なんでもない
次の日も、『おはよ』は来なかった。
その次の日も。
私から『おはよう』を送ると、既読はつく。返事は、ときどき来る。『おはよ』だけ。スタンプも、絵文字もない、三文字だけ。
朝のホームには、一度も来なかった。
学食の窓際の席にも、座らなかった。
代わりに、真ん中のテーブルで、あの人たちと笑っていた。
朝は、それでも、いつもの扉の前に立った。
電車が来るまでの数分、隣が空いている。発車のベルが鳴るころには、知らない誰かが、そこに並んでいた。
一時間と少し、窓の外を見ていた。
川を渡るところだけは、目を閉じた。
本屋のアルバイトは、平日に二回、夕方から閉店まで。それと、日曜日の昼から入っていた。
レジに立って、バーコードを読んで、文庫にカバーをかける。「ありがとうございました」と頭を下げる。手が覚えている作業のあいだは、ほかのことを考えずにいられた。
棚の整理を頼まれると、だめだった。
大学入試の棚に、赤い背表紙がずらりと並んでいた。その中に、私たちの大学の名前があった。
一年と少し前、あれと同じ一冊を、図書館の向かいの席で、二人それぞれに開いていた。今里くんのは、付箋だらけで、角が丸くなっていた。
私はその一冊を棚から抜いて、また差し込んだ。背表紙の高さを、隣の本ときっちり揃えた。
閉店の音楽が流れ始めても、揃えた背表紙を、指でなぞっていた。
「最近、今里と一緒じゃないね」
翌週の木曜日、三限のあとに、ゼミの子に言われた。
「喧嘩した?」
「……ううん」
「そっか。なんか、雰囲気変わったよね、今里。サークル入ったの?」
「……わかんない」
わからなかった。
何も。
私が知っている今里くんは、サークルには入っていなかった。人の多いところは疲れると言って、学食の端の席を選ぶ人だった。大きな声で笑うよりも、私の隣で、声を出さずに肩を震わせて笑う人だった。
あの人が、どこへ行ってしまったのか、わからなかった。
金曜日の夕方、経済学部の棟の前で待った。
五限が終わる時間だった。出てくる人の流れの中に、今里くんを探した。
見つけた。
一人だった。今日は、あの人たちと一緒ではなかった。
ヘッドホンを首にかけて、うつむき加減に歩いてくる。私に気づいたのは、三メートルくらい手前だった。
足が、止まった。
「……今里くん」
今里くんは、私を見た。
学食のときと、変わらなかった。一秒だけ、見て。
それから、何でもない顔をした。
「おう。どうした」
「……話したくて」
「なに」
「……何か、あった?」
今里くんは、首の後ろに手をやりかけて、やめた。その手を、ポケットに入れた。
「なんもないよ」
「でも」
「なんでもない」
遮るように、言った。
私は黙った。
言葉を探した。何か、ちゃんとした言葉。今の今里くんに届く言葉。この一週間、ずっと胸の中で転がしていた言葉があったはずだった。
どうして、おはよう、って言ってくれないの。
どうして、朝のホームにいないの。
あの人たちは、誰なの。
どうして、目を逸らすの。
どれから言えばいいのか、わからなかった。
今里くんは、待っていた。
待っているように、見えた。
でも、それは、四月の教室で、図書館の机で、屋上の階段で、門の前で、ずっと私を待っていてくれたのとは、違う待ち方だった。
早く終わってほしい、と思っている人の待ち方だった。
「……ごめん、この後バイトだから」
今里くんが先に言った。
私の言葉が来る前に。
「バイト、カフェ?」
「いや。……辞めた」
「え」
「地元の駅前の居酒屋に変えた。夜のほうが時給いいから」
そう言って今里くんは私の横を通り過ぎた。
すれ違うとき、左の手首が見えた。
黒い革のベルトの、飾り気のない時計。
去年の六月、私があげたもの。
今里くんは、それをまだ、つけていた。
その足で、工学部の実験棟へ向かった。
