第三章 試練と成長
「今年の江戸からの注文、様子がおかしい」
彦兵衛親方が帳場で帳面を見ながら、首をかしげた。
清十郎は手を止め、顔を上げた。
「どういうことでしょう?」
親方の視線は重く、言葉を選ぶように続けた。
「武家からの注文が減り、商人からが増えておる。それも、派手な意匠を求めてな」
確かに最近、金箔を多用した華美な品が目立つようになっていた。
「輪島の蒔絵が江戸で評判と聞きますぜ。我らも意匠を変えねば」
古参の職人は、二人の顔色を伺った。
「藩も殖産興業に力を入れておるが、競争も激しゅうなった。昔は年に一度の納品で足りたが、今は流行が早い。世が変わろうとしておるのかもしれぬ」
親方の呟きが、工房の空気を重くした。
彦兵衛親方は密かに考えていた。お花を堀井屋の繁栄のための“切り札”として利用しよう、と。変革の波が押し寄せても、娘の品格と美貌は、上得意先への接待に役立つであろう。
数日後、夜も更けた頃。親方はお花を呼び出した。
部屋には煙管の濃い香りが漂い、薄暗い灯火が壁に長い影を落としていた。
「座れ」
親方の声はいつもより低く、沈んでいた。
「おまえは、武家の娘として、作法が身についておる。美しい所作は、客をもてなす上で重要じゃ」
親方の目がゆっくりとお花の輪郭を追う。まるで細工前の漆器を見極めるかのような視線。だが、そこには温もりも敬意もなかった。
お花は小さく息を詰め、袖口をぎゅっと握りしめた。胸の奥に冷たい陰が、じわりと広がっていくのを感じた。
「武家の娘は、武家として家名に尽くすものだ。だが、おまえにはもう家はない。ならば、堀井屋のために尽くせ」
その言葉は、彼女の尊厳を剥ぎ取るように響いた。お花は唇を噛みしめる。まるで存在が、“モノ”して規定されるような重さがあった。
「良いか、おまえの美貌も、この家の繁栄のために使うのじゃ。おまえが、もっとこの家で重宝されるようになれば、清十郎からも漆器づくりを学ぶ機会も与えられよう」
もしこの言い分を受け入れれば、清十郎の指導を得られるかもしれない―その思いが、お花の胸をざわつかせた。
親方がゆっくり近づいてくる。途端に視界から色が消え、世界が蝋のように凍りついた。
誇りと焦燥、それに怒り―その三つが内側で渦巻くのがわかった。お花は一瞬、胸を締めつけられるような痛みに襲われ、肩を小さく揺らして呼吸を整えようとした。
(誇りとは、守るものか。それとも、捨てることで守られるものか…)
遠くで鐘の音が響いた。
唇がわずかに震え、声にならずに漏れる。
「わかり…ました」
鏡に映る顔は、まるで何層もの漆が重なり、素顔をぼやかしたようだった。その奥に、かすかな素顔がちらつく。
鏡の中では、紫煙が揺らぎ、ゆるやかに形を変えている。いつしかそれは髑髏のように歪み、親方の首に絡みつく幻のように見えた。
翌朝、お花が工房に現れた時、女中たちは言葉を失った。
その背中に宿るなにかが、一夜にして変わっていた。まるで魂の一部を置き去りにしてきたかのように。 「おはようございます」
いつもと同じ挨拶。だが、その声には、諦めにも似た静けさがあった。
お花は黙々と掃除を始めた。その手の動きに、もう昨日までの迷いはなかった。
数日後、清十郎は彦兵衛親方に呼び出された。親方の顔には、満足げな笑みが浮かんでいる。 「清十郎、お花のことじゃが…」
親方は、お花を女中の身分のまま、漆器づくりの指導をするよう命じた。
「どういうことでしょうか…」
清十郎は、薄々感じていた。お花が親方の“お手付き”になったのではないかと。胸の奥に、得体の知れぬ怒りと悔しさがこみ上げてくる。だが、親方の命令には逆らえなかった。
その日から清十郎は、お花に漆器づくりの指導を本格的に始めた。
「女中の身分は変わらぬ。だが、その覚悟は認めよう。ついてこられるか」
「おなごが弟子入りとはな」
工房に嘲笑が広がり、兄弟子たちは肩を突き合わせて笑った。「針仕事の方がお似合いじゃ」と、言葉の棘を次々に投げつける。だが、お花の瞳は揺らぐことはなかった。
