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漆の花  作者: 金城絢


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第十章 侘びの美学

「侘花塗り」の評判は、最初こそ芳しいものではなかった。人々の目は、すでに江戸花塗りの華やかさに慣れていた。お花の新作を前にして、口々に囁かれる。

「地味じゃのう」

「どうにも、物足りぬ」

だが、そんな声の波を、静かに越えてくるものがあった。

「この椀にて茶を喫すれば、心静まる」

「幾度見ても飽くことなし」

「使うほどに愛着が湧く」

少しずつ、その器の魅力に気づく者たちが現れはじめた。やがて、茶道を嗜む者たちの間に、それは広がった。華やかさではない、美の奥にある“静けさ”を知る人々。彼らはその塗りを、こう呼んだ。

「これぞ、真の和の心」

「異国の真似事ではない、美そのもの」

ほどなくして、藩主の奥方からも注文が届いた。名もなき一職人の器が、上屋敷に上がる日が来るとは―。

そんなある日。堀井屋に、ひとりの男が現れた。上質な羽織袴に身を包み、所作は端然。歳は四十に届くか届かぬか。目には、冷静さと深い知性を宿していた。

「江戸・桐山堂より参りました、桐山佐一郎と申します」

その名に、工房の空気が揺れた。

桐山堂―江戸でも屈指の漆器の名工房。その当主が、鯖江まで足を運ぶとは。

奥の間に通された佐一郎は、静かに言った。

「侘花塗り、拝見できますか」

お花の塗りが、江戸にまで届いていたこと。そのこと自体が、職人たちにとって驚きだった。

清十郎が一椀を差し出すと、佐一郎はそれを手に取り、長く沈黙した。光に透かし、手のひらに重さを感じ、指先で表面をなぞる。

やがて、ぽつりと。

「…これは、見事な」

その声音には、真の感嘆が込められていた。

「計算された“空白”の力。装飾を削ぎ落とした先に浮かぶ、深い精神性…。まさに、余白の美」

目を上げた佐一郎は、尋ねた。

「この塗りは、どなたの手によるものですか?」

清十郎が静かに応じる。

「弟子の、お花でござります」

「…“お花”殿、で?」

佐一郎の瞳がわずかに揺れた。

名を聞いたときの驚きよりも、現れたその人の姿に、息を呑んだ。

静かな佇まい。芯の通った眼差し。武家の出自がにじむ所作。その手に、こんな塗りが宿るとは―。

「まさか、これほどまでに美しき“手”に、お目にかかれるとは。あなたの塗り…まさしく“生きて”おりますな」

佐一郎の言葉に、場の空気がわずかに軋んだ。

清十郎は、その視線が器を離れ、明らかに弟子に注がれていることに気づいていた。それは、器への興味を遙かに超えた眼差し。無意識に、手のひらが拳を握る。

「いえ…恐れ入ります」

そう応じたお花の声は静かで、どこまでも澄んでいた。目は佐一郎を見つめながらも、時折、清十郎の方へと向けられる。何かを確かめるように。

佐一郎は再び椀を手に取った。

「江戸では、江戸花塗りが今をときめいております。けれど…どこか、薄っぺらい。この塗りには、それとは違う重みがあります。真の“日ノ本の美”が、ここにある」

そう語る佐一郎の声は、次第に熱を帯びていった。

「ぜひ、我が桐山堂にて―さらなる高みを目指していただけませんか?」

その言葉に、場が静まった。

思いがけぬ誘い。しかも、江戸の名門工房。茶人たちの推薦に加え、茶道宗匠の久田家からの引き合いもあるという。さらには、将軍家御用達の可能性までも。

清十郎の目が揺れた。その提案が、弟子にとってどれほどの飛躍であるかは分かっていた。だが―同時に湧き上がる感情。それは職人としての誇りではなく、もっと不器用な、強く、切実な思いだった。

お花は、膝の上の手がかすかに震えていることに気づいた。

「…わたくしが、江戸へ?」

佐一郎は頷きながらも、内心の迷いを隠しきれなかった。美しさと技術と、そしてその先にある―何か。それは、欲望か。敬意か。愛情か。自分でも、もはや分からなくなっていた。

「はい。お花殿の名を、技を、世に広めたい。いつか共に、“新しき塗り”を、創り上げられたなら―」

そして、場を見渡すように視線を巡らせ、静かに続けた。

「…実のところ、この塗りの真価は、まだ一部の上流の方々にしか伝わっておりませぬ。それが、惜しいのです」

再び器を見つめ、言葉を重ねる。

「侘びとは、静けさに耳を澄ませる心。慎ましくも、豊かな暮らしへのまなざし。それは、むしろ日々を懸命に生きる庶民の中にこそ、息づいている」

お花の目が、佐一郎を見つめた。

「だからこそ、この『侘花塗り』を―日ノ本の隅々まで届けたいのです。それこそが、この塗りを“活かす”ということでありましょう」

その声には、揺るぎない信念があった。だが同時に、その裏には、計算された意図も隠れていた。

「―すでに我が工房では、取り扱いの独占を含めた販売網の整備も」

清十郎の眉がぴくりと動いた。

地方の職人が、江戸の商いの力を知らぬと、佐一郎は高を括っていた。だが、その眼差しに、己の思いが見透かされた気がして―彼は、深く頭を下げた。

「この申し出が、わたくしの欲だけに基づくものでないことを…どうか、お汲み取りいただきたい。願わくば、今後とも堀井屋殿とは、よき関係を」

立ち上がる佐一郎の背には、一本のまっすぐな線があった。それが真実か、偽りか―その答えは、まだこの場には落ちてこなかった。


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