第22章 記憶
閉店後、人気の消えた通りを抜けて、楓は久賀をアパートに案内した。
小さな鍵を差し込み、隣室の扉を静かに開ける。
重厚なファンの唸り。連なるモニターの明かりが、まるで眠らない神経網のように部屋を照らしていた。
「へぇ、いいところじゃないか」
久賀は扉の内側で足を止め、空間を一通り見回してそう言った。 その目の奥にある探るような光を、楓は見逃さなかった。
「……ここが、怪盗エルの本拠地ってわけだ」
楓は無言でPCを起動し、アールの音声が静かに室内に響いた。
『ユーザー確認。楓、識別済み。同行者——久賀貴道、外部協力者として一時承認します』
「ご丁寧にどうも」
久賀は肩をすくめ、楓が普段使っている大きなオフィスチェアの背に片肘を乗せた。まるでその場の主であるかのように、さりげなく空間になじんでいた。
「じゃあ、整理しようか。今回のリセット現象とループ構造について」
楓は頷き、これまでの経緯を簡潔に伝える。
「どこから説明したら良いのか……最初は妹・澪の死からだった。彼女は“LF-11”としてK12研究班に選ばれた被験者。死因は“精神不安定による自死”とされたけど、そんなはずないと思ったの」
久賀の表情がわずかに引き締まった。 それまでの飄々とした態度を消し、正面から楓を見据える。 まるで、今度ばかりは彼もまた“真剣に”この話を受け止めようとしているかのようだった。
「研究機関にアクセスして、記録を集めた。でも、その過程で私は……“契約”を交わした。世界の真実に触れる力と引き換えに、“恋”という感情を代償として差し出した」
「契約?」
久賀が眉を上げる。どこか冗談のように聞こえたその言葉に、彼の表情がほんのわずか揺れた。
「そう。信じがたいと思うでしょうけど——本当よ。あれは神社跡だった。誰もいないはずの空間で、私の中に直接“声”が入ってきた。問いかけられたの。『真実を望むか』『代償を差し出せるか』って」
久賀はしばらく沈黙し、目を細めると首を傾げた。
「まさか……ここにきて“魔法”とか“異能”みたいな話になるとは思わなかったな」
彼の口調はあくまで軽かったが、その奥には確かに警戒があった。
「……じゃあ、それはつまり“女神”の力ってやつか?」
「ええ、そう呼ぶしかない。科学じゃ説明できない。でも、確かに現実に干渉している」
久賀はしばらく沈黙したまま、表情を動かさなかった。何かを理解しようとするように目を伏せ、そして深く息を吐く。
「……うん、まあ……めちゃくちゃファンタジーだけど……いいよ、続けて?」
無理やり納得したような口調でそう言い、久賀は視線をモニターに戻した。楓はなんとか言葉を探して解説を続ける。
「そこから始まったのが、ループ。私が力を手に入れるために女神に差し出した条件は……恋、だった。私が誰かに恋をし、その想いが届いてしまった瞬間、世界が巻き戻る」
『補足します。楓さんは“誰か”と定義していますが、過去二度のループにおいて該当した対象はどちらも——岬 朔弥、ただ一人です』
アールの淡々とした声が響き、楓は一瞬だけ言葉に詰まった。
「今、私たちは三度目の世界にいる。そして、あなた——久賀さんと私だけが記憶を保ってる」
久賀は腕を組み、椅子の背にもたれかかるように姿勢を崩した。 だが、その目は鋭く画面を見つめたまま動かない。
「感情が成立することで、世界が巻き戻る。告白——あるいは、想いが通じ合った瞬間がトリガー」
久賀は、ひと呼吸置いて静かに続けた。
「繰り返されるたびに、中心にいるのは——岬 朔弥。記憶を失ってもなお、君の核心に近づいてくる男」
「ええ。だから、彼にだけは絶対に近づかない」
その言葉に、久賀がじっと楓を見た。
口の端をわずかに持ち上げて、どこかからかうように言う。
「……君は二度失敗してる。二度あることは三度ある、って言うだろ?」
楓は即座に首を振った。
「絶対にない。感情は——理性でコントロールできるもの」
その声には揺るぎがなかった。
だがその瞬間、室内に短く鋭い電子音が鳴り響く。
『警告。記録ログ“R002”が外部から参照されています。アクセス元、公安内端末。識別コード:岬 朔弥』
楓の背筋が凍りついた。 アールの声が告げた“名前”に、頭の中が一瞬真っ白になる。
「見たか? あいつはやっぱり、もう動いてる」
久賀は淡々と言い、モニターに映るアクセスログを眺めた。
楓は、ぎゅっと拳を握る。
「……どうして、いつも彼が……」
その声は呟きに近かった。
「記憶がないのに、なぜ毎回同じように私の心を追い詰めてくるの?」
久賀はしばらく黙っていたが、ふと小さく言った。
「彼は記憶がなくても、君を守ろうとしてるのかもしれない」
「……そんな保証、どこにもない」
楓はそう返しかけて、飲み込んだ。
『第三者的観測対象として、岬は不安定因子と定義可能です』
アールの冷静な補足が響く。
*
岬朔弥は公安本庁の端末室にいた。
手元の画面には、内部ログへの検索窓。
何の気なしに、指先が一つの名前を打ち込んでいた。
——緒方 澪。
検索理由は自分でも説明できなかった。ただ、その名前を見た瞬間、胸の奥に奇妙なひっかかりが生まれた。
(……この記録、前にも見たことがあるような……いや、それ以前に……)
ふいに背後から、人の気配が近づいてくるのを感じた。
「なんです? 最近、“澪”って名前、妙に多く出てきません?」
三國陽介だった。相変わらずの口調で、岬の背後に立っている。
「……さあ。でも、なんか放っておけなくて」
「岬さんらしいですね。……さすが、優秀な捜査官の勘、ってやつですか?」
岬は返さなかった。画面に視線を戻す。
“澪”という少女の存在が、なぜか胸の奥に静かに引っかかっていた。




