知らない人に私を殺してみませんかと頼まれた
青春、そう聞いて思い浮かぶのはなんだろうか?
同じクラスの気になるあの子との恋愛。
それもいいだろう。
文化祭でギターをかき鳴らし、愛だの恋だのを叫ぶ。
それもいいだろう。
だけど、僕にとってのそれは彼女を殺し続けることだった。
「ねぇ、私を殺してみない?」
うるさいくらいに主張する青空と太陽の下で彼女は僕にそう言った。ぽろっと外れた有線イヤホンからはセミの鳴き声と消え入りそうな彼女の声と流していたJust the two of usが混ざって、洗いそびれたパレットに染み付いた絵の具みたいにずっと脳に残っていた。
「何を言っているの?」
「そのまんまの意味だよ、試しにほら。首を絞めてごらんよ」
彼女は白い腕で僕の手を掴んで、折れそうな首筋にピタッと当てた。一定のリズムが手につたい、汗でじんわりと滲んだ。僕に顔を近づけ、彼女の黒く綺麗な髪の毛が太陽を隠した。
「ほら、ほらほらほら」
細い腕からは想像もできない握力で掴まれた僕の手はどれだけ抵抗しても、意思とは無関係に彼女の首を締めていった。強く握りしめる僕の手に、彼女の唇から漏れた芋虫みたいに蠢く唾液が落ちた。
どれほどそうしていただろうか。彼女はやがて2度、小刻みに震えて目を真っ赤に充血させて、そうして力が抜けたように腕を離した。
「な、なにしてんだ…頭おかしいんじゃないのか?」
僕が制服のズボンに手を擦り付けて彼女の方を見やると地面に倒れ込んでいた。肩を何度か揺すっても反応がなく、脈もない。
目の前で人が死んだ…いや、殺したというのにリアリティがなくてイヤホンから流れる音楽とセミの鳴き声だけが残った。世界から音を切り取ったように孤立した空間で横たわる死体だけが違和感を纏っていた。
どうしようかと途方にくれ、警察に連絡しようと携帯を取り出した瞬間にもう一度彼女はびくんと魚みたいに跳ね上がった。
「んー、やっぱり駄目か」
「…なんなんだお前」
「不死の病を感染された可哀想な人だよ」
「はぁ?」
彼女は名前を名乗らなかった。ただ目を細めて事情をぽつぽつと語り出した。
「昔からあるんだ、不死の病ってのが」
「不死?不治ではなく?」
「うん、死ねなくなる病気。昔とある人にもらっちゃってね、それからずっとこのままさ」
「イカれてんじゃないのか?お前」
「たまたま生き返っただけだと思ってるでしょ。見てて」
そう言って彼女はどこからか取り出したナイフを首筋に当てた。太陽光を反射するギラリとした殺意を具現化したようなそれは僕の静止を聞く前に無慈悲に、滑らかに振り下ろされた。紅葉が舞うみたいに、インクが入ったバケツを容赦なくぶちまけたときみたいに視界を赤が覆った。顔に降り掛かった生暖かいややドロドロした液体が頬に滴り、口の中に入ると鉄の味がした。
さっきまで生物だった彼女が一瞬にして物体へと変わり、重力に引っ張られて再び地面に倒れた。一定のリズムで首筋から溢れ出る赤黒い液体からも鉄の匂いがして、吐き気を催した。そしてまた数秒後、彼女は生物へと戻る。周りの血を回収しながら、僕の前に立った。
「こういうわけさ、私はもう何百年も死んでいる」
「…」
「言葉も出ないかね、無理もない」
彼女は何故か自信満々に鼻たからかにそう言った。心臓が破裂しそうになるほど鼓動を増し、何かの手違いで口から飛び出るのかと錯覚した。心臓が飛び出ないように慎重に紡いだ言葉は震えていた。
「…僕が君を殺すことは多分できないよ。それは僕がまともな人間だからで…つまるところ実行力がない、度胸もない。けれど、僕には人としての理性と倫理がある」
「…いや、できるよ。君は」
「なんでそんなことが言える?」
「直感さ、試しにほら。もう一回やってみなよ」
「やるわけないだろ」
「…童貞」
