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何度やり直しても、あなたが私に恋をしてしまうんですが  作者: 山本依由加


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第4章 近づく影

「君が、怪盗エルなんだろう?」


 その言葉に、楓はほんの一拍だけ、レジの手を止めた。


 心臓が、鳴った。けれど、顔色は変えない。


「……何のことですか?」


 返しながらも、声がわずかに低くなるのを自覚した。冗談と受け取ってもらえる程度の温度に調整したつもりだった。


 口元に浮かべたのは、ごく淡い微笑み。初めての客に向けるような、愛想の薄い挨拶。


「怪盗エルって……ネット上の噂のやつですよね」


 声の調子をわずかに軽くする。雑談の延長に聞こえるように、無関心を装うように。


 岬はほんの一瞬だけ口元を動かした。


「……ええ、噂です」


「ではなんの……冗談、ですよね?」


 楓の声は穏やかだが、その瞳の奥は油断なく張り詰めていた。


 岬は数秒だけ黙ったまま、視線を外さずにいたが、ふと目を細めて軽く頷いた。


「ええ、もちろん」


 その一言が、本当に冗談だったのか、それとも確認を終えたという意味だったのか。


 判断がつかないまま、会話は途切れた。


 男——岬朔弥は、それ以上何も言わず、パンの入った紙袋を片手に静かに去っていく。


 その背中が見えなくなるまで、楓はレジ前に立ち尽くしていた。


「楓ちゃん、ちょっと休憩入っていいよー」


 厨房から顔を出した安達の声に、楓は小さく頷いた。エプロンを外し、スタッフルームの奥にある小さな控え室に向かう。


 ドアを閉め、椅子に腰を下ろした瞬間、ポケットのスマホが震えた。アールからの非通知メッセージだった。


『想定よりも早い接触ですね。驚きましたか?』


「……平気。表情は崩れてないはず」


『楓さんの表情制御は正常です。しかし彼の言葉は明確に“確信”の域に入っていました。岬朔弥、国家公安サイバー対策課所属。記録では観察者型の捜査スタイルで知られています』


「じゃあ、もうバレてる?」


『証拠がない以上、彼の行動は揺さぶりに過ぎません。確証を持っているわけではないでしょう。ですが……楓さんに“揺れ”があれば、確信に変わる可能性はあります』


 楓はスマホを伏せ、深く息を吐いた。


「……やっかいな人」


 *


 それ以降、岬は静かに店に通い続けた。来店頻度は上がり、パンを選ぶ動きは日々自然さを増していった。


 だが、視線だけは変わらなかった。常に楓を、確かめるように見ていた。


 楓もまた、変わった。


 挨拶に抑揚をつけた。レジでの雑談をほんの少し加えた。パンを差し出す時に、ほんのわずか笑ってみせるようになった。


 誤魔化し。偽装。否定の演技。


 そのすべてを、あの男は見破っているかもしれないという緊張感が、胸の奥に薄く張りついていた。


 この男の疑念を「日常」で上書きする。それが、楓の選んだ策だった。


「今日はよく焼けてますよ。おすすめです」


 楓は目を合わせず、レジの奥に視線を滑らせながら言った。


 岬の返事はなかった。ただ、その視線が数秒だけ楓の横顔を見ていた気配だけが残った。


 そんなこと、これまで誰にも言ったことはなかった。


 それでも、岬は変わらなかった。黙って、わずかに頷くだけだった。


 その沈黙の圧に、楓の心拍はわずかに跳ねた。


 次の客が列に進み、楓は自分のペースを取り戻すように手元の操作を繰り返す。


「温めますか?」


「え? クロワッサンですけど……」


「……失礼しました」


 自分らしくない言い間違いに、楓は舌の奥で焦りを飲み込んだ。


 店の奥では、安達が棚を見上げながらぽつりとこぼした。


「楓ちゃん、最近ちょっと様子変わったよな。そろそろ本当にバイト雇うか〜?」


 楓は曖昧に頷いた。


 *


 帰宅後、楓は風呂場に立ち、シャワーの音にしばらく身を委ねた。


 湯気に包まれながら、彼女はレジでのあの数秒間を何度も思い返していた。


 心拍が乱れた。呼吸も浅くなった。脳の奥で、うっすらとざわつく気配が確かにあった。


 風呂上がり、楓はいつものように台所に立ち、野菜と卵だけのシンプルなスープを作った。無言で包丁を動かし、鍋の前で火加減を調整する。


 調理中、スマホが静かに震えた。


 だが楓はすぐには手を伸ばさず、鍋の中を見つめたまま玉じゃくしを動かし続けた。


 包丁のリズム。湯気の立ちのぼり。火加減を微調整する指先の動き。


 そうしていると、頭の中が整理されていく。


 パソコンのキーボードを叩いているときも、パンをこねるときも同じだった。


 無心になれる。ただ、手を動かしていれば。


 そうして、出来上がったものをテーブルに並べてから、彼女はスマホを手に取った。


 画面には、アールからの非通知メッセージが届いていた。


 食事を終え、部屋の灯りを落としたあと、楓はようやくスマホを開いた。


 ソファに座り、画面越しに問いかける。


「……彼が来るたびに、変な反応がある。視界の端がにじむような、頭の奥がざわつくような……」


『感情刺激に近い神経活性です。脳波帯域にごく軽度のノイズが検出されています』


「でも……ちがう。そんなはずない。私が、そんな感情を——」


『ええ、恋愛感情とは別の刺激と認識しています。ただし、長期的な累積負荷が予想されます。無自覚の情動変化がトリガーとなりうるため、警戒は継続します』


 楓は画面を伏せ、じっと目を閉じた。


「そんな簡単に、私が揺れると思うな」


 けれどその言葉すら、自分に向けたものに聞こえた。

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