴリーヌ嬢。息子には、以前にもそう伝えたのですね」

「はい。一度、謝っていただきました」


 伯爵は息子へ尋ねた。


「そのあと、同じことをしたのか」

「そこまで気にするとは思わなかったんです」


 私は手を重ね直した。


「私は、もう、結婚を望んでいません」


 父が私の名を呼んだ。

 私は父へ向かず、伯爵の返事を待った。


「分かりました。本人が望まない婚姻は進めません。条件の清算について、お父上と確認させてください」


 ギヨーム様が椅子へ座り直した。


「そんなに、簡単に?」

「簡単に決めたとは聞いていない。お前には、既に直してほしいと伝えていたのだろう」


 父は、伯爵へ向き直った。


「娘は少し神経質になっています。私から、よく言い聞かせますので」

「ご本人が結婚を望まないことは、今、確認しました」


 父は私を見た。

 私は、首を振った。

 ギヨーム様が、こちらへ身を寄せた。


「少し時間を置こう。次の展示なら、君も行きたいと言っていたね。そのとき、また話そう」


 私は、彼の顔を見た。

 機嫌を直すための約束なら、今までも何度もしてきた。


「次の約束は、しません」


 彼の手が、膝の上で止まった。


「展示も?」

「あなたと出かける約束は、もうしません」

「今度は待つよ。君が選んでいいから」


 私は、首を振った。


「一度、気をつけると約束していただきました。それでも、また同じことがありました。もう、お会いしたいと思えません」


 彼は口を開き、何も言わずに父親を見た。

 伯爵は、息子へ向いた。


「解消したあと、すぐ次の相手を紹介するつもりもない。相手の訴えを聞かずに、また婚約を進めることはできない」

「では、僕は」

「まず、なぜこの縁が終わるのかを考えなさい」


 彼は私へ顔を戻した。

 私の返事を待っているようだった。

 私は、次に行く場所も、会える日も伝えなかった。

 伯父が清算の書類を開くと、彼もようやく、そちらへ目を落とした。


 贈られた品と、両家の支度の費用を整理することになった。

 解消は、その日に全て終わったわけではない。

 伯父を窓口に、父と伯爵が条件を確認した。伯爵が婚姻を進めないと明言すると、父も清算には応じた。

 自分の手元にある贈答品は、私が一覧にして返した。

 両家の合意を記した書類に、最後の署名をした日、私は伯母の客間で眠った。

 父から、帰るように言う手紙は届いていた。

 私は、戻らないと返事を書いた。


 ◇


 ユベール様に紹介されたのは、解消から二か月後だった。

 伯母の知人の息子で、子爵家の嫡男だと聞いていた。

 伯母の家で顔合わせをしたあと、陶器の展示へ行った。

 伯母と彼の母親も一緒だった。


「僕は、奥の食器を見たいのです。領地でも、似た形の器を使っているので」


 彼は入口で、案内を確かめた。


「セヴリーヌ様は?」

「私も、そちらで」


 そう答えてから、入口近くの棚を見た。

 小さな皿が並んでいる。

 縁の模様が、それぞれ違っていた。


「こちらも、ご覧になりますか」


 彼に尋ねられ、私は頷いた。


「少しだけ」

「では、僕も」


 私が棚の前へ立つと、彼は半歩後ろにいた。

 急いで見なければと思って、右から順に皿へ目を向けた。

 棚の端まで来る前に、彼が言った。


「さっきの皿は、見なくてよいのですか」


 振り返った。

 青い縁取りの皿だった。


「あとで、戻れればと思って」

「今なら、ほかの方もいらっしゃいませんし」


 彼は道を空けた。

 私は戻って、皿を見た。

 縁の線は一本だと思っていたけれど、細い線が二本、並んでいた。


「少し、帳面に描いてもよいでしょうか」

「展示の方に聞いてみましょう」


 許しを得て、私は帳面を開いた。

 彼も横から見ていた。


「二本だったんですね。遠くからだと、分かりませんでした」

「細いほうが、途中で少し離れています」


 私が指で示すと、彼は皿へ目を戻した。


「本当だ。こちらの皿も、そうでしょうか」


 私は隣を見た。

 そちらは、一本だった。

 違いを話しているうちに、時間を忘れた。