彼女はそう言って、不機嫌そうに隣に座った。僅かに触れた太ももには確かに体温があったし、血が通っていた。けれど、彼女は僕の前で2度、死んでいる。不死の病とやらが本当にあるならば、世界はどれほど良くなるだろうか。
いや、そんなわけはないか。死はある種の救いだ。
これは一般化されたファッション的な思想なのではなく、生物が発展してきたのは死という恐怖があったからだと僕は考えているからこそ思ったことだ。
だからこそ生物は死を躊躇するし、逃れるために進化した。けれど、もし全生物が死を奪われたらどうなるだろう。躊躇も、倫理観も、人が人として存在できる土台が消え失せる。
不死は、あってはならない。
「君はやるよ、必ず私を殺せる」
「なんでそんなことが言い切れるのさ」
「直感だって、言っただろ?」
「アンデッドの直感ってアテになんのかな」
「現に君は今、私から逃げずに話をしてるじゃないか」
逃げる、なるほど。そういう手もあったか。
思えば人と話したのはいつぶりだろうか、僕は学校でも家でも誰かと話すことはなかった。話すのが嫌いなのではない、ただ致命的に向いてなかったんだ。
そして、その孤独を受け入れる強さが僕にはなかった。斜に構えて、穿った見方をするのはちっぽけな防衛本能だ。そうでもしないと、呑まれて消える。
「それにさ、アレなに?」
「ん?」
彼女が指さす方向には僕が先程高架下に括り付けたネクタイが輪っかになってぶら下がっていた。あぁ、そういえばそうだった。僕は強くない、だからその道を選んだ。
「ネクタイはやめた方がいいよ、千切れるから」
「確かにな、不死身のお前が言うのなら間違いない」
「お前呼びやめなよ、だからひとりぼっちなんだよ」
「不死身のくせに生意気だな」
「うるさいなー」
そう言って彼女は笑った。つられて僕も笑った。
楽しいな、そう感じるのはいつぶりだろうか。
「決めた、僕が君を殺そう」
「お、その意気じゃん」
「君といるのは楽しい。けれど僕はまともなコミュニケーションを取る方法を知らない。だから殺そう」
「うん、それでいい。それがいい」
彼女の足元に転がっていた新品同様の綺麗なナイフを手に取って、僕は彼女に切っ先を向けた。真っ黒な双眼がそれを見て、にやりと口角が上がった。風に靡いた黒髪のせいで、顔はあまり見えなかった。
「まずは童貞卒業からだ。狙うのはここ、頸動脈だ」
彼女はそう言って首筋をとんとんと指で叩いた。深呼吸をして、夏場特有のじめじめとした空気を肺に入れる。不思議と緊張はしなかった、どうせ死なないし、まぁいいかと思ってしまった。先程まで倫理がどうだ不死がどうだとほざいていた斜に構えた子供はどこにいってしまったのか、所詮僕はその程度の考え方しかできない馬鹿なのか、今の所は分からない。
彼女の指差すところ目掛けて、ナイフの切っ先を勢いよく差し込んだ。肉を切り分ける不快な感触が手に伝って、足が少し竦んだ。全身の力を込めたはずなのに、上手く刺せなかったせいで傷が浅かったのか、彼女は即死せずに浅く呼吸をした。
「下手くそ」
「うるさい、初めてなんだ。文句言うな」
かひゅ、こひゅ、という間抜けな空気が抜ける音がしてあまり水圧が弱い蛇口から出た水みたいに歯切れ悪く血が出た。彼女は首を抑えずに後ろに倒れ込み、太陽を眺めて数分生きていた。赤の補色は緑らしいが、なるほど芝生に血はよく映える。僕が写真家なら、映画監督なら、この光景は逃さず撮るだろう。
そして息絶えた彼女は、ほんの数分で息を吹き返す。ナイフや制服、芝生にぶちまけられた血が切り口に戻っていき、逆再生みたいに彼女は蘇った。
「下手くそだな、めっちゃ痛かった」
「善処するよ」
「で、初めて人を殺した感覚はどう?」
「特になにも、君とまた話せてよかったと思ったくらいだ」
「君って病気なんじゃない?」
「そうかも、でも本当に病気なのは君の方だ」
