第十二章 別れの時
ほどなくして、清十郎の手元に、一通の文が届いた。差出人は、桐山佐一郎。
丁寧な筆致で記された文には、こうあった。
『お花殿の出自、しかと承知いたしました。その才と品格は、桐山堂に新しき風を吹き込むものと信じております。ついては、正式に身請けを申し入れたく。この縁、両家の繁栄に資するところ大なり。ご賢察を』
読み進めるごとに、清十郎の指先から体温が失われていった。
佐一郎の申し出は、ただの好意でも、気まぐれでもなかった。武家の血筋を重んじる彼の家が、本気で迎えようとしている。それが「妾」としてであれ。
清十郎は、机に突っ伏し、両手で頭を抱えた。
百五十両の数字、仕契の言葉、妾として囲われる未来―それらが、頭の中を嵐のように駆け巡る。
腹の底から湧く黒い怒りと、同時に確かな確信。江戸で彼女が学べば、技も名も、この地では想像を超えて広がるだろう。
だが、なぜ、そうでしか求められぬのか。なぜ、才を、心を、尊厳ごと差し出さねばならぬのか。
無意識に机を拳で叩いていた。血が滲むほど強く。
―その時、不意に思い至る。
師として、彼女の未来を守る道が、まだあるのではないか。自らの想いを押し殺してでも、彼女の尊厳を保つ方法が―。
工房は静まり返り、漆の匂いだけが灯火に揺れていた。
清十郎は膝をつくと、使い古された刷毛を手に取った。指先でその柄をなぞりながら、決断の痛みを噛み締めた。
「清十郎様?まだお仕事を…?」
夜遅く戻ってきたお花が、小さく声をかけた。
清十郎は背を向けたまま、言葉を吐く。
「疲れただけじゃ」
それは明らかな嘘だった。手には、江戸からの文。震える手でそれを差し出す。
お花は黙ったまま目を通し、そっと机に置いた。
「…身受けの話ですね」
「…ああ」
長い沈黙が、二人の間を満たす。清十郎の心は、千々に乱れていた。
「清十郎様は…どうお思いですか?」
彼女の声には、揺れる不安と尊さが混じっていた。
清十郎の目が揺れ、言葉にならない感情が胸の奥でうねる。
「わしは…」
言葉を絞ろうとするが、詰まる。瞳は赤く、揺れ、震えていた。
「わしは、おまえの師じゃ。弟子の成長を願うのが当然であろう」
その言葉は、わずかに震えていた。師としての“名”と、抑えきれぬ衝動の入り混じった声。清十郎は、お花に背を向けて、静かに告げた。
「佐一郎殿への返事は、わしから出しておく」
そう言い残し、工房を去る後姿に、お花は言葉を失った。その背中はあまりにも、広く、傷を帯びて見えた。彼女は初めて、師の「弱さ」を見た気がした。
その夜、お花は眠れずにいた。
源蔵から告げられた、堀井屋当主の命。妾として生きるよう命じられた屈辱に、胸が押しつぶされそうになる。
佐一郎は立派な男だ。技術を理解し、評価し、広めてくれるかもしれない。だが―お花の心には、清十郎への想いが深く根を張っていた。
拒めば、清十郎を苦しめる。受け入れれば、自らの誇りを殺すことになる。従うしか道がない。自分で未来を選ぶことさえ許されぬ身分―武士の娘が妾となる屈辱に、やるせなさと怒りが込み上げる。涙が頰を伝い、胸に抱えた櫛が、ひどく重く感じられた。
(もしも、清十郎様が、一言でも「行くな」と言ってくださったなら…)
けれど彼は、何も言わなかった。その沈黙が、胸を裂くように痛かった。
お花は立ち上がり、窓の外を見つめた。
月は雲に隠れ、また姿を現す。その繰り返しを見つめているうちに、父の言葉が蘇った。
「人生とは選択の連続じゃ。道を選べば、必ず何かを失う。だが、嘆いてばかりでは、何も始まらぬ」
父は、命を懸けて改革を求めた。お花も今、その道に足を進めようとしている。
(拒むこともできず、縛られることもできず。ならば、辱めを踏み台にしてみせる。桐山堂も、江戸の技術も、すべて我が糧としよう)
東の空が白み始めた。夜は明けようとしている。