 伯母が、そろそろ奥も見ましょうかと声をかけた。

 私は慌てて帳面を閉じた。


「長くなって、申し訳ありません」

「僕も見ていたので。奥には、まだ十分間に合います」


 彼は入口の時計を確かめて言った。

 私は、その顔を見てから頷いた。


 奥にあったのは、厚みのある茶色の器だった。

 彼は、それを指して、子供の頃から家で使っていると話した。


「持ち手が大きいので、父はこればかり使います。僕も、家では似たものを」

「少し、重そうですね」

「はい。それは、困ることもあります」


 彼は笑った。


「ただ、慣れているので、手に取ると落ち着くんです。薄い器もきれいですが」


 私は茶色の器を見た。

 彼が飲み物を持って、机の前に座る姿を想像した。


「お仕事をなさるときにも?」

「ええ。父の手伝いで、帳簿を見ることが多いので」


 彼がどんな暮らしをしているのか、初めて、もう少し聞きたいと思った。


 ◇


 ギヨーム様から、手紙が届いた。

 声を荒らげたことへの謝罪と、もう一度会ってほしいという申し入れだった。


『今度は、君が返事をするまで待つ。婚約を戻すことも、考えてほしい』


 私は、二度読んだ。

 初めて帳面を見せた日を思い出した。

 優しかった日まで、なかったことにはできない。

 けれど、その日があったから、戻りたいわけでもなかった。


 伯母へ、会いたくないと伝え、私は自分で返事を書いた。


『謝罪は拝読しました。ですが、婚約を戻すことも、再びお会いすることも、望んでいません。今後の事務的なご連絡は、伯父を通してください』


 書き終えてから、これでは冷たいだろうかと、伯母へ尋ねた。


 伯母は返事を読み直し、私へ返した。


「私は、これでよいと思うわ。会いたくないのでしょう?」


 私は紙を見た。

 付け足そうとしていた言葉を、書かなかった。

 婚約を戻さない返事に、いつか気が変わるかもしれないとは書けなかった。


 その後、伯爵から伯父へ、息子が返書を受け取ったと連絡があった。再面会の依頼は重ねさせず、次の縁談も紹介しないという。

 私は返書の控えをしまった。


 ◇


 次の展示は、私からユベール様を誘った。

 伯母に案内を見せ、一緒に手紙を出した。

 返事を待つ間、皿の模様を何度も見直した。


 当日は、私の見たかった棚から回った。途中で彼に呼ばれ、隣の棚を覗きに行った。


 小さなカップの前で、彼は緑色のものを気に入った。

 私は、その隣の青いものを見ていた。


「こちらの色も、お好きですか」


 彼が聞いた。


「はい。でも、緑もきれいです」

「僕は、緑が好きですね」


 私は、緑のカップへ目を戻した。


「では、私も」


 言いかけると、彼は少し首を傾げた。


「セヴリーヌ様は、青いほうでは?」

「お揃いのほうが、よいかと思って」


 それは、私が勝手に考えたことだった。

 彼に頼まれたわけではない。


「違う色でも、一緒にお茶は飲めますよ」


 私は、青いカップを見た。

 持ってみたいと伝えると、店の人が渡してくれた。

 手に収まる大きさで、重すぎなかった。


「私は、こちらが好きです」


 彼も、選んだカップを持った。


「僕はこちらを。……持ち手は、そちらのほうが大きいんですね」


 彼は二つを見比べ、緑のほうを持ち直した。


「迷われますか」

「いえ。これで。色はどうしても、こちらが好きなので」


 決めてからも、彼は青いカップの持ち手を見ていた。私が笑うと、困ったように笑い返した。


 結局、それぞれ、自分の家で使うために買った。

 帰りの馬車で、伯母が、明日の朝から使いましょうと言った。

 私は包みを膝に置いたまま頷いた。


 その夜、彼も包みを開けただろうかと考えた。どんな机に載せたのか、次に会ったら聞こうと思った。


 何度か会ううちに、彼が家の仕事で疲れている日もあると知った。

 伯母の家へ来たとき、いつもより口数が少なかった。

 私が黙ると、彼は顔を上げた。


「今日は、あまり話せなくてすみません。昨日、領地から戻ったばかりで」

「お帰りになりますか」


 口にしてから、胸が落ち着かなくなった。

 彼は、少し考えた。