「憎まれ口を叩くのも症例かね」
彼女はそう言って立ち上がって、僕のナイフをいつの間にか奪った。「じゃ、またね」と言って、河川敷を登って街の中に消えていった。
さようなら、ばいばい、じゃあね。そのどれとも違う次の約束がある別れの言葉は生まれて初めて言われたかもしれない。明日も彼女を殺そう、それがきっと僕が生まれた意味なのだ。
次の日、河川敷で待っていると彼女がどこからともなく現れた。
「やぁ、殺人鬼」
「こんにちは、アンデッド」
「今日はどんな方法で殺すんだい」
「昨日と同じさ、少し調べたんだ」
「ほう、なんて調べたの?」
「人を即死させる方法」
「ふーん、色んな殺し方を試す訳じゃないんだ」
「勘違いしないでよ、僕はサディストじゃないし快楽殺鬼でもない。なるべく苦しまない方法で君を殺したいんだ」
「そりゃいい心がけだね」
僕は彼女からナイフを受け取り、数歩離れた。手に伝わる重たい殺意がまだ僕には恐ろしかった。けれどそれ以上に僕は彼女と話せなくなるのが怖かった。勢いよく走り出し、首を狙ってナイフを突き刺した。昨日よりも滑り良くナイフは刺さっていったが、彼女は
また即死せずに昨日と同じく地面に倒れ込んだ。
「下手くそ」
「昨日も聞いたよ、一日で上手くなったら僕は殺人の天才だ」
「ふふ、それもそうか」
やがて彼女は死に絶え、また目を覚ます。そこからは何度も何度と彼女を刺し続けた。伝わる感触はやがて不快ではなくなっていき、次第に狙いも良くなっていった。何十回と聞いた「下手くそ」も、そろそろ聞かなくて済むだろうか。
「そういえば君って、いつの時代から生きてるの?」
「明治くらいかなぁ、太宰治を見たことあるよ」
「ほう、そりゃすごい」
「なんだ、もっと食いつくかと思ったのに」
「僕は純文学があまり好きじゃないんだ」
それにしても明治からか…本当に100年くらい生きてるとは思わなかった。もし彼女がもっと昔にいたら現人神か妖怪として歴史に名を残していたんだろうか。世界中には美人の怪異が山ほどいるし、彼女だったりしてな。
「私は昔の罹患者と違って好き放題暴れたりしないからね、名を残すなんてのは生きてる人間がやるべきことさ」
「なんで僕が考えてること分かったんだよ」
「年の功」
彼女はそう言ってピースサインを出してニヤリと笑った。僕はその後5回ほど彼女を殺したあと解散となった。また彼女は「じゃ、またね」と言ってどこかに消えていった。
僕は疲れて地面に転がり込み、橙色の空を眺めた。右腕は酷使しすぎてまだ震えている。もう体には付いていないはずの彼女の血液が未だに残っているような気がして何度も制服の裾で頬を拭った。
次の日、彼女が現れたときに僕は目を見開いた。いつもの現代的な服装ではなく、浴衣を着ていたからだ。
「アンデッドのくせにイメチェンするの?」
「違うよ、今日はお祭りだろう?」
「まさか、行くの?」
「もちろん、祭りは昔からある。いい暇つぶしになるだろうさ」
そう言って彼女は僕の腕を掴んで引っ張りあげ、太鼓の音がする方へと走り出した。下駄のくせになぜこんなに足が早いのか…いや明治ならまだ下駄が主流だったし当然か。
「おい!私は金魚すくいが苦手だ!代わりに取ってみろ!」
「僕も得意じゃないんだけどな…」
プラスチック製の小さなプールに浮かぶ色とりどりの金魚の下にポイを優しく潜らせ、救う。大して得意ではなかったはずだが、不思議と今日は3匹戻れた。それを店主に袋に入れてもらい、彼女に手渡した。嬉しそうに、それを眺めては笑顔を絶やさない彼女はそこら辺にいる普通の女性に見えた。
「金魚好きなのか?」
「まぁ…こいつのせいで私は病にかかったとも言えるしね」
「なんだ、感染ルート分かってんだ」
「うん、でも秘密だよ」
「生憎不死身の体に興味なんかない」
「あれ?この場合は健全なのかな?健全じゃないのかな?」
