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漆の花  作者: 金城絢


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第一章 雪夜の邂逅

雪が舞う町外れ、漆職人の堀井清十郎は、提灯を揺らし急いでいた。

年の瀬も押し迫った夜半、得意先からの急な知らせに家を出たのである。

(親方には内密に、と言われたが…)

懐の奥には、長年使い込んだ漆刷毛を一本、忍ばせている。日々の仕事で磨き抜かれた漆黒の柄は、清十郎の掌の形を覚えていた。

藩の御用達を預かる漆器工房『堀井屋』にとって、商家との関係は慎重に扱わねばならない。だが今夜の用件は、どうにも胡散臭いものであった。 角を曲がったとき、提灯の光がなにかを照らした。 雪に埋もれそうな小さな影。

清十郎は足を止めた。最初は捨てられた荷物かと思われたが、かすかに動いている。

近づくと、十四、五ほどの娘が膝を抱えて震えていた。着物は薄汚れているが、その柄や縫製は上等なもの。草履はないが、足は白く細い。髪も結い方に品があり、どこかの良家の子女に見えた。

「おい、大丈夫か」

娘が顔を上げた。その瞬間、胸の奥がざわめいた。整った鼻筋、切れ長の目。飢えと寒さに打ちひしがれながらも、なお生きようとする強い意志がその瞳に宿る。けれど、その奥には言い知れぬ寂しさが沈んでいた。

「どちらの家中の方じゃ」

娘は唇を震わせるだけで、声が出ない。ただ、かすかに首を振った。

清十郎は困惑した。武家の娘がなぜかような姿に―まさか、家が断絶でもしたのか。

(藩内でもそのような話は聞かぬが…)

鯖江藩でも財政難で下級武士の離散は増えている。だがこれほど良家の血筋の娘が、行き倒れになど…。

「名は言えぬか」

娘は口を動かすも、やはり声にならない。ただ涙だけが頬を伝った。

十年前、母を亡くしたときの、言葉にならぬ痛みが清十郎の胸を刺す。

「立てるか」

娘は立ち上がろうとしたが、雪の中に崩れ落ちた。 清十郎は躊躇した。素性の知れぬ者を安易に助ければ、危険が伴う。ましてや武家の娘となれば、その家の事情次第では、大きな問題になりかねない。

だが―このまま見捨てれば、朝には凍死しているであろう。

得意先からの用件など、今はどうでもよくなった。

「すまぬが、背負わせてもらう」

娘を背負い上げると、思ったより軽い。上品な匂いの中に、長き困窮の臭いが混じっていた。

(この娘に、いったい何があったのか…)

屋敷に戻ると、女中頭のおせんが驚きの声を上げた。

「若旦那様、これは…まあ、なんと美しい」

おせんも一目で、この娘の育ちの良さを見て取った。 「湯を沸かせ。飯も用意せよ。丁寧に扱うのじゃ」

「はい。ですが、これは…」

「詳しい事情は明日話す」

客間に娘を寝かせ、清十郎は帳場で頭を抱えた。 (助ければ、厄介事になるやもしれぬ。家を追われることすら…。だが、あの目を思い出すと―あれを見捨てられる者が、職人として真を保てるものか…)

翌朝、彦兵衛親方に呼び出された清十郎は、覚悟を決めて事情を説明した。

「昨夜、町で行き倒れた娘を助けました」

「…なんと?どこの娘じゃ」

「武家の娘のようですが、詳しくは分かりませぬ」 親方の表情が険しくなった。

「武家の娘を、勝手に…おまえ、何を考えておる」 「申し訳ござりません。しかし、あのまま見過ごしていれば凍死しておりました」

親方は深いため息をついた。

「もしその娘の家に何らかの事情があったなら、我らまで巻き添えになりかねぬぞ」

「承知しております。しかし…」

「だが、もう遅い。今更追い出すわけにもいかぬ。まずは身元を調べねばならぬな」

三日目の朝、娘―お花は客間で正座していた。髪はきちんと結い直され、借りた着物を美しく着こなしている。やはり武家の作法が身についていた。

「身体の加減はいかがか」

「ありがとうござりました。おかげさまで」

澄んだ声、丁寧な言葉遣い。良家の子女であることは疑いない。

「名は?いずれのお家の方か」

お花は一瞬躊躇したが、意を決したように口を開いた。

「…お花と申します。父は、鯖江藩勘定方の小川又兵衛でござります」

清十郎は息を呑んだ。小川又兵衛―その名に覚えがあった。

「小川殿は…」

「はい。藩の財政改革に関わりましたが、失策とされ…昨年の春、切腹を命じられました。家屋敷は没収、母と共に親戚を頼りましたが…」

お花の声が震える。

「母は病弱で、長旅に耐えきれず、二月前に亡くなりました。それからは、一人で…」

清十郎の顔に苦悩の色が滲む。藩の財政改革―確かに去年、失敗に終わった政策があった。その責任を取らされた役人たちの話も耳にしている。

「それゆえに、諸国を…」

「親戚はもうおりませぬ。どこも、没落した者は受け入れてくださいませぬ」

涙を堪えながら話すお花。武家の誇りを失わぬよう、必死に努めているのが痛々しかった。

「どうじゃ、うちで働いてみぬか」

清十郎は自分でも驚くような提案を口にしていた。 「女中として働きながら、なにか手に職もつけられよう。武家の作法を身につけたおまえなら、きっと立派に務まる」

お花の瞳に、かすかな希望の光が宿った。

「しかし…わたくしは、武家の娘。女中など…」 「身分も家も、もうないのであろう。ならば、自分の手で生きる道を見つけるしかない」

清十郎の言葉は厳しくも、どこか温かかった。

「おまえの父君は、藩のために尽くされた。その娘を、見捨てるわけにはいかぬ」

お花は長い間俯いていたが、やがて顔を上げた。これまでとは打って変わった強い眼差し。

「…お願いいたします。何でもいたします。どうか、お側に置いてくださいませ」

深々と頭を下げるお花の姿に、清十郎は確信した。この娘なら、きっと立派に育つ。そして―自分の判断は間違っていない。

「明日、改めて親方に話してみよう」

お花の頬に、涙と微笑みが同時に浮かんだ。

翌日、清十郎は改めて彦兵衛親方の前に座った。 「親方、お花の件でござりますが…」

「小川又兵衛の娘か。あの者のことは覚えておる。真面目な役人だったが、運が悪かった」

彦兵衛は深いため息をついた。

「財政改革の失敗で家族まで路頭に迷わせるとは、藩も非情なことよ」

そして視線を遠くへ移し、呟いた。

「今や、武士も内職で漆器を求める時代。商人が武士より羽振りが良いとは、世も変わったものじゃ」

「それでは…」

「娘を預かるのは構わぬ。うまく使えば、堀井屋の箔付けにもなるやもしれぬ。だが、条件がある」

清十郎は身を正した。

「武家の娘といえども、ここでは一介の女中。特別扱いは許さぬ。それでよいか」

「承知いたしました」

「もう一つ。女中頭のおせんにひと月見させよ。それで足手まといなら、里に出す」

清十郎は複雑な表情を見せた。だが、まずは住む場所と食事を確保することが先決であった。

「分かりました」

こうして、お花は堀井屋の女中として、新しい人生を歩み始めたのだった。


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