第二章 漆への道
その日の夕刻、清十郎はお花を女中部屋に案内した。
「今日からここが、おまえの住まいじゃ」
四畳半ほどの小さな部屋。他の女中たちと共同で使う質素な空間であった。
お花は部屋を見回し、頷いた。
「ありがとうござります」
「明日より、女中頭おせんの下にて働くことになる。商家の女中として一から学び直せ」
「はい」
お花の返事に迷いはなかった。生きるためには、身分など捨てる覚悟ができていた。
「なにか困り事あらば、おせんに相談せよ。無理はせぬように」
清十郎が、そう告げて立ち去ろうとしたその時、お花が呼び止めた。
「清十郎様」
「なんじゃ」
「わたくし…いつか必ず、清十郎様のご恩にお報いいたします」
その言葉に込められた決意の強さに、清十郎は胸を打たれた。
「恩など…ただ、しっかりと働けばそれでよい」
だが、心の奥では思っていた。この娘なら、きっとなにかを成し遂げるであろう、と。
その夜、お花は一人、膝を抱えて座っていた。
両親の最期の姿が鮮烈に甦る。喉の奥から込み上げる激しい怒りが、凍える体を熱く焦がしていた。父を陥れた藩の要人たち。小川家をあっさり見捨てた親戚たち…。
(地べたを這ってでも生きる。父上、母上…必ずや、小川家の名誉を回復してみせます)
窓の外に見える星空に向かい、誓いを立てた。
明日から始まる、新しい人生。武家の娘から女中へ。だが、心のどこかで、まだ叫んでいた。
(女中など…。心までは変わらぬ。いつか必ず―)
薄暗い部屋の中で、お花の瞳は異様に光っていた。
朝は、寺の鐘で町が目覚める。
お花の身体には、まだ飢えの記憶が刻まれていた。女中たちと同じ時刻に目を開け、新しい一日が始まる。
廊下を進み、工房の扉を押すと、刃物で木地を削る規則正しい音が空気を切る。奥では研ぎ石がかすかなすすり音を立て、手前では筆跡を残す微かな漆の刷毛音。職人たちの息遣いが混ざり合い、空間全体が一つの鼓動を持っているかのようだった。
「お花、まずは女中としての務めじゃ。炊事、掃除、洗濯をきちんとこなせ。それらが安定したら、工房の掃除も任せる」
おせんの声は厳しかったが、どこか含みもあった。
「はいっ」
お花は大きく答え、箒を握って歩き出した。
最初のひと月は、女中としての基礎を覚える日々。早朝から糧を炊き、屋敷中の掃除、職人たちの膳の用意…。指の腹は荒れ、膝は悲鳴を上げる。寝床に落ちる頃には体が石のように重くなっていた。
長い廊下を雑巾掛けしながら、ふと過去の景色が揺らぐ。縁側で書を読み、琴の調べが静かに響くあの家の夏の日。蹲踞の水音が石を濡らし、跳ね返るあの余韻。かつてのお花は、こうして働く人々の汗を思いもしなかった。
(武家の娘が…あの頃へ戻りたい)
その思いが、恨めしさとともに、胸の奥で小さく膨らんでいた。
「お花、手が止まってるよ!女中は朝から晩まで動くのが当然じゃ。お姫様気分をいつまで続ける気かい」
おせんの叱声が、背後から突き刺さった。他の女中たちが、ちらりと笑いを含んだ視線を向ける。
お花は肩を丸くし、胸の内をぐっと抑え、再び手を動かした。すべてを失ったこの身で、技と勤勉だけが支え。唇を噛みしめ、黙って動き続けた。
女中の所作に慣れ始めた頃、工房の清掃が任されるようになった。
しかし、ただの掃除ではない。漆を扱う場では、埃一粒が命取り。
「漆桶に近づく時は必ず袖を縛れ。埃一つで品は台無しになる」
「今日は湿度が高い。風呂の温度を一分下げよ」
清十郎は空を仰ぎながら、風の流れを読むように指示を出す。
「漆の乾きが早すぎれば刷毛目が残る。遅すぎれば埃が付く」
お花は疾走のように風呂場へ走った。湿度計は八十二を示す。理想は八十。戸をすこし開けて湿気を逃がし、炭火を抑えた。
掃除をしながら、お花は職人たちの所作をじっと観察する。筆の角度、漆を乗せる速さ、乾燥を待つ職人の表情─そのすべてが、学びの材料となった。
彼らは筆を僅かに震わせながら漆をのせる。ある時、その震えが、漆に“命”を吹き込むように見えた。
「なぜ震わせるのですか?」
お花の問い、冷ややかな返答に呑み込まれた。
「喋るでない、女中は黙っておれ」
職人たちは冷たくあしらった。
だが、お花は諦めなかった。
今度は清十郎が筆を握る姿を見つめ、その動きを目に刻んだ。筆先が漆と一体化し、まるで生きているように躍動する。
「今年の漆は淡いな。六月の雨が少なかったせいか」
清十郎は漆桶を覗き込み、職人たちに注意を促した。お花は、そうした会話を聞きながら、漆の世界の深さを知った。
ある朝、床を掃いていたお花は、漆の欠片を拾い上げてじっと見つめた。屑とも呼べるその小片の艶に、思わず息を呑む。
「女中風情が漆に興味を示すとは」
職人が鼻で笑った。
座敷の端にいる他の女中たちも囁き合う。
「武家の娘が地に堕ちたものよ」
その瞬間、お花の中で、誇りの火が小さく揺らめいた。だが、表情には出さない。今は女中の身。感情を露わにすることは許されない。
お花は肩をすくめ、視線を床に落とした。
ふと清十郎が近づき、言葉をかけた。
「まず、これを磨いてみよ。失敗作ゆえ、壊しても構わん」
手渡されたのは、漆の厚みがムラになった小皿。泡が浮き、重ね塗りは不完全だ。
実のところ、清十郎はずっとこの皿を手中で転がしていた。本当に、お花が受け取るべき器か。女の身で漆の道を歩む対価を考えながら。
お花がその皿をそっと受け取ったとき、その瞳にひとすじの光を見た清十郎は、肩の力を抜いた。
「漆とはな、塗った後が勝負じゃ。湿度、温度、風の通り…ほんの少しの違いで全てが変わる」
真剣な清十郎の顔に、わずかながら笑みが差す。その表情に、お花は胸の底から湧き上がる憧れを感じた。
それからというもの、お花は夜が明けても工房の隅で見本帳を読みふけるようになった。そこには、清十郎が描いた塗りの設計図、木地による塗り方の記録が細かに書き込まれている。
手が漆に染まり、指先がじりじりと痛む日もあった。目が痛み、喉が渇き、腕には発疹が浮かぶことも。だが、お花は、読むのを止めなかった。
ある夜、痒みに呻くお花を見つけ、清十郎が声を掛けた。
「漆負けがひどいようじゃな。無理するな」
「いえ、大丈夫です。これも女中の務めのうち」
清十郎は、彼女の真剣な表情を見つめ、わずかに身を反らした。その横顔に、女の色香を纏い始めていたからだ。だが、それと同時にどこか危険な香りも感じていた。




