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漆の花  作者: 金城絢


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第四章 職人の覚悟

嫌がらせは、まだ終わらなかった。けれどそのやり方は、あからさまなものから、じわりと染み込むような陰湿なものへと変わっていった。

漆に水を混ぜる、道具を隠す、作業の最中に、さりげなく邪魔を入れる…。誰が仕掛けたかは、名指しされずとも、察することはできた。それでも、お花は声を上げなかった。

ただ、黙って、耐えた。

言葉を飲み込むたび、孤独は深まり、疲労は胸に積もっていった。静かに、しかし確かに、心の内側が少しずつ削られていくようだった。

ある雨の夜だった。

お花は部屋の隅に膝を抱え、ひとり、うずくまっていた。張り詰めていたものが、ふと切れる。声もなく、ただ涙が頬を伝った。

父を失い、母と別れ、家を出て―ようやく辿り着いた漆の世界でさえ、拒まれている。居場所など、どこにもないのではないか。

そう思った瞬間だった。すっと、襖が開く。

「ちょいと、失礼するよ」

そこに立っていたのは、台所女中のお芳だった。

手には、竹皮に包んだ握り飯。

「これでも、食べな」

差し出されたその小さな温もりを受け取りながら、

お花は、涙をぬぐい、うつむいた。

「お芳さん…」

しゃくり上げながら名を呼ぶと、お芳は静かに隣に腰を下ろした。

「あんた、ずいぶん苦労してるようだね」

声は柔らかく、あたたかかった。続く言葉は、過去の自分を重ねるようでもあった。

権助には、病床の弟がいるという。茂吉は、自分の腕にずっと自信が持てず、長年その劣等感に苛まれている。

「みんな、自分の居場所が脅かされるのが怖いのさ」

「だから、あんたにきつく当たるんだよ」

「怖くて…?」

お花の問いに、お芳は静かに頷いた。

「そうさ。あんたが腕を上げれば、誰かの立場が危うくなる。それが怖いんだよ」

その言葉に、お花はしばらく黙り込んだ。

これまで、そんなふうに考えたことはなかった。

お芳は、そっとお花の手を握った。

「それでも、あんたは負けちゃいけない。あんたの頑張りが、他のおなごたちの希望になるかもしれんから」

ふいに、胸の奥にわずかな温もりが芽吹いた気がした。見えなかった道が、ほんの少しだけ、開かれた気がした。

数日後、古参の塗師・重兵衛が、お花に声をかけた。

「おまえ、兄弟子たちにあれこれされているそうじゃな」

「…申し訳ござりません」

お花が頭を下げると、重兵衛は低くうなった。

「謝ることじゃねえ。ただ、あいつらの気持ちも分からんでもない。長年かけて修行してきたところに、ぽっと出のおまえがすぐ追いついてきたら…面白くねぇさ」

しばし間を置いて、続ける。

「職人は、技術だけじゃ務まらねぇ。この工房を支えているのは、人と人との信頼だ。おまえが一人でなんでもできると思ってんなら、それは傲慢ってもんじゃ」

その言葉に、お花の胸がきゅっと締めつけられた。

自分は、ただ技を磨けば認めてもらえると思っていた。だがその過程で、人の気持ちや空気に無頓着だったのではないか。

帰り際、重兵衛はふっと振り返った。

「この道を極めたけりゃ、人間も磨け。武家の誇りも結構だが、今のおまえに必要なのは―職人としての謙虚さと、仲間への敬意じゃ」

その言葉は一見、何も残さず去っていったように見えた。

だがその夜、「人間を磨け」という言葉が、心の奥に静かに鳴り続けていた。

お芳の言葉と、重兵衛の言葉。ふたつの響きが、どこかで重なり合っていた。

武家の誇りだけでは、この世界は渡れない。そんなこと、分かっていたはずだった。

翌朝、お花は、いつも通りに刷毛を手に取った。

けれど、工房の空気の感じ方が、ほんの少しだけ、昨日と違っていた。変わったのは空気ではなく、自分の“目”と“耳”だった。

