第20章 リセット2
朝焼けが、ゆっくりと窓辺を染めていた。
徹夜明けの空気が、部屋の熱と静寂を包み込んでいる。 楓と岬は一晩をかけて、国家側が保持していたK12研究班のログ、LFシリーズの関連記録、そして澪にまつわる断片的な情報を突き合わせていた。
抜け落ちた空白は多く、すべてを繋ぎ合わせるには程遠い。それでも、断片と断片の間に、確かに“人の意志”が見えると岬は言った。 怪盗エルのアジト——楓の隣室は、まだ熱の残るモニターたちの微光に満ちていた。
岬は壁に凭れたまま、口を開く。
「……こんなもののために、君が全部背負う必要はない」
楓は小さなマグカップを両手で抱えたまま、その言葉に瞬きもせず返す。
「でも、誰も背負ってくれなかった」
短く、静かに。
岬は言葉を詰まらせたまま、黙って座る。湯気の立つカップを指でなぞりながら、楓はぼんやりとディスプレイのひとつを見つめていた。
「澪が笑っていた日々を、私はずっと巻き戻してる。後悔とか、悔しさとか、そんなの通り越して、ただ……壊れてしまったような気がしてるの」
岬は頷きながら、彼女の隣に座る。机の上の写真——澪が笑う一枚に、視線が自然と落ちる。
「……澪さんのこと、教えてくれてありがとう」
沈黙。
ふいに、岬が言った。
「もし俺が——あのとき、もっと早く気づけてたら」
「やめて。そういうの、言わないで」
楓は首を振った。
「私はあなたに何かを期待したわけじゃない。……でも、ただ、一人じゃないって思いたかった」
岬がゆっくりと手を差し出した。
楓は驚いたようにその手を見つめたが、拒まなかった。
触れ合う掌。熱が、確かに伝わった。
ふと、岬が口を開く。
「……俺は君を守りたい。公安じゃなくても、怪盗エルでも、どんな形でもいい。君の隣にいたい」
その一言で、時間が止まった気がした。
楓の胸の奥で、何かが震える。
喉の奥が熱い。視界の端が滲む。
「……今、それを言うの」
「今だからだ。遅すぎたかもしれないけど、それでも」
楓は唇をかすかに震わせた。返す言葉を探す間もなく、胸の奥で熱があふれていく。
そして、目の前の岬がわずかに動いた。
「だめ、やめて」
楓は一歩、後ろに引いた。その声には、明確な拒絶というよりも、怯えが混じっていた。
岬は立ち止まらず、ゆっくりと近づく。
「どうして……そんな顔をする」
その声は静かだったが、かすかに揺れていた。
楓は震える息を吐く。
「それ以上来たら、また……世界が……っ」
その言葉と同時に、風景の端が波打ち始めた。 室内の輪郭が揺れ、重力がわずかにずれるような違和感が走る。
岬は、その揺らぎの中でも一歩を踏み出し、楓の頬に手を伸ばした。
「——俺は……」
そのまま、唇が触れようとした瞬間——
その瞬間、世界が歪んだ。
音が遠のき、色彩が滲む。 天井のモニターが一斉に明滅し、警告音のような微かなノイズが響き始める。
『楓さん。感情干渉値、閾値突破。記憶相関領域に歪み発生——』
「やめて……お願い、まだ……」
言葉が届くより早く、視界が反転した。
キーボードの上で交差していた二人の手が、霧のようにすり抜けていく。
ああ、女神様、どうして。
——白い光。
——真空の静けさ。
——そして、無。
*
パン屋の朝。開店準備のざわめき。
オーブンの熱気が店内に立ち込め、パンが焼き上がる香ばしい匂いが漂っている。
楓はいつも通りカウンターの定位置に立ち、棚にパンを並べながら、静かな時間の流れを感じていた。
そこへ、扉のベルが控えめに鳴る。
現れたのは、見慣れないはずの、だがどこか記憶の輪郭をなぞるようなスーツ姿の男だった。 整えられた黒髪、感情の読めない表情。視線だけが、異質な鋭さを宿していた。
男は無言でトングを取り、並べられたパンの中から一つを選ぶ。その動作は一切の迷いがなく、流れるようにトレイへと運ばれた。
その瞬間、楓のポケットのスマホが微かに震えた。一度だけ、独特の短いリズム。 ——アールからの“警戒信号”。
表情を変えぬまま、楓はそっとスマホを手に取り、手元で画面を確認する。
『前方の男性に注意。既知リスク対象の可能性あり』
「……」
楓が何も返さずにいると、アールからさらなる追伸がくる。
『顔認識中。挙動および視線追跡の傾向が異常。訓練された監視者の特徴に合致』
もう一度男を見た。どこにでもいるような会社員風の風貌。 だがその佇まいは、明らかに意図された“無害さ”だった。
「……いらっしゃいませ」
楓の声は普段と変わらず、淡々としたものだった。 男は短く頷くと、財布を出し、無言でレジに進む。その動作ひとつひとつが、静かすぎるほどに静かだった。
彼は何も言わず、貼られたメニューにも目をくれず、パンを受け取ってそのまま踵を返す。
楓はその背中を見送りながら、わずかに息を詰めた。 喉の奥で、言葉にならない感情が泡のように膨らんで、消えていく。
やっぱり、また——あなた、だった。 何度繰り返しても、やっぱり。
その心の声は、決して誰にも届かない。
ただ、胸の奥に焼き付いたまま、静かにそこにあった。




