1 屋根裏部屋の夜空(♣︎)
おかしいのは自分の方なのではないかと、少しずつ思い始めたのは、冬が過ぎる頃だったろうか。
「キリン! 降りてきなさい!」
館の婦人の、威圧的な声が屋根裏部屋まで響く。そんな大きな声を出さなくても、聞こえるのに。
夕食前の風呂掃除、廊下の清掃、食事部屋の整頓、食卓のテーブルクロスの準備、一通り、自分の仕事を済ませて、館の主人の夕食時間の給仕が始まるまでの、15分ほどの休憩。
どうせ、食事部屋の埃でも見つけたのだろう。
「クロスにシミが付いてるわ。確認しなかったの?」
ああ、そっちか。
「洗濯済のかごから、注意して運びました。もとから……」
頬に裂けたような痛みが走った。
いきなり平手を張るのは、不機嫌な時のパターンだ。どうせ、主人とけんかでもしてるんだろう。シミも、ほとんど言いがかりだ。
顔は、できればやめて欲しいのにな。
これで明日顔が腫れてたりしたら、「そんな顔で良く給仕に出れたものね」などと言って、一日中、表に出ないトイレ掃除と調理場掃除に回される。
夕食の給仕前に鏡を見たら、幸い、ほんのりと左頬が赤くなっているだけだった。右の頬に、少し濃くチークを塗って、バランスを整えた。
夕食の給仕が終わり、他の給仕人と一緒に食事部屋を片づけ、食器を洗い、冷えた堅いパンと薄いスープを調理場で食べ、短時間のシャワーを浴びて、屋根裏部屋に戻ったのは深夜だった。
堅いベッドと、小さな棚があるだけの狭い狭い部屋。
三角屋根の屋根裏なので、上にだけ少し広く、高い位置の窓から月と星の光が射し込み、それだけが美しい。
その光を見上げながら、ふと、頬を涙が伝った。
全部、盗まれた。奪われた。
何もかも、全て。
この館での奴隷のような1年間。
そうだ、今日は、9歳の誕生日だった。
1年前、私は確かに、スクトゥムティア国の王族の娘として、自分の館の自室で、二階の窓辺から、両親の帰りを待っていた。
栗毛色の二頭の馬が引く馬車で、私の誕生日のプレゼントを買った両親が、帰ってくるのを。
何時間も。
夕闇が訪れて、さすがに違和感に気づくまで。
不安になって、部屋のドアを開けて、玄関ホールまで降りて。
玄関に来ていた知らない顔の衛兵達、それと慣れ親しんだ執事が、不思議そうな顔で私を見た。
「お嬢さん、ここで何をしてる?」
私が、この館の一人娘、アリスティア家のキリン・アリスティア・ノノだと言う訴えに、執事も含めて全員が、可哀想な子どもを見るような目をした。
「お嬢さん、嘘はいけない。アリスティア家に子どもはいないのだから。その服、奥様の部屋から盗んだのかい?」
私は最期、半狂乱で暴れ、鎮静剤を打たれた。
うっすらとした意識の中、両親の乗った馬車が何故か街の反対方向の山中の崖で見つかったこと、いつのまにか館に入り込んでいた子ども……私を、警邏官に引き渡すこと、それだけが聞こえた。
それから私は、おかしなことを話す身よりのない子として、スクトゥムティアの孤児院に保護され、しばらくして給仕人・小間使いを探していたこの館に引き取られた。
当たり外れが大きいとは聞いていたが、大ハズレだったのだろう。とにかく、婦人は私のことが気に入らないみたいだった。私を選んだのは館の主人の方だったらしいが、婦人が私を気に入らないと知るや、最初の頃の優しさはすっかり消滅してしまった。他の給仕人も、腫れ物にさわるように私に接していた。
ただただ、居心地の悪い日々。
虐げられ続ける毎日。
ただ、真夜中の月明かりに、優しかった両親と、豊かだった自分の館での暮らしの甘い記憶にすがる日々。
こんなにも、記憶がはっきりしているのに。
誰も、私の言うことなど信じてくれない。
次第に、少しずつ、疑惑が湧いてきた。
私の記憶の方が、嘘なんじゃないか。
狂っているのは、世界の方じゃなくて、私のほうなんじゃないか。
つらい現実から逃れるため、私が作り出した幻。
私には何もできない。
ここから逃げる力もない。
月の光を見つめているうちに、ひどい頭痛がしてきた。
ベッドに潜り込み、嗚咽をもらしながら、鈍い眠りに落ちた。
月の光は、いつの間にか太陽の光に変わっていた。
ドアを叩く音が、脳に響く。寝坊したのだろうか。また、張り手を食らうことになるのか。もうどうでもいい。何もかも……。
ドアが開き、顔を出したのは、館の婦人ではなかった。
深い皺の刻まれた顔は、少なからず年を重ねていることをうかがわせたが、銀色の長い髪の毛と、薄紫色の瞳は、朝日の中、ひどく美しかった。
「あなたがキリン・ノノね。あなた次第だけど……。私、アリストリア国で、各国の身よりの無い子を集めて、パン屋を経営してるの。働くことに興味はない?」
アリストリア国。
遙か東の果ての国。
スクトゥムティア国から離れるのは嫌だった。
でも、この館に居続けたら。
多分、私は、死を選ぶ。
「堅くないパンは……好きです」
毎晩食べる、石のようなパン。スープに浸しても、なお、かみ切るのに苦労するような。
「それは良かった。ちゃんと働いてくれたら、焼きたての、ふかふかのパンが食べ放題よ」
そのとき、ふかふかのパンという言葉と、銀髪の女性の笑顔に、気づいたら私は声を上げて泣いていた。
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