第32章 勧誘
午後、公安局第七課の作戦室。蛍光灯の白い光が机に並ぶ報告書を照らしている。鬼島と三國が並んで腰を下ろし、部下から上がってきた報告を受けていた。
鬼島は分厚い報告書を無言でめくり続け、やがて手を止める。長い沈黙のあと、低く言葉を落とした。
「……大事なものが、やられた」
三國が眉をひそめる。
「それって……何を盗まれたんです?」
鬼島は答えず、視線を上げてただ一つの名を呼ぶ。
「岬」
扉が軋み、遅れて岬が入ってきた。その瞬間、鬼島は机を叩きつけるようにして立ち上がり、怒声を放った。
「お前がいない間に怪盗エルにやられたぞ!」
室内の空気が一瞬にして張り詰める。三國が身じろぎし、他の隊員たちも緊張の色を隠せなかった。
岬は怯むことなく歩み寄り、静かに答えた。
「別ルートで追ってました」
そう言い切ると、まるで何事もなかったかのように椅子を引き、しれっと腰を下ろす。報告書のページがまた静かにめくられ、緊張の余韻だけが作戦室に残った。
*
同じ頃、アジトでは楓が仕事に出ており、留守を守るのは結とアールだった。静かな午後、モニターの光だけが部屋を照らす。
そこへ久賀が姿を現した。
「調べておきたい人間がいる。アール、協力してくれるな?」
声の調子は穏やかだが、どこか切迫感があった。アールは短く応答する。
『あなたは随分と私を使うのが上手くなってきましたね』
「僕と君の仲だろ?」
『仲と業務は別です。——依頼の詳細は?』
「分かってるくせに」
しばらく沈黙したアールは久賀の思考をトレースし、計算。それが楓の益になるかどうかを判断した。
『承知しました』
冷却ファンの回転がうなりをあげた。
*
同夜、廃止予定の研究棟・地下。隔離区画の警告テープが冷気でふるえていた。消毒液と焼けた埃の匂い。赤色灯だけが残心のように回っている。
青野佳澄は簡易マスク越しに空気を嗅ぎ、床の細かな擦過痕を追っていた。収容ユニットは空。拘束具は切断。誰かが、誰かを連れ出した——それだけは分かる。
「ふむふむ……脚、速い。背、ちょっと高い。利き手は右。……あ、ざわざわする」
こめかみを指で押さえ、彼女は壁に手をついた。感情のざわめきが、薄く漏れてくる。
「“戻らないで”……誰の声?」
背後で靴音。影がひとつ、距離を測って立ち止まる。
「危ない場所だ。ひとりで入るところじゃない」
久賀だった。コートの裾に白い粉塵。足元は濡れている。懐中電灯の輪が、佳澄の足元に落ちた。
「あなた、誰ですかぁ?」
佳澄は挑戦的に久賀を見上げた。
「僕は久賀。ここで何を見てる?」
「何だと思いますぅ?」
一拍の沈黙。懐中電灯の輪の中で、二人の視線がかち合う。
「僕は怪盗エルを知っている」
「……へぇ、あのSNSで話題の?いるんですかぁ?」
「知っているくせに。LF-05」
佳澄は目を瞬いた。緊張の笑み。
「……へぇ」
赤色灯がゆっくり巡り、床の影を引き延ばした。
「役割が欲しいなら、場所を変えよう。ここは長居向きじゃない」
久賀は懐中電灯を少し下げ、廊下の先をあごで示した。
「あなたについていっていいことあるんですかぁ?」
挑むような口調だが、つま先は半歩、彼の方へ寄っている。
「そうだな、美味しいミルクパンはどう?おすすめのお店があるんだ」
少し考えた佳澄は、笑顔で頷いた。
「美味しいパンは大好きですぅ」
久賀は短く頷き、灯りを落とした。
*
夜。楓がアジトの扉を開けると、玄関の照明がぱっと点いた。空気は少し冷えている。中には先客がいた。久賀と、見覚えのある少女。テーブルの上には結が淹れかけの茶器をいくつも出して、右往左往している。
「きゃ、楓さん! えっと、その、その——椅子、もう一脚……」
楓は立ち止まり、視線だけで状況を測った。
「……あんまり、部外者を増やさないで」
久賀は肩をすくめ、いつもの調子で笑った。
「彼女は部外者ではない。そうだろう」
アールのモニターが淡く光る。
『対象:青野佳澄。LF計画の非公開被験者。コード:LF-05(失敗ロット)』
少女が一歩前へ出る。明るい瞳、少し緊張している。
「本当にあなたが怪盗エルなんですか? 私、怪盗エルがいるってだけ、この人から聞いて来たんですけど」
指さされた久賀は、悪びれずに手を振った。
「紹介は僕だ。判断は君だよ、楓」
結は湯呑を配りながら、まだ落ち着かない。
「あの、あの、名前は佳澄ちゃんで、えっと、靴は揃えてくれて、えらいです……」
楓は少女を見た。短く息を吸い、吐く。
「あなたは……」
「青野佳澄でーす。あなたが怪盗エル、なんですねぇ〜! 私、会いたかったんです」
『事実です。依頼内容、未定。目的、未開示』
アールの説明に、久賀が補足する。
「だからこそ、今、連れてきた。——君の判断を仰ぎにね」
楓は結の差し出した湯呑を受け取る。湯気が眼鏡を曇らせ、すぐ消えた。
「このアジトに入れた時点で、秘密は知られているようなものよ……座って。話は、これから」
少女はほっと息をこぼし、頭を下げた。
「お邪魔します」
その夜の空気は、少しだけ甘く、少しだけきな臭かった。
なかなか気に入らなくて、書き直していました。
明日から旅行へ行くので、土日は更新をお休みします。