筆の震え。吐息の熱。背中ににじむ疲労と、誰にも言えない諦め。これまで見過ごしていた、職人たちの“気配”が、少しずつ見えるようになっていた。

権助の、慎重な手つき。その手に、弟への想いがにじんでいた。

「…弟さん、大丈夫でしょうか」

問いかけに、返事はなかった。だが一瞬、目に影が差し、すぐにそらされた。それだけで―十分だった。

茂吉は試作品を前に、迷いを隠しきれていなかった。お花は、そっと彼の器を手に取り、静かに言った。

「この線、きれいですね」

声が、ほんの少し震えた。茂吉は小さくうなずいた。その肩の角度が、前よりわずかに―開かれていた。

新八とは言葉を交わさなかった。けれど、漆を筆に含ませたとき、視界の端で彼の指がふと動いた。その仕草に倣ってみると、漆は驚くほど自然に広がった。

職人として生きるとは、単に技を追うのではない。人の心のざらつきや、言葉にできない痛みに触れ、自分自身もまた塗り重ねていくことだった。

誰も劇的には変わっていない。

ただ、お花のまなざしが変わったことで、世界の輪郭がやわらいだ。

まだ深く繋がったわけではない。けれど、それは孤独の中に灯った、小さな連帯の兆しだった。

春が、堀井屋にやって来た。

鯖江の山々は淡い緑に染まり、雪解けの川音が町のあちこちに響いていた。

長く冷え込んだ冬がようやく終わりを告げ、空気にはわずかな湿りと、柔らかなあたたかさが混じっていた。

そんなある日、工房の静けさを破るように、清十郎の声が響いた。

「お花。今日より“塗り”の下地を任せる。―覚悟はあるな?」

思わず、胸がどくんと脈打つ。ついに―本物の漆に触れる日が来たのだ。

「はい、ござります」

声が自然と震えていた。だが、その熱は確かなものだった。

しかし、清十郎の眼差しは変わらず厳しかった。鋭く、深く、どこか迷いを含んだ眼差し。

「ただし…おまえは女中だ。職人見習いではない。“工房の手伝い”という内々の扱い。それを忘れるな」

その声には、断言とも、試すようともつかぬ色があった。

「―それでもやるか?」

問いかけは、冷たいようで、どこかに震えがあった。

お花は、はっきりと頷いた。

例え名前が残らずとも、影の存在であっても。この手で漆に触れられるのなら、それでよかった―はずだった。

けれどそのとき、心の奥底に、小さな違和感が残った。見過ごしてしまいそうな、それでも確かに存在する“引っかかり”だった。それが、やがて形を持ってふくらんでいくことを、お花自身もまだ知らなかった。

最初の一塗り。お花の筆先から、漆が静かに木地へと落ちる。だが、それは染み込む前に、すっと、消えた。

「…薄すぎる」

清十郎の声は短く、容赦がなかった。

「木地が生乾きのうちに、もう一度だ」

慌てて筆を取り直す。今度は、漆が垂れた。

「焦るな。一度塗ったら、必ず乾かす。それから、次じゃ」

そうして始まった、お花の“塗り”の修行。技法、手順、感覚―すべてが新しい。

翌朝、乾いた面を指先で軽く叩くと、コツコツとした音が返ってきた。

「よし。これで中塗りができるな」

その一言に、心がじんわりと熱を帯びた。少しずつ、確かに、自分は漆と向き合い始めている―そう思えた。

だが、清十郎の指導には一切の甘さがなかった。刷毛の跡が残ればやり直し。乾きが遅れれば、最初からやり直し。どんな小さなムラも、許されなかった。

「これは塗りではない。汚しじゃ」

その一言が、胸を鋭く貫く。けれど、不思議と涙は出なかった。悔しさは、むしろ心の奥で、小さな炎となって燃え始めていた。

「その漆、いつ練った?今の気温じゃ、やわすぎて乾かぬぞ」

「手元がまだ浮いておる。漆が板に染み込まぬ」

何度叱られても、筆を放すことはなかった。

十度目のやり直しを命じられた夜。外では、しとしとと雨が降り続いていた。

静まり返った工房の隅で、お花は筆を握ったまま、動けずにいた。

(…わたくしは、影でも構わぬと、そう思っていた)