「どっちでもいいだろ」
「それもそうだね」
その後も屋台を巡り、祭りを堪能した。最近の祭りはどうにも食べ物の種類が増えているように感じた。高級和牛とか祭りでわざわざ食べないだろう。彼女は手に持ったりんご飴を齧りながら、空を見あげた。
直後に色鮮やかな花火が夜空を照らし、暗闇を無くして星を飲み込んだ。僕は花火よりも、彼女に目を奪われた。名前も知らない、故郷も素性も知らない、加害者と被害者の関係でしかない。だというのに、僕は綺麗な花火よりも彼女から目が離せなかった。
たった2日だ、けれど他の人間と関わったことの無い僕からすればそれは僕の灰色の10余年の人生よりも価値があるもので濃密なものだ。花火の爆発音が心臓とリンクして、より跳ね上がった。
やがて引き伸ばされた刹那の時間は一瞬で過ぎ去り、花火が終わった。祭りのメインが終わったせいか途端に人の波は駅の方へと向かっていき、僕たちは逆方向へと歩いた。
「祭りは楽しかった?」
「うん、君がいたからかな。いつもよりとても楽しめたよ」
「そりゃあよかった」
彼女はそう言いながら、手提げした金魚袋を揺らさずに歩いた。虫の鳴き声とアスファルトと小気味いい音で踏み鳴らす下駄の音が僕たちの沈黙に割って入って、蒸し暑い夜を少しだけ忘れさせた。
「ナイフくれよ、今日はまだ殺してない」
「そんなに殺したかったの?」
「いや、本音を言うと全く殺したくない。ただこれしかコミュニケーションを知らないだけさ」
「私が死んだらどうするつも…いや、いいか」
「君が死んだら、僕は今まで通り死んだように生きるだけさ」
「ふっ、アンデッドは君の方じゃないか」
彼女は笑いながら僕にナイフを手渡し、僕は勢いよく喉元を貫いた。集中していたのか、祭りの景色のせいか、とても上手く彼女を即死させた。喉を貫いたナイフの切っ先が髪を纏めていた簪に触れ、見慣れた長髪に戻って倒れ込んだ。
「上手くなったもんだね」
「うん、なぜだろうね」
「才能があったんじゃない?」
「だとしたらそんなもんいらないから普通に人と話せる力をくれよって願うね」
「ふっ、それもそうだね」
今日はそれ以上殺す気はなかった。というより、必要最低限のコミュニケーションだから殺しただけで、僕は彼女をちっとも殺したくなんかなかった。
それ以降も、何週間も彼女を殺す日々が続いた。河川敷で集まって、頸動脈を切り裂いて、血が飛び散って、死んで、巻き戻して、生き返る。彼女が「下手くそ」と笑って、「うるさい」と僕が呟く。
どれくらい彼女を殺したか、数え切れなくなったころ、僕の心境は大きく変わった。いや、本質的には何も変わっちゃいなかった。ただ僕が自覚しただけだ。
「僕、どうやら君のことが好きになったみたいだ」
「…そりゃあまた突然。挨拶よりも先にすることかなそれ」
「知らない、これは告白じゃなくてただの報告だから」
「ふぅん…」
彼女は僕の隣に座って顔を背け、太陽の方を向いた。黒髪が穏やかな風に乗らされて靡いて、甘い香りがした。いつもならナイフを渡してきて、僕が刺して、それを何度か繰り返しながら雑談をする頃なのに彼女はちっともナイフを出す素振りを見せなかった。
「ふむ、困ったな」
セミの大合唱を中断させたのは彼女の声だった。なぜ?そう問おうとするよりも先に、彼女は立ち上がった。
「どうやら私も君のことが好きみたいだ」
「…そう」
彼女が僕のことを好いてくれるのはとても嬉しかったし、世界に色が溢れたような気分になった。ただだからと言ってこの先何かあるとかそういうわけでもなくて、好意の確認をしただけ。
「ところで、今日は殺さなくていいのか?」
「あぁ、というより殺さないでほしい」
「どうして?」
「どうしてもだ」
「なぜ?僕は君を殺すことでしか、君と関わる手段を知らない」
