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五月の水仙は枯れない  作者: 柳田望海
第二章 五月七日

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なんでもない

 次の日も、『おはよ』は来なかった。


 その次の日も。


 私から『おはよう』を送ると、既読はつく。返事は、ときどき来る。『おはよ』だけ。スタンプも、絵文字もない、三文字だけ。


 朝のホームには、一度も来なかった。


 学食の窓際の席にも、座らなかった。


 代わりに、真ん中のテーブルで、あの人たちと笑っていた。


 


 朝は、それでも、いつもの扉の前に立った。


 電車が来るまでの数分、隣が空いている。発車のベルが鳴るころには、知らない誰かが、そこに並んでいた。


 一時間と少し、窓の外を見ていた。


 川を渡るところだけは、目を閉じた。


 


 本屋のアルバイトは、平日に二回、夕方から閉店まで。それと、日曜日の昼から入っていた。


 レジに立って、バーコードを読んで、文庫にカバーをかける。「ありがとうございました」と頭を下げる。手が覚えている作業のあいだは、ほかのことを考えずにいられた。


 棚の整理を頼まれると、だめだった。


 大学入試の棚に、赤い背表紙がずらりと並んでいた。その中に、私たちの大学の名前があった。


 一年と少し前、あれと同じ一冊を、図書館の向かいの席で、二人それぞれに開いていた。今里くんのは、付箋だらけで、角が丸くなっていた。


 私はその一冊を棚から抜いて、また差し込んだ。背表紙の高さを、隣の本ときっちり揃えた。


 閉店の音楽が流れ始めても、揃えた背表紙を、指でなぞっていた。


 


「最近、今里と一緒じゃないね」


 翌週の木曜日、三限のあとに、ゼミの子に言われた。


「喧嘩した?」


「……ううん」


「そっか。なんか、雰囲気変わったよね、今里。サークル入ったの?」


「……わかんない」


 わからなかった。


 何も。


 私が知っている今里くんは、サークルには入っていなかった。人の多いところは疲れると言って、学食の端の席を選ぶ人だった。大きな声で笑うよりも、私の隣で、声を出さずに肩を震わせて笑う人だった。


 あの人が、どこへ行ってしまったのか、わからなかった。


 


 金曜日の夕方、経済学部の棟の前で待った。


 五限が終わる時間だった。出てくる人の流れの中に、今里くんを探した。


 見つけた。


 一人だった。今日は、あの人たちと一緒ではなかった。


 ヘッドホンを首にかけて、うつむき加減に歩いてくる。私に気づいたのは、三メートルくらい手前だった。


 足が、止まった。


「……今里くん」


 今里くんは、私を見た。


 学食のときと、変わらなかった。一秒だけ、見て。


 それから、何でもない顔をした。


「おう。どうした」


「……話したくて」


「なに」


「……何か、あった?」


 今里くんは、首の後ろに手をやりかけて、やめた。その手を、ポケットに入れた。


「なんもないよ」


「でも」


「なんでもない」


 遮るように、言った。


 私は黙った。


 言葉を探した。何か、ちゃんとした言葉。今の今里くんに届く言葉。この一週間、ずっと胸の中で転がしていた言葉があったはずだった。


 どうして、おはよう、って言ってくれないの。


 どうして、朝のホームにいないの。


 あの人たちは、誰なの。


 どうして、目を逸らすの。


 どれから言えばいいのか、わからなかった。


 今里くんは、待っていた。


 待っているように、見えた。


 でも、それは、四月の教室で、図書館の机で、屋上の階段で、門の前で、ずっと私を待っていてくれたのとは、違う待ち方だった。


 早く終わってほしい、と思っている人の待ち方だった。


「……ごめん、この後バイトだから」


 今里くんが先に言った。


 私の言葉が来る前に。


「バイト、カフェ?」


「いや。……辞めた」


「え」


「地元の駅前の居酒屋に変えた。夜のほうが時給いいから」


 そう言って今里くんは私の横を通り過ぎた。


 すれ違うとき、左の手首が見えた。


 黒い革のベルトの、飾り気のない時計。


 去年の六月、私があげたもの。


 今里くんは、それをまだ、つけていた。


 