「もう少し、ここにいてもよいですか。お話を聞きたいので」


 私は頷いた。

 けれど、話し始める前に、尋ねた。


「私も、もう少し一緒にいたいです。でも、お疲れでしたら、今日は短くしても」


 彼は私を見た。


「では、お茶を一杯飲む間だけ。そのあと、次に会う日を決めてもよいですか」


 私は、自分のカップへ目を落とした。

 青いカップを使っていた。


「では、一つだけ。見ていただきたいものがあるんです」


 私は棚から帳面を取った。

 母の小皿を写した頁の隣に、新しく描いた模様があった。


「葉の間を、少し広くしてみました」


 彼は二つの頁を見比べた。


「こちらは、風が通りそうですね」

「風?」

「葉が、同じほうへ向いているので」


 そんなふうには考えていなかった。

 私は帳面を少し離して眺め、次の葉を描き足したくなった。彼が帰ってから描こうと、鉛筆だけ頁に挟んだ。


 お茶を飲み終える前に、次に会う日を決めた。

 帰り際、彼は領地の家で使っている器を描いてくると言った。


「持ち手を見ていただきたいんです。今度のカップとは、ずいぶん違うので」


 次に会ったとき、彼が広げた紙には、器と、それより大きな持ち手が描かれていた。


「こんなに大きくはないはずなんですが」


 私は口元を押さえた。

 堪えようとしたせいで、かえって変な声が出た。


「笑ってください。母には、籠を描いたのかと聞かれました」

「ごめんなさい。でも、本当に、籠に……」


 彼も笑い出した。

 私は紙を持たせてもらい、横へ帳面を置いた。


「器をもう少し大きくすれば、よいのではありませんか」

「直せますか」

「ここから、このくらいまで」


 指で辿ると、彼は鉛筆を取った。線を引き足すうち、今度は底が傾いた。


「お茶がこぼれそうですね」

「では、こちらも」


 紙の端まで描いてしまい、二人で手を止めた。


「これはもう、描き直したほうが早かったですね」


 私が言うと、彼は肩を揺らした。いつもの控えめな笑い方と違っていた。

 もう一度笑わせたいと思った。何か言おうとして、先ほどの絵を見て、私までまた笑ってしまった。


 お茶を飲む頃になっても、彼は紙を畳まなかった。


「持って帰って、もう一度描いてきます」

「こちらは、いただいてもよいですか」


 彼が顔を上げた。


「その絵を?」

「はい。今日のことを思い出せるので」


 彼は紙を見て、それから私を見た。


「では、次は別の紙に描きます」


 耳のあたりが赤かった。私も顔が熱くなって、帳面の間へ絵をしまった。

 その夜、もう一度開いた。線だらけの器を眺めていると、笑ったときの彼の声まで思い出せた。


 ◇


 秋の集まりで、彼は私を踊りに誘った。

 伯母に背を押されなくても、私は手を差し出せた。

 踊り終えると、彼は私の歩調に合わせて、席へ戻った。


「先日のカップは、使っていらっしゃいますか」

「毎朝。あなたは?」

「机に置いています。前のものより、小さかったですね」

「足りませんか」

「少し。でも、そのぶん、席を立ってお茶を入れるようになりました」


 彼は笑った。

 私も笑った。


「私のものは、ちょうどよかったです」

「それは、よかった」


 彼は席の前で立ち止まった。

 伯母は少し離れたところで、彼の母親と話していた。


「セヴリーヌ様。先日の絵は、まだお持ちですか」

「はい。帳面に挟んであります」

「そうですか」


 彼は上着の端へ触れた。何かを探すように指を動かしてから、手を下ろした。


「実は、あれを描く前に、二枚失敗しています」

「二枚も?」

「あなたと話すきっかけが欲しくて。器なら、と思ったんですが、描いてみると難しくて」


 私は彼を見た。


「でも、持ってきてくださった」

「ええ。あなたなら、どこがおかしいのか見つけてくれると思いました。最初の展示でも、僕の見落とした線を教えてくださったでしょう」


 彼は少し笑った。


「あなたと見たあとでは、家の食器まで気になってしまって。裏返していたら、母に何をしているのかと聞かれました」


 私も笑いかけた。けれど、彼がこちらを見つめていて、途中で口を閉じた。