萩原くんは、棟の前の喫煙所の横で、自販機の缶コーヒーを飲んでいた。私を見つけると、いつものように大きく手を振りかけて、途中でやめた。
「……山吹さん」
声が、いつもより小さかった。
「裕太のこと、だよね」
私は頷いた。
萩原くんは缶を手の中で転がした。
「俺もさ、わかんないんだよ。連休明けから、急に。……あの先輩たち、知ってる? 経済の、飲み会ばっかやってるサークルの人たち。裕太、今まで一回も誘いに乗ったことなかったのに、いきなり毎日つるみ出して」
「……バイトも、変えたって」
「居酒屋でしょ。聞いた。しかも、週五で深夜まで入れてる。……あいつ、朝弱いのに」
「……」
「あと、兄貴のバイク。前に話だけ出てたやつ、急に、やっぱ譲ってくれって。俺が兄貴に話通したけど。……なんで今なんだか」
萩原くんは困ったように頭を掻いた。
「訊いたんだよ、俺も。どうしたって。そしたら、『なんでもない』って」
同じだった。
私にも、萩原くんにも、同じ言葉。
「山吹さんと、喧嘩したのかと思ってた」
「……してない」
「だよね。……だったら、もっとわかんねえな」
萩原くんは缶の残りを一気に飲んで、ゴミ箱に放った。
缶は縁に当たって、からん、と音を立てて、中に落ちた。
「なんかわかったら、言うよ」
「……ありがとう」
「山吹さんも。なんか、あったら」
萩原くんは、最後に、少しだけ笑った。
高三の昼休み、四つの机を囲んでいたころと、同じ笑い方だった。それが、かえって胸に痛かった。
その夜、亜美に電話した。
「……は?」
全部話し終えると、亜美は低い声でそう言った。
「なにそれ。意味わかんない。浮気?」
「……わかんない」
「わかんないって。渚沙、それ、ちゃんと訊いた?」
「訊いた。……なんでもない、って」
「なんでもないわけないじゃん」
亜美の声が電話の向こうで尖った。
「朔は? 朔、同じ大学でしょ。何か知らないの」
「……訊いた。萩原くんも、わかんないって」
「はあ? 親友でしょ、あいつ」
亜美は、そこで一度、息を吐いた。
「……渚沙、大丈夫?」
大丈夫、と言おうとした。
言葉が、出なかった。
電話の向こうで、亜美が黙って待っていた。
私はベッドの上で膝を抱えた。
「……わかんない」
「うん」
「なんで、って思ってる。ずっと。……私、何かしたのかなって」
「してないよ」
「……なんで、わかるの」
「わかるよ。あたし、渚沙のこと、中学から見てるもん」
亜美の声が少しだけ柔らかくなった。
「渚沙が何かしたなら、渚沙、たぶん自分でわかってる。わかんないってことは、渚沙のせいじゃないよ」
電話を切って窓を開けた。
五月の夜の空気が、部屋に入ってきた。昼間の熱が残っていて、かすかに湿っていた。
遠くで、バイクの音がした。
エンジンの低い音が、駅のほうから近づいてきて、家の前の道を通り過ぎていく。
私は、何気なく、窓から道を見下ろした。
街灯の下を一台のバイクが走っていった。
黒いヘルメット。黒いジャケット。
左の手首に、何かが光った気がした。
バイクは、速度を落とさなかった。私の家の前を、ほんの数秒で走り抜けて、角を曲がって、見えなくなった。
エンジンの音だけが、しばらく夜の中に残っていた。
萩原くんのお兄さんのバイク。夕方、萩原くんがそう言っていた。
免許を取ったことも、後ろに乗せてやる、と言われたことも、覚えていた。でも、あの人が夜の道を一人で、あんな速さで走っていくところは、どうしても思い浮かばなかった。
見間違いだ、と思った。
この町に、黒いジャケットの人なんて、いくらでもいる。
そう思おうとした。
窓を閉めても、エンジンの音が、耳の奥から消えなかった。
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