第3章 出会い
朝、パンが焼き上がる頃——それは、いつも通りの静かな時間だった。
カウンターに立つ楓の前に、見慣れない男が立っていた。
無言。スーツ姿。黒髪を丁寧に撫でつけ、表情には何も浮かべていない。ただ、目だけが異質だった。
彼はトングを取り、慎重にパンを選び、トレイに置き、列に並んだ。
その瞬間、楓のポケットの中でスマホが微かに震えた。振動は一度だけ——独特のリズム。アールからの“警戒”を知らせる暗号だった。
楓は表情を変えずにそっとスマホを取り出し、画面を手元で確認する。
『前方の男性に注意。既知リスク対象の可能性あり』
(なぜ?)
すぐに問い返すと、アールからさらに簡潔な返信が届く。
『顔認識中。挙動および視線追跡パターンが特殊。監視訓練者の特性に類似』
その一文に、楓は背筋がひやりと冷えるのを感じた。
もう一度男に視線を向ける。見た目はごく普通の会社員。しかし、その静けさは“つくった無害さ”にも見えた。
「……いらっしゃいませ」
楓の声はいつも通り。淡々としたやり取りの中で、男は短く頷き、財布を取り出す。その動きすら静かで、整っていた。
名前も名乗らず、世間話もせず、レジ横に貼ってある「温めますか?」のポップすら無視して、ただパンを受け取って出ていった。
何の印象も残らないはずだった。ただひとつ——その視線を除いて。
楓は背筋を撫でられるような感覚を覚えた。あの目は、観察していた。パン屋の陳列でも、楓の手元でもなく、「人」としての自分自身を測るような視線。
(……誰かの目、あれは“記録”する目だ)
その日は、大きな事件もなく、日常は静かに過ぎた。
ただ、閉店後にふとレジの奥で手を止めたとき、楓の中に微かな違和感が残った。
客の顔を思い返すと、なぜか最初に浮かぶのは、あの男の目だった。冷静で、無表情で、それでもなぜか……気になった。
その感覚は、楓の胸の奥に小さな波紋を残していた。楓は素早くスマホを操作して書き込む。
「アール、あの男の正体をもっと詳しく調べられる?」
『可能です。ただし、データの照合には時間を要します。非公開経路を通って動いている可能性が高く、監視カメラや交通ログからの逆算が必要です』
「……わかった。引き続きお願い」
画面の向こうでノイズのように数値が流れ、アールの処理が始まった。
翌日も、その男はやってきた。注文するパンの種類、立ち位置、視線の動き。全てが一定だった。
だが、同時に「奇妙な揺れ」があった。毎回、退店する直前に一瞬だけ視線が楓に留まる。まるで「観察対象」ではなく「理解したい対象」を見ているような眼差しだった。
彼がレジに並んだとき、楓はいつも通り淡々と袋詰めを終え、会計を済ませた。
「ありがとうございました」
その一言を伝えたあと、男がふと立ち止まり、わずかに声を落として言った。
「……ジャムパン、美味しかったです」
楓は一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。
「そうですか。よかったです」
男はそれ以上何も言わず、静かに去っていった。
その背中をぼうっと見送っていた楓の後ろで、がらりと厨房の扉が開いた。
「わっ」
「うお、びっくりしたー。……あれ? さっきの、楓ちゃんの知り合い?」
いつの間にか背後に現れていた安達の声に、楓は肩を落としながら首を振った。
「……いえ。ただの常連です」
「そう? 変な客だったら、お断りしていいからね。うちは従業員を大事にする店なんだ」
その言葉に楓は肩をすくめ、笑ってごまかした。
「どう?忙しい?」
「いえ、大丈夫です」
「ちょっと思ったんだけど、そろそろバイト雇った方がいいかもって。楓ちゃん、最近いろいろ任せっぱなしで悪いなーって思っててさ」
「……別に、いいです」
楓は淡々と答えながらも、奥歯でそっと言葉をかみしめた。たしかに最近は早朝から夜遅くまで、無言で働き詰めだった。けれど、それを“負担”と認識すること自体に、どこか罪悪感のようなものを感じていた。
「いやいや、体は正直だからな。無理してると、パンにも出るからよ」
安達は笑ってそう言いながらも、目元には本気の気遣いがにじんでいた。
夜。
楓はアールに報告しながら、彼の行動をデータに起こしていた。
『私の方でも、この街の防犯カメラ記録、移動経路、駅の顔認証システムなどを照合中しました』
「で、どう?」
『現時点での照合候補は三名。うち二名は既に別都市に在籍確認済み。残る一名の照会結果——“岬 朔弥”。国家公安サイバー対策課所属。最近この地域への異動申請が出ています』
「……やっぱり、公安」
『ですが、この人物には興味深い行動パターンが見られます。尾行も監視も徹底的に静的。対話も接触も極力避ける。観察と記録に徹する、いわば“見守る者”です』
楓は、息を吐いた。
だが、恐怖ではなかった。
(感情ではなく、行動で近づく人間——)
それは、楓にとって未知だった。距離を詰めず、語らず、何も強制せずにただ「見てくる」存在。
それが、妙に気になった。
これまでにも、怪盗エルを追う組織や個人はいくつも存在していた。痕跡を辿り、接触を試みようとした者もいた。だが、それらはすべてデジタルの中で完結する“遠い追跡者”だった。
実際に、楓の生活圏に足を踏み入れてきたのは——岬が初めてだった。
日常に入り込み、距離を保ち、言葉すら交わさず、それでも“何か”を伝えてくるその態度が、楓には異質であり、理解不能だった。
『この人物は、楓さんを“捉える”ためではなく、“理解しよう”としているように見えます』
「……理解、か。そんなもの、されたくないのに」
次の日、また彼は来た。
その日は雨だった。レジの向こう、窓の外には傘の波があった。
昼過ぎ、彼はいつも通りにパンを買い、店を出た。
その直後、楓は偶然、裏口から出た先でその姿を見つけた。
彼は曲がり角で、小さな子どもとすれ違った。
その子は傘を持っておらず、肩を濡らして立ち止まっていた。
「うわ、降ってきちゃった……」と、子どもがつぶやいたのが聞こえた。
男は一度だけその子の方を見てから、黙って傘を差し出した。
「え、でも……お兄さんの傘は?」
何も言わず、男はフードを深く被り、すっと踵を返して歩き出す。
濡れながら去っていく背中に、子どもが小さく叫んだ。
「ありがとう!」
男は黙って傘を差し出した。自分はフードだけで歩き去っていく。
その子が、驚きながら傘を握りしめて立ち尽くしていたのが、印象的だった。
(……なんなの、この人)
その夜、楓は自室のベッドで起き上がれずにいた。
胸のあたりが、ざわついていた。苦しいわけじゃない。でも、落ち着かない。
『心拍が通常より7.5%上昇しています。感情反応の兆候と見られます』
スマホから流れる無機質な声に、楓は背を向けた。
「うるさい」
アールを黙らせて、楓は窓の外を見た。雨はまだ止みそうにない。
翌朝、その男は再び来た。
そして、会計を終えて袋を受け取ったその瞬間、ぽつりと口を開いた。
「君が、怪盗エルなんだろう?」