「この前、一緒に笑ってくださって、嬉しかったんです。帰ってからも、また会いたいと、そればかり考えていました」


 近くで、次の曲が始まった。

 彼はそちらへ顔を向けずに言った。


「あなたが好きです。正式に、お付き合いをお願いできますか」


 握っていた扇を、両手で持ち直した。

 何度も会いたいと思った。それでも、彼からそう言ってもらえるとは、まだ思えていなかった。


「私も……あの絵を見るたびに、あなたに会いたくなります」


 彼の手が、わずかに動いた。

 私は扇を片手へ移し、空いた手を差し出した。


「ユベール様と、お付き合いしたいです」


 彼は私の手を取った。踊ったときと同じ手なのに、顔を見上げるのが難しかった。


「もう一曲、お誘いしても?」

「はい」


 席へ戻るはずだった私たちは、また広間の中央へ向かった。

 彼も少し足を速めていて、目が合うと、二人で笑った。


 ◇


 冬の間、私たちはお茶を飲み、何度か集まりへ出かけた。

 彼の両親とも話した。

 暮らす場所と、私が持っていくものについて、伯父たちも相談を重ねた。

 私のお金は私の支度と暮らしのために使い、父の家からの持参金を、この縁の条件にはしなかった。

 父と離れて暮らす理由も、私から彼と両親へ話した。


「結婚式へも、父は招きたくありません」


 話し終えてから、彼らの返事を待った。

 ユベール様の父親は、伯父へ向き直った。


「では、支度と親族への連絡は、引き続き、あなたと相談させてください」


 彼の母親も頷いた。

 ユベール様は、私へ尋ねた。


「当日は、伯父様に付き添っていただきますか」

「はい。そうお願いしたいです」


 春に、私たちは婚約した。

 父へは、伯父から正式に知らせた。

 父は、私に会いたいと返事を寄越した。


「会わなくてもよいのよ」


 伯母は、以前と同じように言った。

 私は、父の手紙を見た。

 結婚式の相談をしたいとあった。


「一度だけ、こちらでお話しします。お二人にも、一緒にいてほしいです」


 伯母は頷いた。

 父は、約束の時間に来た。

 私が席へ座ると、少し痩せたなと言った。

 私は挨拶をして、向かいを見た。


「結婚を決めたそうだな」

「はい」

「子爵家なら、こちらとの釣り合いもよい。あちらの当主には、私からも手紙を出した」


 私は、膝の上で手を重ねた。


「ご挨拶は、伯父を通して済ませています」

「そう返事をもらった。支度の相談も、こちらのお二人となさると。お前から、父親も一緒にと話しておけば、済んだだろう」


 私は父を見た。


「私も、それを承知して、お願いしています」

「式でお前を迎える役まで、伯父に任せるつもりか」


 父は伯父へ目を向け、それから私へ戻した。


「私が出なければ、家で何かあったと思われる。招待する親族にも、今は落ち着いて暮らしていると、お前から話しておきなさい」


 私は、父の言葉が終わるまで待った。


「こちらでは、落ち着いて暮らしています」

「そうだろう。だから、何も問題はないと」

「父の家へ戻るつもりはありません。結婚式にも、お招きしません」


 父の手が、椅子の肘掛けを掴んだ。


「何を言っているんだ。娘の結婚式に、父親を呼ばないのか」


 声が大きくなった。

 私の肩にも、力が入った。

 もう一度言おうとしたけれど、言葉が出なかった。

 伯父が、父へ向いた。


「声を荒らげるなら、今日はここまでにします」

「この子に分からせるために、話しているんです」

「本人は、あなたの申し入れを聞いて、返事をしました」


 父は、私のほうへ身を乗り出した。


「セヴリーヌ。謝れば、まだ間に合う。式の話も、あちらの家とのことも、私がきちんと進めてやる」


 私は、父の顔を見た。

 謝れば、この話は終わる。

 父の望む返事をすれば、声も小さくなる。

 これまで、何度もそうしてきた。


 私は、椅子の背から体を起こした。


「そのお声を聞かずに暮らすために、家を出ました」


 父は、口を閉じた。


「ギヨーム様にも、同じことをお願いしました。お父様には、私の返事が遅いからだと言われました」


 父の目が、伯母へ動いた。


