第六章 父の影
秋の陽が、町筋の瓦を照らしていた。
昼下がり、淡い陽光に包まれながら、お花は味噌と油を求めて町へ出ていた。手に荷を抱え、角を曲がったとき、ふと、視線の先に歩いてくる侍の姿が見えた。
背は高くないが、きちんと締まった体つき。羽織の紋が目に入る。見覚えがある。鯖江藩の中級武士のそれだった。
お花は慌てて道の端へ寄り、頭を下げた。
その瞬間―
「…お花殿か?」
驚いたような声が落ちてくる。顔を上げたお花の前で、その侍はまなじりを見開き、じっと立ち尽くしていた。
「まさか…小川又兵衛殿のご息女では?」
「…はい」
お花の声は、かすかに震えた。この人を、覚えている。父がまだ勘定方に勤めていた頃、屋敷によく出入りしていた男だ。
「拙者のことを覚えておりますかな。山田平左衛門と申します。父君には、かつて大変お世話になりました」
山田平左衛門。父がよく「誠実な男」と口にしていた下役である。
「山田様…」
お花の目に、涙が浮かんだ。父を知る人に会ったのは、母が亡くなって以来、初めてのことだった。
「山田様…ご無事だったのですね」
あの日―父と共に、多くの勘定方が処罰を受けたと聞いていた。だが、平左衛門の消息は知らなかった。
「拙者は運良く、軽い処分で済みました。今は町奉行所で帳簿の管理などをしております」
そう言う彼の顔は、どこか沈んでいた。その職は明らかに左遷であった。
「父上と共に働かれていた方に、こうして再びお目にかかれるとは…」
「こんなところで…いや、失礼しました。お元気そうで何よりです」
彼の目が、お花の身なりに注がれる。商家で働く娘―それはすぐに察せられた。
「父が亡くなってから、母と共に親戚を頼りましたが…。今は、堀井屋という漆器工房で女中として働かせていただいております」
「そうですか…。ずいぶんと、辛い思いをされたのでありますな」
平左衛門は、深くため息をつく。そして、周囲を見回すと、声をひそめた。
「実は…お花殿にどうしてもお伝えしたいことがあるのです」
お花の胸が、ゆっくりと高鳴る。
「父に…なにか?」
人目を避け、二人は近くの寺の境内へと足を運んだ。鳥の声も聞こえぬ静けさの中、平左衛門は辺りを見渡し、ようやく口を開いた。
「父君の改革…あれは、決して失政ではございませんでした」
お花の心臓が跳ねた。
「…え?」
「藩の財政は、確かに回復しつつありました。だが、それを快く思わぬ者たちがいたのです」
「それは…?」
「古参の重臣。そして癒着した商人どもです。改革が成功すれば、彼らの利権は崩れる。だから…」
平左衛門の拳が、ぐっと握られた。
「偽の帳簿を作り、改革の成果を闇に葬ったのです」
「偽の…帳簿を?」
「増収分を、別の帳簿に記した。表向きには失政と見せかけ、父君を責任者に仕立てた」
お花の顔から血の気が引いた。目の前がわずかに揺れる。
―父は…無実だったのか。
「証拠は…ござりますか?」
「ござります。拙者は密かに調べてまいりました。真の帳簿の写しと、偽造に加担した者の証言も得ております」
そう言って、懐から小さな包みを差し出す。
「これを藩主に直訴すれば、父君の名誉は回復されましょう。小川家の再興も、決して夢ではありません」
お花の手が、小さく震える。
父の無実が証明される―それは母の墓前に報告したい、何よりも嬉しい知らせだった。
だが。
「ただし…」
平左衛門の目が、鋭さを増す。
「相手は、権力の中枢におります。周到な準備なくして動けば、危険は避けられません。お花殿にも、相当の覚悟を求めることになります」
「…わたくしに?」
「無論、拙者が表に立ちます。だが、父君の娘であるお花殿が共にあれば、直訴の説得力は段違いです」
胸の奥で、言葉にならぬ思いが渦を巻いた。
名誉回復―それは、娘として何より願っていたこと。けれど、堀井屋での暮らし、清十郎との日々。職人としての誇りと、これまでの努力―。
「父君は仰っておられました。『改革とは、古きを壊すことではない。新しき価値を創ることじゃ』と」
その言葉が、お花の心に深く、深く染み入った。自分が漆器で挑んでいることと、どこか重なっていた。
平左衛門は、最後に一礼し言った。
「三日後の夕刻、この寺でお返事を」
そして、去った。
その夜から三日間、お花の胸は、波に呑まれたように揺れ続けた。
名誉回復。それは、父のため、家のため、娘として果たすべき務めだった。
だが―堀井屋の仕事への支障。相手は藩の中枢。動けば命を狙われる可能性さえある。そして、平左衛門もまた、危険に晒されるかもしれない。
「…どうすれば…」
月明かりの工房で、一人、思案に暮れる。
手の中にあるのは、作りかけの器。そこに、父の想いが宿っているような気がした。
二日目の夜。工房に清十郎がやって来た。
「…何やら案じておるな」
「…少し、考えごとを」
「父君のことか?」
お花は、驚いたように彼を見た。
「昨日、町で侍と話していたのを見た者がおってな…。勘定方の生き残りではないかと」
お花は黙していた。
清十郎は、そっと器を手に取る。
「おまえの手から生まれるものには、父君の志がある。古きを敬い、新しきを創る。それは改革と同じじゃ。どの道を選ぶにせよ―その心を忘れるな」
三日目の朝。お花は、決断をした。
名誉回復―それは、過去を正すこと。けれど職人として生きるということは、父の志を、別の形でこの先へと紡いでゆくこと。
