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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第二章 五月七日

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のど飴

 火曜日の朝、目が覚めたとき、喉の奥がかすかに痛かった。


 唾を飲み込むと、ちくりとする。熱はない。鼻も詰まっていない。ただ、喉の一番奥のところだけが、小さく腫れているような感じがした。


 日曜日の夜、花屋の前に一時間以上立っていたせいかもしれない。五月とはいえ、夜はまだ冷える。


 母に言うほどのことでもなかった。


 マスクもしないで家を出た。


 


 二限は文学部の大教室の講義だった。


 後ろから三列目の、端の席に座った。先生が、古い詩を一篇、ゆっくり読み上げた。黒板に書かれた題名を、ノートに写した。


 唾を飲み込むたびに、喉がちくりとした。


 気がつくとノートには題名だけが残っていて、その下は白いままだった。


 二限の講義が終わったあと図書館に向かって歩いていた。


 キャンパスの真ん中を貫く、銀杏並木の道。五月の銀杏は、秋とはまるで違っていた。若い緑の葉が、枝の先まで柔らかく茂っていて、木漏れ日が石畳の上で揺れていた。


 並木道の半ばで、足が止まった。


 向こうから今里くんが歩いてきた。


 あの先輩たちと一緒だった。男の人が二人と、女の人が一人。今里くんはその真ん中で、何か言われて、笑っていた。


 今里くんが、私に気づいた。


 笑うのを、やめた。


 学食のときと変わらない、一秒。


 私は、逸らされる前に、自分から目を逸らした。


 並木道の端に寄ってすれ違おうとした。


 すれ違う、ほんの一歩手前だった。


「——山吹」


 呼ばれた。


 顔を上げると、今里くんが、先輩たちから一歩遅れて、私の前で立ち止まっていた。


 山吹、と呼ばれたのは、初めてだった。


 高三の五月から、ずっと、渚沙だった。


 


 今里くんはジャケットのポケットに手を入れて、何かを取り出した。


 小さな、のど飴の袋だった。


 コンビニで売っている、はちみつ味の、小さな袋。封はもう切ってあって、口が一度、折り返してあった。


 それを、私の手に押しつけた。


「喉、痛いんだろ」


「……え」


「さっきから、飲み込むたびに顔しかめてる。……日曜、あんな時間まで外に突っ立ってたろ」


 今里くんは、私の顔ではなく、袋を握った私の指を見ていた。


「明日、熱出るから。講義、休めよ」


 それだけ言って、今里くんは、先輩たちのほうへ歩いていった。


 先輩の一人が「なに、知り合い?」と訊くのが聞こえた。今里くんは「高校の同級生」と答えた。


 高校の同級生。


 その言葉が、並木道の木漏れ日の中で、しばらく宙に浮いていた。


 


 私はのど飴の袋を握ったまま、立ち尽くしていた。


 喉が痛いことを、誰にも言っていなかった。


 母にも。亜美にも。


 飲み込むたびに、顔をしかめていたらしい。自分では、気づいていなかった。


 並木道の、ほんの数歩のあいだだった。そのあいだに、この人は、それを見ていた。


 日曜日の夜、あんな時間まで花屋の前に立っていた私のことも、ちゃんと覚えていた。


 ベンチに座って折り返された袋の口を開いた。一粒、口に入れた。はちみつの甘さが、喉の痛いところに、じんわりと染みていった。


 明日、熱が出るから。


 今里くんはそう言った。


 「出るかもしれない」でも、「出たら」でもなく。


 出るから、と。


 私の熱の出方を、何度も見てきた人の言い方だった。


 


 帰りの電車は、一人だった。


 扉の脇に立って上着のポケットの中で、のど飴の袋を握っていた。握るたびに、袋が小さく音を立てた。


 川を渡るとき、窓の外を見た。


 土手の緑が、夕方の光の中を流れていった。


 去年の秋、この窓に額をつけていた人は、今日、私を「山吹」と呼んだ。先輩たちに、「高校の同級生」と言った。


 それなのに、ポケットの中には、この袋がある。


 どちらを信じればいいのか、決められなかった。


 二粒目を口に入れた。


 地元の駅に着くまでに、三粒、なくなった。


 


 その夜、亜美に電話した。


「……は? なにそれ」


 話し終えると、電話の向こうで、テレビの音がふっと小さくなった。


「喉痛いの、誰にも言ってないんだよね」


「……うん。飲み込むとき、顔しかめてたって」


「ああ。渚沙、しんどいとき顔に出るし」


「……うん」


「でも、明日熱出るって、なんで言い切れんの」


「……わかんない」


「今里、医者でも目指してんの?」


 亜美は冗談めかして言ったけれど、声は笑っていなかった。


「……ねえ、渚沙。高校の同級生、って言ったんだよね。先輩たちに」


「……うん」


「それ、別れたって意味?」


 私は、答えられなかった。


 別れよう、とは言われていない。


 でも、付き合っている、とも、もう言えなかった。


「……わかんない」


 この二週間、何度この言葉を言っただろう、と思った。


 わかんない。わからない。


 全部、わからないまま、日だけが過ぎていった。


 


 水曜日の朝、熱が出た。


 三十八度二分。


 体温計の数字を見て、私は、しばらく動けなかった。


 母がおでこに手を当てて、「今日は休みなさい」と言った。ベッドに戻されて、冷却シートを貼られて、布団を肩まで掛けられた。


 天井を見ていた。


 熱のせいで頭がぼんやりしていた。


 明日、熱出るから。


 枕元に、のど飴の袋が置いてあった。半分くらい減っていた。


 スマホを手に取った。


 トーク画面を開いた。


『熱、出た』


 打って、送った。


 既読は、すぐについた。


 三分後に返事が来た。


『寝てろ』


 それだけだった。


 二週間ぶりに、『おはよ』以外の言葉が届いた。


 私は、その三文字を、熱に浮かされた目で、何度も読んだ。


 寝てろ。


 わかっていたみたいに、言った。


 わかっていたみたいに、心配していた。


 


 昼過ぎに少し眠った。


 夢を見た。


 坂の上の神社の、本殿の前の石段に座っていた。高三の制服を着ていた。隣に、今里くんがいた。


 今里くんは、膝の上で指を組んで、前を向いていた。


 何か訊かれた気がした。何を訊かれたのかは、わからなかった。わからないのに、答えなきゃ、と思った。


 言葉を探した。


 探しているうちに、隣の石段が、空いていた。


 今里くんが座っていたところに、楠の葉の影だけが揺れていた。


 目が覚めると額の冷却シートがぬるくなっていた。


 


 熱は夕方には下がった。


 夜、母がお粥を持ってきてくれたとき、私は、のど飴の袋を握ったまま眠っていたらしい。


「それ、どうしたの」


 母に訊かれて、私は、なんと答えればいいのかわからなかった。


「……もらった」


「誰に」


「……高校の、同級生」


 言ってから、自分でその言葉に傷ついた。


 母は何も言わずに、お粥を枕元に置いて、部屋を出ていった。


 扉が閉まる前に、小さな声が聞こえた。


「裕太くんと、何かあったの」


 私は、答えなかった。


 答えられなかった。


 母が、今里くんを名前で呼ぶのを聞いたのは、そのときが初めてだった。

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