「誰が、そんな言い方を教えた」

「私が、覚えていることです」


 私は、手を重ねたまま答えた。


「今日も、お声が大きくなったら、返事ができなくなりました。でも、結婚式へお招きしないという返事は、変わりません」


 伯母が、私の隣へ椅子を寄せた。

 父は、その動きを見ていた。


「私は、お前のために」

「私は、怒鳴らないでほしいとお願いしました」


 父の返事を待った。

 父は、伯父へ顔を向けた。


「親族に、どう説明すればよいんです」

「ご自身が出席しないことは、ご自身でお伝えください。セヴリーヌに、円満な親子だと説明させることはしません」


 伯母が私へ尋ねた。


「招く親族には、あなたがこちらで暮らしていることと、伯父様が付き添うことを、私たちから伝えてよい?」

「はい。お願いします」


 父が、伯母へ向き直った。


「わざわざ、そのような話を」

「当日の付き添いも、今の住まいも、事実です。父親の留守を預かっているだけだとは、説明できません」


 父は、もう一度私を見た。

 私は頷かなかった。

 伯父の手が、呼び鈴へ伸びた。


「本日の話は、ここまでです。今後、娘さんへ面会や結婚支度の依頼を重ねることは、お控えください。必要な連絡は、私が受けます」


 使用人が扉を開けた。

 父はすぐには立たなかった。


「父親に、帰れと言うのか」


 私は顔を上げたまま、答えた。


「はい。今日は、お帰りください」


 父は、伯母と伯父の顔を見た。

 どちらも、私に言い直すようには言わなかった。

 父は椅子から立ち上がり、扉へ向かった。


 私は、馬車まで見送りに行かなかった。

 足音が聞こえなくなると、重ねていた手を離した。

 指が冷たかった。


 伯母が尋ねた。


「何か、飲む?」

「温かいお茶を、お願いします」


 言ってから、息を吐いた。

 しばらくは、ほかのことを話せなかった。

 伯母はお茶を用意し、伯父は同じ部屋で、本を開いていた。

 私は、お茶が温かいうちに、両手でカップを持った。


 ◇


 支度の間にも、迷うことはあった。料理を選ぶとき、彼の返事を先に聞いてしまったけれど、私も自分の好みを伝えた。違う料理だったので、どちらも出せるか、二人で料理人に聞いた。


 結婚式は、初夏に行った。

 伯父に付き添ってもらい、私はユベール様のところまで歩いた。

 母の小皿は、前の日に、新しい家へ運んでいた。

 父のために空けた席はなかった。

 事情を伝えた親族は、伯母夫妻と挨拶を交わし、私たちの結婚を祝ってくれた。

 父のもとへ戻るように言う人はいなかった。


 式のあと、暮らしが始まった。

 彼がいつも機嫌よく帰ってくるわけではなかった。

 私も、疲れていて、話を短くしたい日があった。


「今日は、少し休んでもよいですか」


 最初にそう尋ねたとき、彼は、自分も少し疲れたと言った。

 夕食の時間だけ確かめ、それぞれの部屋で休んだ。

 食卓で会う頃には、私は、その日に届いた手紙の話ができた。


 ある朝、彼が、緑のカップを持って食堂へ来た。

 私の前には、青いカップがあった。

 母の小皿には、小さな焼き菓子を載せていた。


「次のお休みは、何か予定がありますか」


 私が尋ねると、彼は首を振った。


「あなたと、町へ行きたいです。新しい店で、器を並べると聞いたので」

「僕も、案内を見ました。誘おうと思っていたんです」


 私は、彼を見た。


「では、一緒に」

「はい。帰りには、お茶も飲みましょうか」


 私は頷いた。

 少し考えてから、付け足した。


「お店だけでなくて、そのあとも、あなたと過ごしたいです」


 彼はカップを置いた。

 私へ手を伸ばし、食卓に置いた私の指へ触れる。


「僕もです。では、その日は、夕方まで空けておきます」


 私は、彼の手へ自分の手を重ねた。

 お茶を飲み終えたら、案内を一緒に見ることにした。


~完~

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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