(父上の改革の心を、漆器に込めよう。おなごが職人として正当に評価される礎を築こう―。それが、わたくしにできる、最高の供養)
お花は、そっと懐から櫛を取り出した。清十郎から贈られたもの。黒漆の地に、金箔で咲く夜桜が、朝日を浴びて静かに輝いていた。
(わたくしは、この手で生きていく)
夕刻、再び、寺の境内へと向かったお花は、木々の間に立つ平左衛門の姿を見つけた。
「平左衛門様―」
お花は、静かに頭を下げる。
「このたびは、お心遣い、誠に痛み入ります。お心の内…痛いほどに、察し申しました」
そして、凛とした声で続けた。
「しかし、わたくしは…今の道を、歩み続けたく存じます。父上の志は、この手で、漆器という形で継がせていただきます」
沈黙の中、しばしの間、平左衛門は何かを噛みしめていた。やがて、ふっと柔らかく微笑んだ。
「…そうですか。それもまた、父君の志を継ぐ道でございましょうな。拙者は、ひとりでもこの証を残します。…いつの日か、お花殿の作品が江戸で評判となったとき―それもまた、小川又兵衛の名誉を照らす光となりましょう」
そう言い残し、平左衛門は静かにその場を去った。
そのとき―境内の茂みに、一つの影が潜んでいた。堀井屋の番頭、源蔵である。
最近のお花の様子に不審を抱いていた彼は、密かに後をつけていたのだった。
(若い男と密会か…こりゃ面白い話じゃ。親方に報告すれば、わしの株も上がろうというものよ)
翌朝、お花が工房で作業していると、帳場から親方の声が飛んだ。
「お花―帳場へ来い」
帳場には、険しい表情を浮かべた彦兵衛親方と、薄笑いを浮かべる源蔵の姿があった。
「昨夜、寺で男と会っていたそうだな」
「…はい。亡き父の配下で、今は町奉行所にお勤めの御方です」
親方は眉をひそめる。
「武家の出とはいえ、今は堀井屋の女中じゃ。勝手な行動は慎んでもらわねば困る」
源蔵が口を挟む。
「しかも、人目を忍んでの密会。いったい何を話していたのやら」
お花は言葉に詰まった。平左衛門の話は、軽々しく他人に話せるものではない。けれど、黙していれば疑いは深まるばかり。
「…父の…昔の話を…」
「思い出話に、人目を忍ぶ理由があるか?」
親方の口調が、鋭くなる。
「まさか、身分回復の話でも持ちかけられたのではあるまいな?」
お花の沈黙が、何よりの答えとなった。
「…答えぬということは、やはりそうか」
親方の怒りが、爆ぜる。
「このわしが世話をしてやったのに、武士に戻る算段とは―恩知らずめが!」
「違います!そのようなことは…」
「ならば、すべて話せ!何を相談されたのじゃ!」
お花は完全に追いつめられた。真実を語れば、平左衛門を巻き込む。黙れば、堀井屋での立場を失う。
そのとき―
「お花、もうよい」
帳場に、清十郎が現れた。
「親方、お花に悪意はありません。きっと話しにくい事情があるのでしょう」
「清十郎、おまえまで庇う気か」
「お花の人柄を、一番よく知っているのは、わしです」
親方は口をつぐんだが、その表情は険しいままだった。
「…当分の間、外出は禁止。工房の出入りも、しばらくは許さん」
その夜、お花は部屋で、膝を抱えた。外にも出られず、買い物の手伝いもできない。親方の信頼を、完全に失ってしまった―。
一方の清十郎は、何かを決意した面持ちで翌朝、町奉行所を訪ねた。
「山田平左衛門様はおられますか」
「どのようなご用件で?」
「堀井屋の清十郎と申します。小川又兵衛殿のご息女の件で―」
やがて現れた平左衛門に、清十郎は事情を打ち明けた。
寺での密会を見られたこと。お花が親方から疑念を持たれたこと―。
「お花を救うため、どうか、親方に真相をお話しいただけませんか」
平左衛門は、静かにうなずいた。
「無論です。お花殿に迷惑をかけたのは、拙者の責任」
その日の午後、平左衛門は堀井屋を訪ね、清十郎と共に帳場へ座した。
そして、すべての経緯を、親方に語った。
「父君の名誉回復のための相談じゃったのか…」
親方の顔から、少しずつ険が消えていった。
「それは、大切なことじゃな。わしも、小川殿の志は立派じゃと思っておった」
平左衛門は、さらに口を開いた。
「しかし―お花殿は、名誉回復よりも、職人の道を選ばれました。父君の改革の心を、漆器づくりに込めたいと」
「…ほう」
親方の目が、細められた。
「名誉回復の誘いを断ってまで…」
源蔵が頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。勘違いでした…」
やがて、お花は帳場に呼び出された。
親方は、しばし無言のまま見つめ―
「…すまなかった」
そう呟き、深く頭を下げた。
「疑って悪かった。だが、筋の通った立派な判断じゃ。職人の道を選ぶというなら、堀井屋としても全力で支援しよう。それが結局、この店のためにもなる」
親方の言葉に、お花の胸が温かく満たされた。
「ありがとうござります」
その夜、清十郎が、そっとお花の部屋を訪れた。
「…大変な選択じゃったであろう」
「でも…もう迷いはありません。父の誇りは、この手の中にあります。わたくしは、漆器でそれを繋ぎたい」
清十郎は、穏やかに頷いた。
「ならば、わしもその手を支えよう」
障子の向こうには、虫の音。秋の夜風が、優しく通り過ぎていった。