「そんなことは知ってるよ。だから、じゃあね」
「え?」
彼女はそう言って、河川敷をゆっくりと登ってどこかへ行こうとした。またねではなく、じゃあねなのがとても引っかかった。ただの別れの挨拶だが、些細な違いで大きく意味合いが異なるのが日本語の嫌いなところだ。彼女の影がなくなる前に、僕は追いかけて走った。彼女のことは何も知らない、どこに住んでるかも知らない。ただ河川敷で集まって殺すだけの仲だった。
だから、この場で見失ってはもう取り戻す手段が消える。それは、死ぬよりも辛い。そう、死ぬよりもだ。
「待て!そこの女!止まれ!!」
街中で僕は映画に出てくる三下の悪役みたいな、怪盗に美術品を盗まれた警備員みたいな、テンプレートのセリフを吐きながら彼女を追いかけた。街ゆく人々が僕を見て、笑うが構わない。どれほど無様でも、惨めでもいい。そんなものは死ぬほど味わった。だから、彼女を失うという未知の恐怖はなによりも恐ろしかった。
どれほど走ったか、分からない。僕は運動ができない、昔から全速力で走ったことなどない。実を言うと祭りも行ったことがない、金魚すくいなど本でしか見たことがない。それもこれも全部、未知を上塗りしてきたのは彼女だ。
神様なんてこの世に居ない、救いなんてない。痛みから逃れる術はない。僕の世界には彼女しかいない。
案外人ってのは脆いもので、弱いもので、そしてしぶといものだ。それを、殺し続けた僕と、殺され続けた彼女は知ってる。だから、この逃走に意味はない。
「はぁ…つ…かまえた…」
「はぁ…はぁ…」
「アンデッドが人間より早く走れるわけ…ないだろ…」
僕は彼女の裾を掴み、ふたり仲良く勢いよく転んだ。人でごった返した街中から、いつの間にか静かな見ず知らずの住宅街に迷い込んだ僕らはそこで長い鬼ごっこを終えた。
荒れる息をなんとか整え、地面に倒れ込んで青空を見ながら僕は彼女に尋ねた。
「なんで逃げた?君を殺せるのは僕しかいない」
「…不死の病は感染する」
「最初にないって言ったくせに」
「それはごめん、どうせ死んだあとのことだしどうでもいいやって思っちゃってさ」
「まぁいいよ、それで?それがこれにどう関係が?」
「罹患者が好きになった人物に殺されることで、病は寄生先を殺人者に変える」
非科学的だ。人の感情が、恋慕が病気を引き起こすなど聞いたことがない。病気ってのはウイルスや病原菌から感染するもので、感情で感染るものではない…はずなんだ。本来は。
けど、既に不死という異常を知っている僕は現実が知らない、有り得ないことだらけなことを知っている。
「じゃあ今僕が君を殺したら、君は死ねて僕は不死身になるわけか」
「そう」
「なら願ってもない事じゃないか?君はようやく死ねるんだ」
「それは嫌になってしまったんだ、もう少し君と一緒に生きたいと思ってしまった」
「なら別にそう言えばいいのに、なんで逃げるかなぁ」
「だって君が私を殺すしかコミュニケーションを取る方法を知らないって言うもんだからさ」
「それもそうか」
「ぷっ…あはははっ!」
「ふっ」
僕と彼女は青空を見ながらふたりで笑った。背中を焼き付ける熱されたアスファルトと、網膜に焼き付く太陽がすごく印象的だった。
「でもさ、どちらにしてももう数日しか僕と君は一緒にいれないよ」
「えっ?なんで?」
「僕は白血病を患っているからね、もうあとしばらくしたら死ぬよ」
「はぁあ!?なんでそれをもっと早く言わないの」
「言う必要ないかなって…だって君は不死身じゃないか」
「その判断はとても、とても間違っているよ」
「そう?まぁともかくさ、どうせ僕は死ぬんだ。先に天国かどんなところか見てくるよ」
「…君が死ぬまであとどれくらい?」
「もう残り1ヶ月もないんじゃないかな?今年の夏が限界って医者には言われたよ」
「ならその期間は一緒に暮らそうか」