 その足で、工学部の実験棟へ向かった。


 萩原くんは、棟の前の喫煙所の横で、自販機の缶コーヒーを飲んでいた。私を見つけると、いつものように大きく手を振りかけて、途中でやめた。


「……山吹さん」


 声が、いつもより小さかった。


「裕太のこと、だよね」


 私は頷いた。


 萩原くんは缶を手の中で転がした。


「俺もさ、わかんないんだよ。連休明けから、急に。……あの先輩たち、知ってる? 経済の、飲み会ばっかやってるサークルの人たち。裕太、今まで一回も誘いに乗ったことなかったのに、いきなり毎日つるみ出して」


「……バイトも、変えたって」


「居酒屋でしょ。聞いた。しかも、週五で深夜まで入れてる。……あいつ、朝弱いのに」


「……」


「あと、兄貴のバイク。前に話だけ出てたやつ、急に、やっぱ譲ってくれって。俺が兄貴に話通したけど。……なんで今なんだか」


 萩原くんは困ったように頭を掻いた。


「訊いたんだよ、俺も。どうしたって。そしたら、『なんでもない』って」


 同じだった。


 私にも、萩原くんにも、同じ言葉。


「山吹さんと、喧嘩したのかと思ってた」


「……してない」


「だよね。……だったら、もっとわかんねえな」


 萩原くんは缶の残りを一気に飲んで、ゴミ箱に放った。


 缶は縁に当たって、からん、と音を立てて、中に落ちた。


「なんかわかったら、言うよ」


「……ありがとう」


「山吹さんも。なんか、あったら」


 萩原くんは、最後に、少しだけ笑った。


 高三の昼休み、四つの机を囲んでいたころと、同じ笑い方だった。それが、かえって胸に痛かった。


 


 その夜、亜美に電話した。


「……は?」


 全部話し終えると、亜美は低い声でそう言った。


「なにそれ。意味わかんない。浮気?」


「……わかんない」


「わかんないって。渚沙、それ、ちゃんと訊いた?」


「訊いた。……なんでもない、って」


「なんでもないわけないじゃん」


 亜美の声が電話の向こうで尖った。


「朔は? 朔、同じ大学でしょ。何か知らないの」


「……訊いた。萩原くんも、わかんないって」


「はあ? 親友でしょ、あいつ」


 亜美は、そこで一度、息を吐いた。


「……渚沙、大丈夫?」


 大丈夫、と言おうとした。


 言葉が、出なかった。


 電話の向こうで、亜美が黙って待っていた。


 私はベッドの上で膝を抱えた。


「……わかんない」


「うん」


「なんで、って思ってる。ずっと。……私、何かしたのかなって」


「してないよ」


「……なんで、わかるの」


「わかるよ。あたし、渚沙のこと、中学から見てるもん」


 亜美の声が少しだけ柔らかくなった。


「渚沙が何かしたなら、渚沙、たぶん自分でわかってる。わかんないってことは、渚沙のせいじゃないよ」


 


 電話を切って窓を開けた。


 五月の夜の空気が、部屋に入ってきた。昼間の熱が残っていて、かすかに湿っていた。


 遠くで、バイクの音がした。


 エンジンの低い音が、駅のほうから近づいてきて、家の前の道を通り過ぎていく。


 私は、何気なく、窓から道を見下ろした。


 街灯の下を一台のバイクが走っていった。


 黒いヘルメット。黒いジャケット。


 左の手首に、何かが光った気がした。


 バイクは、速度を落とさなかった。私の家の前を、ほんの数秒で走り抜けて、角を曲がって、見えなくなった。


 エンジンの音だけが、しばらく夜の中に残っていた。


 萩原くんのお兄さんのバイク。夕方、萩原くんがそう言っていた。


 免許を取ったことも、後ろに乗せてやる、と言われたことも、覚えていた。でも、あの人が夜の道を一人で、あんな速さで走っていくところは、どうしても思い浮かばなかった。


 見間違いだ、と思った。


 この町に、黒いジャケットの人なんて、いくらでもいる。


 そう思おうとした。


 窓を閉めても、エンジンの音が、耳の奥から消えなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。


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