名を呼ばれずとも、名乗れずとも、漆に触れられるだけで、幸せなはずだった。けれど―日々、修行を積み重ねるうちに、「線引き」がはっきりと見えるようになってきた。どれほど努力しても、「職人」とは扱われない。

(努力では、超えられぬものがあるのか)

技術の問題ではない。性別の問題。制度の問題。立場の問題。誰にも言えぬ痛みが、胸の奥で静かに膨らんでいく。

それは、やがて堰を切ったように言葉となった。

お花は意を決し、清十郎をまっすぐに見つめた。

「…どうして、わたくしには任せてくださらぬのですか」

声は震えていた。けれど、目は逸らさなかった。

清十郎は静かに言った。

「まだ早い」

たったそれだけの言葉だった。けれどその一言が、刃のように心に刺さる。

「…早い。そればかり」

お花の口から、抑えていた言葉が溢れ出した。

「わたくしは、ここまでやってきました。血がにじむほど刷毛を持ち、夜明けまで修行してきました。それでも…女だからというだけで、外されるのですか」

清十郎の眉がわずかに動いた。だが、沈黙は続いた。

「ただ…ただ、認めてほしいのです。男でも女でもなく、“一人の職人”として」

その言葉が工房の静けさの中に落ちると、外の雨音がさらに強くなったように思えた。

清十郎は窓の外を見やった。その横顔には、言葉にできぬ影が浮かんでいた。

お花はそっと刷毛を机に置いた。震える指先を胸に押し当てると、そのまま工房を飛び出した。

その夜、工房の奥で静かに筆を洗っていた清十郎を、彦兵衛親方が呼んだ。

「清十郎…お花には、いささか厳しゅう当たってはおらぬか?」

長い沈黙。清十郎は拳を膝に置いたまま、深く視線を落とした。

やがて、低く答える。

「心得ております。しかしながら…おなごの身で技を磨こうなら、他の者以上に鍛えねばなりませぬ。世間はまだ、おなごの腕前を真っ当に見てはくれませぬ」

それは理屈。胸の奥には、もっと別の感情があった。

―お花を見るのが、苦しかった。

あの目に向き合うたび、自分の覚悟が試される気がした。だからこそ、職人としての厳しさを崩すことができなかった。

清十郎は、自分の感情を押し殺していた。師として。家を継ぐ者として。そして―一人の男として。

翌朝、お花は、何もなかったように工房へ入った。

誰の目も、まだ自分を「職人」とは呼ばない。けれど、もう逃げることはしないと決めた。

工房の奥で筆を止めた清十郎が、ちらりとお花を見た。

「…戻ったか」

お花は、小さく頷いた。

しばしの沈黙の後―清十郎は、静かに言葉を継いだ。

「…あのとき、おまえが“それでもいい”と言ったから、わしは教えた。名は残らずとも、影でも構わぬと。だが、おまえの中で、名を求める声が生まれたのなら…その覚悟を、あのときの自分自身の言葉を、超えてみせろ」

それは、職人としての矜持を賭けた、真っ直ぐな問いかけだった。

「はい」

お花は深く頭を下げた。

その声には確かな決意があり、目には一途な光が宿っていた。けれどその胸の奥底には―まだ、拭いきれぬ迷いも、静かに燻っていた。

(この道を進んで、本当に良かったのか)

(わたくしに…漆を扱うだけの器量があるのか)

そんな思いが、春の夜気のように冷たく、心の隅で揺れていた。


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