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漆の花  作者: 金城絢


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第七章 信頼の証

初夏の風が、鯖江の町をやわらかく吹き抜けていた。堀井屋の工房には、漆の香りと、静かな緊張感が満ちている。

藩の殖産興業政策の後押しを受け、注文は絶えない。どれもが、失敗の許されぬ、大切な品々だった。

その中で、お花は一つの試練に向き合っていた。加賀藩の大名家へ納める塗椀十客―清十郎から直々に任された、特別な仕事だった。

「これは堀井屋の看板となる器だ。今のおまえなら…やれる」

そう言って手渡された、下地の器。

お花は目を伏せ、深く一礼した。

「承知いたしました」

十客のうち五客をお花が塗り、残りを兄弟子が仕上げる。いわば「実力試し」であり、同時に「信頼の証」だった。

「塗りの段で重くなるな。じゃが、軽すぎれば、品が死ぬ。塗り重ねるほどに、軽やかさを残せ」

清十郎の言葉は、厳しくも真っすぐだった。お花は、それに怖じることなく、静かに頷いた。

漆は、生きものだ。気温、湿度…一滴の量でさえ、日々、表情を変える。

お花は昼も夜も黙々と筆をとり、塗り面の張りと艶を見極めた。

けれど、どうしても、一客だけが、思うようにいかなかった。塗りがわずかに厚くなり、研いでも塗り直しても、どこかに淀みが残る。

やがて清十郎が、その椀を手に取った。

無言のまま、指先で静かになぞる。そして―ぽつりと、告げた。

「…これは、納められぬ」

工房の空気が、一瞬で凍りつく。だが、お花は下を向かず、まっすぐ清十郎の目を見つめた。

「はい。もう一度、塗り直します」

その声に、一切の迷いはなかった。清十郎のまなざしが、一瞬だけ、揺れた。

納品の前日、新たに塗り直した一客を手にし、お花が工房に戻ってきた。

清十郎は何も言わず、それを受け取る。

他の椀と並べ、光に透かし、撫で、重さを確かめる。最後は目を閉じ、手の感覚だけで確かめた。

その手の動きには、もはや職人を越えた「祈り」のような丁寧さが宿っていた。

「……」

兄弟子が、小さくつぶやいた。

「この塗り…若旦那が手がけたものと、見分けがつかねぇ」

「いつの間に…」

視線が、お花に集まる。彼女の頬がわずかに紅潮したが、その目はただ一人、清十郎だけを見ていた。

清十郎は、塗椀をそっと元の列に戻す。何も言わず、ただ静かに。その沈黙が、何よりの答えだった。

翌日。

「外へ出よう」

「…はい」

お花は戸惑いながらも、清十郎の後に続いた。

町を抜けると、初夏の陽射しが優しく差し、風に稲が揺れ、子どもたちの笑い声が遠くから聞こえた。

やがて町外れの坂道にさしかかると、清十郎が足を止める。

「お花。おまえは、もう堀井屋の柱の一つじゃ。技においても、心においても、誰にも劣らぬ職人よ」

お花の目が、大きく見開かれる。

「…わたくしが?」

「うむ。手は、嘘をつかぬ。おまえの器は、正直じゃ。何より―信じられる」

胸に、じんわりと熱が広がった。

だが次の瞬間、清十郎はそっと顔をそらすようにし、懐から何かを取り出した。

「これはな…加賀の市で見つけた。漆塗りの細工櫛じゃ」

手渡された櫛には、黒漆に金箔で夜桜があしらわれていた。

お花は思わず指先でその表面を撫でた。滑らかな漆の肌触り、金箔の微細な凹凸―職人の魂が息づいているのが、ひと目でわかった。

「職人というのは、手ばかり見ておると、心を忘れる。じゃが、心を忘れた職人に、よい品は作れぬ。これを見るたび、その教えを思い出せ」

それ以上、清十郎は何も言わなかった。だが、お花には、それ以上の何かが、確かに伝わっていた。

それはただの飾りではない。一本の櫛に宿った“信頼”と“願い”。彼女の背筋を支える、見えない飾り帯となった。

西の空には、夕陽が沈みかけていた。二人の影が、長く、長く、地面に伸びてゆく。

お花の目から、ぽろりと涙がこぼれた。それは櫛の漆面に落ち、ひとすじの光となった。