清十郎に命じられ、初めて漆桶を運ぶ。甘く、苦い匂いが鼻腔を刺し、黒の艶に心が吸い寄せられた。
「触れてみよ」
清十郎の声。掌にのせられた刷毛の重みが、不思議に生々しい。握る手は震えたが、毛先にとろりと絡む漆の粘りに、胸の奥で何かが応えた。
「女中風情が漆に触れるとよ」
背後で囁く声に、お花は歯を食いしばり、ただ黙々と手を動かした。
「口を慎め」
清十郎の低い声が工房に静寂をもたらしたが、兄弟子たちの視線には、なお疑念と敵意が渦巻いたままだった。
その晩、工房の灯りが落ちる頃、清十郎は一人机に向かっていた。刷毛を走らせる音が、静かな夜気に溶けていく。
お花は戸口に立ち、ただ見つめていた。背筋を伸ばし、額に落ちる髪を拭おうともせず、器に心を注ぎ込む横顔。その姿は、漆よりも深い闇の中で淡く光っていた。
お花は一瞬、胸がぎゅっと掴まれるような痛みを覚えた。呼吸が浅くなり、掌のひらにわずかな熱を感じながらも、言葉は出なかった。
そっと戸を閉じ、暗がりの廊下で立ち止まる。
胸に手を当てるが、答えは出ない。ただ、清十郎の姿が闇の底で、残像のように揺れていた。
「おい、お花」
ある夜、他の職人たちが引き上げた後、兄弟子の権助が声をかけてきた。八年目の中堅で、後ろには茂吉と新八が控えている。
「随分と若旦那に可愛がられているじゃないか」
権助の声には、いつもの威勢の良さに混じって、どこか切羽詰まったものがあった。
「…そのようなことは」
「謙遜するな。女中のくせに、漆のことまで覚えたいじゃと?」
茂吉が続けた。だが、その表情は単純な嘲笑ではなく、なにかに怯えているようでもあった。
「第一、おなごの指先じゃあ、重い刷毛も満足に扱えぬ。それに『おなごが漆を触ると穢れる』って昔から言うよな」
新八は何も言わず、ただ一人、複雑な表情でお花を見つめていた。
お花は三人の顔を順に見渡した。兄弟子たちの目には、焦りと疑念が交錯していた。引き下がることなどできない―その覚悟だけが、胸を張らせた。
「わたくしは、清十郎様にお許しいただいた身。きちんと女中の務めを果たし、工房のお手伝いもさせていただきます」
その声は凛としていたが、かすかに震えていた。
権助が左の手を軽く伸ばし、粗い木地に触れた。
「じゃあ、こうしようか。明日の朝までに、この木地に下地漆を一度、ムラなく塗っておけ。乾かさなくともよし。腕前を見せてもらおうじゃねぇか」
お花は木地を見つめた。節だらけで表面はでこぼこしており、到底初心者には扱えない代物だった。
「もちろん、一発勝負じゃ。塗りでごまかしたり、重ね塗りをすれば、ムラはすぐ見破られる」
茂吉が肩をすくめながら嘲笑を含ませ、囁いた。「そのときぁ、若旦那に、『お花には向いておらん』と申し上げることになるなぁ」
お花は木地をぎゅっと抱きしめ、不安が胸に押し寄せるのを必死に押さえた。
(これは嫌がらせ。けれど、逃げれば二度と工房には入れなくなる)
その夜、お花は一人工房に残った。
漆桶を前に座り、震える手で漆をすくう。筆を走らせれば、節に引っかかり漆が厚く滲んだ。やり直せば、今度は乾きが邪魔をした。
(これは試練…わたくしを、追い出すための)
唇を噛み、父の面影を胸に、ただ一筆に心を込めた。
夜明け、疲労をまとったお花は、木地のそばで俯いたままだった。額に張りついた髪、黒く染まった指先。その横で、木地の表面には丁寧や処理と細やかな工夫がうかがえた。
「…失敗やごまかしはねぇな。これは、まぐれじゃねぇ」
権助は木地を手に取り、筆跡をたどる。塗りの厚みにわずかな乱れこそあれ、塗り重ねはなく、節にもきちんと筆が入っていた。
「厚塗りで誤魔化すのではなく、真っ向から挑んでおる。節も割れも避けず、しっかり筆を入れていやがる…根性だけはあるな」
茂吉も木地を指先でなぞりながら呟いた。
工房にはしんとした静寂が漂う。お花はまだ目を閉じていたが、その頬筋に光るものがあった。
その塗りは未熟でありながら、確かに工房の空気を変えた。だが、兄弟子たちの胸には、かすかな焦りと認識が重く沈んでいた。




