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アレステリア国物語  作者: 鳩峰浦
第二章
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20 算術と液体

 そんな幸せな気持ちのまま眠りに落ちたせいだった。


 心の奥に閉じこめてあるはずの、暖かく柔らかく、残酷な記憶を掘り起こしてしまった。

 古い本の香りに囲まれて、そのベッドは暖かく、穏やかで、その人の声で紡がれる、世界中の童話を集めた本は、私を異国の虹色の海へ、宝石が散りばめられた山へ、何重もの城壁で囲まれた都市へ、何度も何度も私をいざなった。

 それは、幸せな時間だった。


 それが幸せなものであればあるほど、失われた反動で、強い毒になる。

 遅効性の、消えない毒。


 時間の経過とともに、薄らいだと思ったら、ふとした拍子に心の中に針を差し込んで、をぐちゃぐちゃにかき回す。

 

 どうして、私を置いていったの?

 どうして、一人にしたの?

 

 ***


 宿舎の窓が、がたがたと音を立てている。

 夜中、強くなった風が吹き付けている。


 「大丈夫? 何か苦しい?」

 ソラが寝ながら泣いているのに気付いた私は、ソラの頬にそっと手を添えた。

 寝ぼけた様な深緑色の瞳が、私の手の感触に、見開かれた。カーテンの隙間から差し込む月明かりをほのかに反射した潤んだ瞳。

 

 「私、お父さんがいなくて、そして、お母さん、私が小さいときにどこかにいっちゃったの。本を一冊だけ持って」

 

 聞いたことのない、ソラのか細い、震えたような声。

 「私がもっと、大人で、もっと特別で、お母さんの役に立てる子だったら、連れて行ってくれたかなって。置いて行かれたりしなかったかなって。だから……私は……」

 

 私は、そっとソラを抱きしめた。

 

 「大丈夫だよ。大丈夫」

 

 ガタン、と床に足音が響いた。

 

 月明かりの中、コテツが、月明かりの差し込む、部屋上方の、カーテンのない窓を睨みつけている。


 「……コテツ?」

 

 「……大丈夫だ。理由は分からないが、いなくなった」


 「エレナ?」

 「多分……」

 コテツがため息をついた。

 「あいつの狙ってる軌道が見えた」

 眉間にしわを寄せたコテツの表情は、逆光の中でもひどく険しい。

 「正確に、あの窓を突き抜けて、斜め上からキリンの額を撃ち抜く軌道が見えた。何なんだ、あいつは……」

 「……軌道……」 

 ソラが、何かを思い出すように、目を閉じる。

 私も、弓やスリングショットは確かに得意だ。でもそれは感覚的なもので、決まった距離と範囲で反復的に繰り返したことで身についたものだ。 

 例えば、こんな強風の中。ガラスを突き破って、正確に的に当てろ、と言われたら、そんなことができるだろうか。

 

 「軌道計算」


 ソラが呟いた。

 「エレナは、算術、ずっと一位だった。私、算術でエレナより成績良かったことない」

 

 そう言えば、筆記の総合一位はいつもソラだったけど、いくつかの科目は、その猛者がいて、理科・薬学はスパナ君の牙城。そして算術は、エレナだった。

 

 「……もう近くにはいない。とりあえず、明日の移動もあるし、寝ようぜ。もしまた来たら、俺、多分気付くから」

 

 そう言って、すっかり警戒を解いた様子のコテツはのろのろとソファに戻り、布団を被った。

 

 普通なら、朝まで寝れないような状況だが、コテツが見守ってくれる安心感は、急速に私を眠りに引き戻していった。

 

 ***

 

 黒男のローブが、蛇のように私の首を締め付ける。

 「やる気が、ないのかな? 契約違反だと思うのだけど」

 

 殺される。

 私を殺すことに、何の躊躇もない。


 「君に力も物資も渡して、少なからず投資をしているんだ。仮に、引き受ける意思がないのに、契約をしたなら、それって、詐欺だと思うんだよね」

 首の締め付けが強くなっていく。

 意識が、少しずつ薄れる。


 「コテツが近くにいる限り、キリンを殺せないことは、もう分かった。なら、まずはソラを殺せばいい。その機会は何度もあったはず。なぜやらない?」

 

 嫌だ。

 こんな。

 

 こんな死に方。


 どうして私はこんなことに。

 

 ふと、昔思い描いていた光景が浮かんだ。

 

 私は、研究職の上品なローブを着て、論文の成果について演説をしている。

 

 結局、私は何がしたかったんだっけ。

 何になりたかったんだっけ。

 

 1番になれないのは、悔しかった。

 そうじゃない自分は、価値がないんだって。


 でも、楽しいこともあったの。


 算術は好きだった。

 積み上げて、整理をしつくせば、堅牢な解にたどり着く。


 そこは、順位も優劣も関係がなくて。

 ただ、静かな正しさがあった。

 

 本当に、私がしたかったことって、なんだったんだろう。


 不意に、首を締め付ける力が消失し、私は床に尻餅をついた。

 身体が、酸素を求めて荒く息を吸い込み、過呼吸のようになって、また頭がぼうっとする。

 

 「まず、ソラを殺すんだ」


 フードの陰。顔ははっきりと見えないのに、黒男の瞳だけが赤く光る。

 

 「そこで、混乱している連中の隙をついて、キリンを殺す。分かったな」

 

 私は、ぼんやりとした意識の中で、頷いた。

 涎や鼻水に涙が混じった粘度の高い液体が頬や口の周りに、べたべたと張り付いて、ただただ、気持ち悪かった。

読んでいただいてありがとうございます!

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