胸の奥にその櫛をしまい込みながら、彼女は、切ないほどの喜びに包まれていた。

黒漆に金箔で描かれた夜桜の細工―それはまるで、清十郎の、秘めた想いのかけらのようだった。

「このように嬉しい気持ちになるのは、いつぶりであろう…」

父を失って以来、誰かに“必要とされる”実感を、どれほど渇望してきただろう。

だが今、心に満ちているのは、職人としての誇りだけではなかった。それはまるで、春の陽が頬を撫でるような、甘やかで、やさしい痛みだった。

しかしその幸福は、町に戻った瞬間、あっけなく、冷たい風に吹き飛ばされる。

「若旦那様は、越後屋のご息女と、縁談があるそうですよ」

店の奥から聞こえてきた、何気ない噂話。けれど、その一言が、お花の心を鋭く揺さぶった。

越後屋―豪商。そして、縁談を勧めているのは、他でもない、彦兵衛親方だという。

「越後屋のお嬢様は才色兼備。堀井屋の女将にふさわしい方でしょうね」

「私たちとは住む世界が違うわよ」

女中たちの言葉は、無邪気な噂話に過ぎなかった。だが、お花には、その一言一言が、心の奥に爪を立てられたかのように刺さった。

胸の内に、冷たい風が吹き込む。櫛を受け取ったときの、あの温もりが、遠くにかすんでいく。

工房に戻っても、手元に気が入らない。刷毛が、手から滑り落ちそうになり、思わず、ぎゅっと握り直す。心のざわめきが止まらず、先ほどの言葉が頭の中をぐるぐると巡っていた。

そして―ふとした拍子に、筆がわずかにぶれた。塗り面に、乱れが生じる。

「お花、ぼんやりするな!」

清十郎の声が、空気を裂くように響いた。

「申し訳…ござりません」

お花ははっと顔を上げ、清十郎の瞳を見つめる。その瞳の奥にあるのは、怒りではなかった。伝えきれぬ想いを抱えたままの、静かな悲しみだった。

(…なぜ、櫛を贈ってくださったのでしょう。わたくしに、そんな資格など…)

お花の視線が揺れる。その視線を、清十郎は確かに受け止めていた。

一瞬、戸惑いの色を浮かべる。だがすぐに、師としての表情に戻り、口を開いた。

「漆は、心を映す鏡じゃ。心が乱れれば、器も乱れる。―職人として、それは決して許されぬことじゃ」

お花は何も言わず、深く頭を下げた。

その背中には、職人としての矜持と、ひとりの女としての、抑えきれぬ痛みとが、静かに渦を巻いていた。

その夜―

お花は廊下の陰に立ち、ふと聞こえてきた声に、思わず足を止めた。清十郎と、彦兵衛親方が話をしている。

「清十郎、越後屋との縁談、どうするつもりじゃ?」

「親方…私は、まだ二十五にござります。今は家のことよりも、漆の道に精進したく存じます」

その言葉を聞いた瞬間、お花は胸の奥で、何かがそっとほどけていくのを感じた。だが―次の瞬間、彦兵衛の声が、鋭く響いた。

「それではいかん」

その声音には、迷いがなかった。

「越後屋との縁組は、ただの縁談ではない。堀井屋の将来を左右する、大きな取引じゃ。加賀藩と深いつながりを持つ越後屋と結ぶことは、我らが商いの礎となる。お前が跡取りとして生きる以上、私情に流されてはならぬ。己の心を殺す覚悟が、商家には必要なのじゃ」

「…しかし、私は…」

「清十郎。お前に、わしのような苦労を背負わせたくはない。じゃが、それでも“家”を継ぐということは、そういうことじゃ。腹を括れ」

―沈黙。

お花には、清十郎の顔は見えなかった。けれど、その沈黙の奥にある迷いと重責が、痛いほどに伝わってきた。

(…わたくしの想いだけで、踏み込んではならぬ。わたくしは、ただの職人。…それ以上ではない)

お花は、胸元に手を当てる。そこには、まだ清十郎の温もりが残る櫛があった。そっと、懐の奥にしまい込んだ。

それは―職人としての誇りを刻む、ひとつの証。そして同時に、決して口にできぬ想いを、静かに見送るための、儚い残響でもあった。

その夜、窓の外には風が吹きすさび、工房に満ちていた春の気配は、音もなく遠ざかっていった。


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