ノート
土曜日の朝、机の引き出しの奥から、使っていないノートを一冊出した。
表紙に何も書いていない、薄い水色のノート。高二の春に買って、結局一ページも使わなかったものだった。
一ページ目を開いて、シャーペンを持った。
何を書けばいいのか、わからないまま、一行目に、日付を書いた。
五月七日。
二年後の、水曜日。
書き始めると、止まらなかった。
五月七日。朝の『おはよ』が来ない。ホームに来ない。学食で知らない先輩たちと笑っている。
連休明けすぐ。萩原くんのお兄さんのバイクを、譲ってもらう。
翌週。カフェのバイトを辞めて、地元の駅前の居酒屋へ。週五、深夜まで。
「なんでもない」。
「高校の同級生」。
のど飴。「明日、熱出るから」。
五月二十四日、土曜日。駅前のカフェ。三時。来ない。五時過ぎ、ロータリーの向こう。
十二時十四分、既読。
十二時半。国道の交差点。ガードレール。
五月二十七日、火曜日。朝、五時十二分。
そこまで書いて、手が止まった。
シャーペンの芯が、紙の上で折れていた。
私はノートを閉じた。
閉じて、表紙の上に両手を載せたまま、動けなかった。階下で、掃除機の音が始まって、廊下を遠ざかっていった。
書いてしまうと、全部が、もう一度本当になった気がした。
昼過ぎに、別のページを開いた。
バイクに乗せない。萩原くんのお兄さんに、先に誰かに譲ってもらう。深夜のバイトをさせない。あの先輩たちに、近づかせない。五月七日から、一日も離れない。
書いたそばから、ひとつずつ、どうやって、という疑問が浮かんだ。
二年後の大学で、二年後の裕太が何をするのか。それを、高三の私が、どうやって止めるのか。
そもそも、どうして裕太は変わったのか。
理由がわからないものを、止める方法は、わからなかった。
ひとつだけ、わかっていることがあった。
五月七日より前の裕太は、何も変わっていなかった。石段の上で、私の言葉が来るのを、ずっと待っていてくれた。門の前で、「待てなかった」と言った。共通テストの夜、一行ずつ、自分の言葉を探していた。
あの人は、あの日まで、ずっとあの人だった。
ノートの、一番下の行に、書いた。
そばにいる。
そばにいれば、止められるかもしれない。
そばにいれば、五月七日の朝に、あの人の隣で、「おはよう」を言える。
それだけではない、ということも、わかっていた。
もう一度あの人を好きになりたかった。
もう一度あの人に、好きになってほしかった。
二年後に何が起きるのかを知っていて、黙ったまま、何も知らない人の隣で恋をする。それは、ずるいことなのかもしれなかった。
でも、あの人のいない二年間を、私はもう想像できなかった。
ノートを引き出しの一番奥にしまって、上から古い教科書を何冊か重ねた。
月曜日の朝、机に突っ伏していた裕太が、私が椅子を引く音で顔を上げた。
「……おはよ」
二年後の朝、来なくなる声だった。
「……おはよう」
裕太は大きく欠伸をして、途中で止まった。
「……あ、そうだ。先週の金曜さ、しゃべるの遅いよねって、俺、言ったじゃん。あれ、あとで考えたら、なんか感じ悪かったかなって。……ごめん」
二年前には、なかった言葉だった。
二年前の裕太は、私の三日遅れの「ありがとう」を、笑って受け取っただけだった。
「……ううん」
私は首を振った。
「……ありがとう、って。言おうと思ってた。待ってると、ちゃんと来るって。……あれ、嬉しかったから」
裕太はぽかんとした顔で私を見た。
「……え。俺、それ、言ったっけ」
背中が、すっと冷たくなった。
言っていなかった。
待ってると、ちゃんと来るじゃん、と言ったのは、二年前の裕太だった。この裕太は、あの金曜日、萩原くんに呼ばれて、そのまま教室を出ていった。
「……言ってた、気がした」
「……いや、思ってはいたけど。言ってないはず。……なんで知ってんの」
私は答えられなかった。
裕太は首を傾げて、それからゆっくりと耳の先を赤くした。
「……なら、よかった」
また腕の中に顔を戻して、肩を小刻みに揺らしていた。
笑っているのだと、今度はすぐにわかった。
三日遅れではなかった。二年前の私が三日かけて届けた言葉を、今の私は、週末を一つ挟んだだけで届けた。
何かが、ほんのわずかにずれている。
同じ二年間を、同じようにたどれば、同じように恋ができる。でも、同じ場所に着いてしまう。
違う道を選べば、あの五月七日を避けられるかもしれない。でも、この人は私を好きにならないかもしれない。
私はノートの端に、小さく書いた。
同じで、違うように。
書いてから、消しゴムで消した。
消したあとに、薄く跡が残った。
五月に入ると、昼休みには四つの机がくっつくようになった。萩原くんと亜美が、一週間でお互いを呼び捨てにしたのも、二年前の速さのままだった。
違ったのは、呼び名だった。
四月の最初の日に、私が「裕太」と呼んでしまったせいで、この人はずいぶん早くから私を「渚沙」と呼ぶようになっていた。「そっちが先に呼んだんだし」と言って。
放課後の図書室で「言葉にしてないとこのほうが、ちゃんと聞こえてそうだな」と言われたのも、二年前と一字一句変わらなかった。呼び名だけが、違っていた。
嬉しくて、胸の奥が、ひどく痛かった。
下校の途中、交差点の手前で、裕太が右を指した。
「こっち」
足が、止まった。
右の道の先に、坂がある。坂の上に、古い石の鳥居がある。
四月から一度も近づけなかった場所だった。
「……私、今日は、まっすぐ帰る」
言ってから、しまった、と思った。
二年前の私は、この人についていった。あの夕方の石段から、全部が始まった。
裕太は右を指したまま、私の顔を見ていた。
「……神社、嫌い?」
鞄の持ち手を握った指に、爪が食い込んだ。
「いや、なんか、今、そっち見て、顔色変わったから」
裕太は指を下ろした。
「別に、いいよ。まっすぐでも」
あそこには、雨の神社がある。喪服で膝をついた砂利がある。私を、ここに連れ戻したものがある。
知らないものの前に、この人を連れていくのが、怖かった。
でも、まっすぐでもいい、と言ったこの人は、道の真ん中に立ったまま、私の答えを待っていた。
「……行く」
坂を上った。一歩ごとに、鳥居が大きくなっていった。
隣で裕太が「無理しなくていいのに」と言った。私は首を振った。
鳥居をくぐった。
雨は、降っていなかった。五月の、よく晴れた夕方だった。
それなのに、膝の下で、何かが水を吸っていくような感覚が、一瞬だけあった。
私は本殿も、その脇の立て札も見ないまま、裕太の半歩後ろについて歩いた。
本殿の前の石段は、二年前と同じ温度だった。
楠の葉の音がした。鳩の羽音がした。
隣で裕太が息をしていた。
それだけで、よかった。
「なあ、渚沙。卒業したら、何したいとかある?」
二年前の私は、「まだ、わかんない」と答えた。
「……ある」
「え、あんの」
隣の横顔を見た。
「……二年後の、五月を、一緒に過ごしたい」
裕太はきょとんとした顔をした。
「……二年後の五月? なんで五月?」
「……なんとなく」
「なにそれ。具体的すぎん?」
裕太は声を出して笑った。
それから少し照れたように、前を向いた。
「……まあ、いいけど。五月なら、たぶん暇だし」
私は膝を抱えた腕に、顔を半分埋めた。
本殿の脇で、黄色いものが、風に揺れていた。
私はそれを見なかった。