「うん、それでいい。それがいい」
僕たちはその後、一緒に帰った。自分の部屋の引き出しには随分昔に書いた遺書もあるし、書いたタイミングで僕は治療を拒んだ。彼女の家は小さなアパートで本当に人が住んでいるのかと思うほど家具がなかった。ただ机の上に置かれた小さな金魚鉢が存在感を放っていた。
「部屋に男子を入れるのは何年ぶりだろう」
「あんまり昔のことばっかり考えても意味無いでしょ」
「それもそうだね」
僕らは身を寄せあって、何日かの穏やかな日々を過ごした。彼女はレコードを聴くのが趣味なようで、それを流しながらココアを飲んで、他愛もない話を何時間もした。彼女は生きた歴史書であり、明治の暮らしや如何にして文化が発展し、文学や音楽が流行していったかという経緯をそれはもう雄弁に語ってくれた。
最初の方はソファで寝ていた僕も、今ではすっかりベッドから離れられなくなっていた。体の節々が痛むし、思うように上手く体が動かなくなっていったことでもう長くないのだなと悟った。
「多分、そろそろ僕は死ぬ」
「うん、分かってるよ」
「もう少し君といたかった。死は怖くないけど、君を失うのがなによりも怖い」
「痛いほど、分かるよ。とてもね」
窓から差し込む陽の光が部屋を照らして、僅かに舞うホコリに反射した。彼女と出会ってから、僕の人生はこれまで不幸だった分を取り戻すように幸福で満ち足りるようになっていった。
もう後は眠るように、穏やかな死を待つだけだ。
そう思って目を瞑った途端、慣れ親しんだ感触が手に伝わった。もう感覚はあまりなくとも、それは簡単に分かった。彼女がなにをしようとしているのかも、簡単に分かった。
「やめ」
僕の静止を待たずに、彼女はナイフを掴んだ僕の手を上から包み込んで、喉元を突き刺した。部屋に巻き散る鮮血と、頬に滴る生暖かい液体が、これまで以上に死を実感させた。
「下手くそ」
彼女はそう呟き、ゆっくりと僕の体へともたれかかった。僕の動揺なんか知らないように、いつも通り自分のやりたいように喋りたいように彼女は話し始める。
「私はきっと、君以上に好きになる人なんかできないよ。君がいない状態で何百年、何千年生きるのは無理だ」
「…分かるよ、僕もそうだから」
「それにね、君には生きて欲しいんだよ。これまでできなかった分を取り戻すように自由にさ」
彼女の口から流れる命の液体が徐々に勢いを失っていることに気がついた。何度も上手く殺せなかったから僕は直観的に理解してしまう。彼女はもう、長くはないんだと。
「私の名前は藤原久遠…君の名前は?」
「…雨谷永遠、君は久遠というんだね」
「…雨谷永遠くん、大好きです。とても、とても」
「あぁ僕もだ、久遠」
久遠の手を握り、彼女は僕の中でそっと息を引き取った。何百年生きたか分からない、久遠という名前の刹那の恋人は、あっという間に消えてしまった。
僕の体は心情と相反して、どんどんと良くなっていった。彼女は亡くなってしまった、けれどそれが彼女のやりたいことであったから僕は尊重したい。
ただ僕だけ生き延びても、なんの意味もないことを彼女は知らない。
机の引き出しには、僕に当てたメッセージが残っていた。そこに書いてあったのは、遺体の処理方法と不死者の心構えだった。彼女の筆跡で書いてあるやけに偉そうな文体のメッセージを見てしまったせいで、僅かに紙を濡らしてしまった。
でも、そうだな。
君がしていたように、僕も誰かを助けてみるのもいい。でも僕が死ねる気配がちっともしないのは久遠のせいということにしておこう。
刺されるのはきっと痛いだろうな、首を絞められるのは苦しいだろうな。けれどいい、彼女にまた天国で会えるかもしれないなら。
夏も終わりかけだというのに、未だ蒸し暑い日中を歩き、僕は公園で俯いて本を読んでいる少女に声をかけた。
「ねぇ、僕を殺してみませんか?」




