第31章 アウェイク
朝のアジト。外の雨はようやく小降りになり、灰色の光が窓の隙間から差し込んでいた。
ソファに横たえられたLF-99が、かすかに指を動かし、まぶたを震わせた。三人と一体は息をのむ。ゆっくりと目を開けた少女は、乾いた唇を動かし、小さな声で呟いた。
「……おはようございます」
その一言に、楓の目尻が熱くなる。久賀は深く息を吐き、岬はただ無言で少女を見つめた。
少女はゆっくりと視線を巡らせ、周囲を見渡す。知らない天井、知らない人々。戸惑いが混じった声がこぼれる。
「……ここは、どこですか?」
楓が優しく答える。
「安全な場所よ。もう、怖がらなくていい」
少女は小さく首を振り、さらに尋ねた。
「あなたたちは……誰ですか?」
久賀が穏やかに口を開く。
「俺たちは君を助けに来た者だ。安心しろ」
「……わたしは?」
その問いに、部屋の空気が一瞬止まった。楓が膝をつき、静かに答える。
「何か覚えていることはある?」
楓が膝をつき、優しく声をかける。少女は不安げに瞬きをした。
「思い出せない……」
少女は毛布を握りしめ、小さく震える声を続けた。
「自分の名前も、どうしてここにいるのかも……何も思い出せないの」
その目に涙がにじみ、今にも零れ落ちそうになる。楓はそっとその手を包み込むように握り返した。
「大丈夫。ここから始めればいいのよ」
岬と久賀も視線を交わし、黙ってうなずいた。
アールが割り込むように、いくつか候補を読み上げる。
『では代わりとなる呼称を提案します。参照したのは、一般的な日本人の名前を収集した公開データや、新聞・小説などに頻出する名前の統計です。そこから抽出された候補名……ミカ、アヤ、ユイ……』
その中で楓は即座に口を開いた。
「ユイってどう? “結”って字で。ここで出会った縁を結ぶ、その意味を込めて」
少女はしばらく考えるように目を閉じ、やがて微笑んだ。
「……結、と名乗ります」
楓は小さく頷き、岬と視線を交わした。新しい名前が、この場に小さな光を落としたようだった。
楓は軽く息をつき、
「さぁ、朝食にしましょうか」
と声をかけた。しかしアジトに転がっているのは、先ほど久賀が買ってきたコンビニ飯ばかりだ。楓は一瞬言葉を詰まらせ、目覚めたばかりの結を見て心を決める。
「せっかくだから、何か暖かくて美味しいものを食べてほしいの。隣で少し作ってくるわ」
久賀が割り込むように笑った。
「いいな、それ。僕も腹減ってきた」
岬がすかさず突っ込む。
「昨晩、これ以上なく“暖かい”カップ麺を食っただろうが」
苦笑いしながら、楓はアールに問いかける。
「ねえ、結の健康状態は?」
『胃腸に問題はありません。通常の食事を摂取しても大丈夫です』
「じゃあ、店からもらってきた売れ残りのパンがあるわ。サンドイッチでも作りましょうか」
結は驚いたように目を丸くし、やがて嬉しそうに微笑んだ。
*
楓は自宅に戻ると、急いで冷蔵庫にあった材料を使って簡単な朝食を作り、再びアジトへ戻った。ハムとチーズを挟んだサンドイッチ、野菜を少し加えたもの、卵を焼いて挟んだもの……いくつか種類を工夫して用意していた。
テーブルに並べられたパンを見て、結は戸惑いながらも口に運んだ。
「……これ、サンドイッチ、ですよね?」
常識は残っているのか、名前は分かるようだった。しかし柔らかなパンの感触に驚いたのか、目を丸くして小さな声を上げた。
「ふわふわ……」
久賀が得意げに腕を組んだ。
「ここのミルクパンは絶品さ。祖母のお気に入りの店なんだ」
楓が笑みを浮かべる横で、岬はひとつの皿に手を伸ばした。そこにはジャムを塗ったサンドイッチが置かれている。
「……これは?」
「いつもジャムパンを買っていくでしょう? だから作ってみたの」
楓の言葉に、岬は思わず息を呑み、小さく笑った。普段は無口な彼の表情が柔らかくなる。
「……ありがとう。すごく嬉しい」
結は三人のやり取りを眺めながら、もう一口パンをかじった。
*
朝食後、楓と結は久賀とともに久賀財閥系列の洋服屋へと出かけていた。結にまともな着替えが必要だったからだ。店内には柔らかな照明が落ち、マネキンには季節ごとの服が並んでいる。結は戸惑いながらも、差し出されるドレスやカジュアルな服に目を丸くしていた。
「好きなのを選んでいいのよ。これからはあなたの時間だから」
楓が微笑むと、結は少し照れながらも小さく頷いた。久賀は店員に声をかけ、支払いの手続きを済ませている。
*
一方その頃、岬はアジトに残り、一人で部屋を見回していた。
アールは現在、解析作業に集中しているらしく、この場には沈黙したまま存在を感じさせていなかった。
モニターの冷却ファンに指先を触れると、ふっと強烈な既視感に襲われる。壁、ケーブル、ディスプレイの光……全てが脳裏のどこかで繋がり、あの日の残響を呼び覚ます。
「……俺は君を守りたい。君の隣にいたい」
岬がそう言った時、記憶の中の彼女が途端に表情を変えた。
「だめ、やめて」
唇が震える。記憶の底から、楓の拒絶の表情が浮かび上がった。まだ言葉にならない声が喉の奥でこみ上げる。
「……俺は、見たことがある。彼女がこの場所で拒絶したあの顔を」
だがそんなはずはない。
岬が初めてアジトへ来たのは、作戦の直前で。そこから作戦遂行から今まで、ここに楓と二人きりでいたことなんてないはずなのだ。
だが記憶の断片は鮮烈すぎた。唇に残る拒絶の気配、胸を締めつける痛み。岬は額に手を当て、吐息を漏らす。まるで別の自分が、この場所で確かに彼女と向き合っていたかのように。