朝日が差し込む工房で、お花は最後の仕上げに取り掛かった。完成した夜桜の重箱は、薄明かりの中で、切なく、美しく輝いていた。
(世は動いている。異国の品も技も。わたくしのような娘でも、腕ひとつで道を切り開けるかもしれぬ。ならば、わたくしがその先駆けとなろう)
次の朝、帳場で清十郎が待っていた。手には書きつけの紙。
「清十郎様、文は…」
お花の声は震えていた。
清十郎は振り返らず、紙を差し出した。
「ここに、わしの返事を記した。読むか、読まぬかは、おまえの自由じゃ」
お花はしばらくそれを見つめ、震える指先で封を切った。
『―身請けの儀、辞退いたします。お花には、職人として契約を結ばせたく思うております。技と誇りを以て。もし、佐一郎殿が、かような道を認めてくださるなら、わたくしども、これを支持する所存にござります』
お花の胸に、何かが満ちていった。涙がひとすじ、頰を伝う。
「清十郎様…」
声はかすれ、震えていた。
清十郎はようやく顔を上げ、彼女の瞳をまっすぐ見つめた。
「聞け、お花。江戸の漆は、越前とは違う。派手で速い。おまえの誠実さは、武器じゃ。だが、それだけでは足りぬ。新しき風を呼び起こせ」
そう言って、袂から小さな包みを取り出した。中にあったのは、使い込まれた漆刷毛。艶やかな黒塗りの柄に、金で一文字だけ彫られている。
「花」
裏側には、細やかな筆致で「清」。
お花は震える手でそれを受け取る。その柄の滑らかさ。刷毛の毛の一本一本に、師の歳月が宿っているようだった。
「これは…」
「わしの長年使ってきた筆じゃ。江戸で、おまえの道を開くために使え」
職人にとって、道具とは技と魂そのもの。それを譲るとは、未来を託すということ。
「…ありがとうござります」
お花は涙を抑えきれず、深く頭を下げた。
言葉なく、清十郎は静かに頷いた。
互いの間に、言葉にならぬ思いが満ちていた。
「行ってこい。おまえの居場所は、もう…江戸にある」
ひと月後―
お花は桐山堂の正式な職人として、江戸へ旅立った。
身受け話は、職人引き抜きへと変わっていた。
彦兵衛親方は烈火のごとく怒り、清十郎の縁談を強制し、次期当主の座を婚外子に譲ると言い出した。
「親方は嫡子の面子を潰されて憤っておる。ただ、相手からは十五両の引き抜き料と、向こう三年の継続取引も提示されておる。悪くはない話じゃが…」
源蔵は、お花を横目に呟いた。
清十郎は、すべてを失う覚悟で、この道を選んでいた。家督も、血筋も、未来も―。
だが、それでもなお、お花の才能を妾の影に沈めるわけにはいかなかった。
それが、師としての、最後の責任だった。
(清十郎様の未来を…。わたくしのために…)
お花は夜桜模様の櫛を胸に抱え、かつて歩いた坂道へ向かった。振り返れば、清十郎との記憶が桜の小枝のように散らばっていた。
涙が止まらない。全身が震え、崩れ落ちる。櫛を両手で握り、涙が枯れるまで、ひとり泣き続けた。
旅立ちの朝、風は冷たく、空は淡く光っていた。
堀井屋の門前に立ったお花は、重兵衛やお芳らに一礼すると、刷毛をしっかりと胸に抱えた。
門柱の陰で、その姿を見送る清十郎。言葉はない。ただ胸の奥が、引き裂かれるように疼いた。
お花の歩はゆるやかに、車輪の音と共に遠ざかる。刷毛は風を受け、櫛が帯の奥で揺れた。
「いつか…戻ってこい」
その言葉は、風に紛れて届いた。お花は振り返らず、背中でそれを受け止めた。
懐の刷毛から、清十郎の体温がまだほのかに伝わる。
刷毛に刻まれた二文字―『清花』
それは、師から受け継いだ技と、弟子が花開かせた心の証。誰にも奪われぬ、自分だけの「名前」。漆のように深く、重ねられた想いが、その名に染みていた。そして、それはこれからも塗り続ける、人生そのものだった。
春はまだ遠く、桜は咲かない。
それでも、胸の奥の“花”は、誰にも見えぬ土の下で、確かに芽吹いていた。




