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第2章 潜伏

 #phantomL


 ネットはざわついていた。


 匿名掲示板のスレッドが一晩で百を超え、SNSでは“#phantomL”のタグが急上昇していた。


「これ、また国家系データの流出じゃね?」

「どこの企業? 見覚えあるファイル構造なんだけど」

「#phantomL って何者? 新手のハッカー? 告発者?」


 顔のない“誰か”が、何かを暴いた。断片的なデータ。省略されたPDF。未処理の報告書。画像付きの匿名投稿。


 そこに“目的”は記されていない。ただ静かに、「見てしまった者」にだけ問いかけるような内容だった。


 夜通し画面を見つめていた者もいる。通勤電車で気づいた者もいた。


 やがて、その痕跡にはある名前が結びついていった。


 ——怪盗エル。


 *


 朝六時、楓はパン屋の裏口から静かに鍵を開ける。厨房の空気はまだ冷え切っていて、窓の外は今にも降り出しそうな灰色だった。


 冷蔵庫から取り出した生地をならべ、無音のまま作業が始まる。粉をまぶし、台に置いて伸ばす。湿った布の下で、イースト菌が静かに命を育てる。


 水の流れる音、トングの金属音。静かに立ち上がるオーブンの予熱音。


 パンが焼ける匂いが店内に満ち始めるころ、裏口から店長の安達圭吾が現れた。


「おおー、朝番ありがとな楓ちゃん。助かったわ」


 中肉中背、エプロン姿の陽気な男性だ。世間話が大好きで、厨房でもレジでも話しかけてくる。楓はそれにうまく答えられないながらも、悪くないと思っていた。


「いつもより……早く焼けてるね?」


 楓は小さく頷きながらも手を止めず、棚にパンを並べる。


「ま、手際いいのはほんと助かるけど、うちのパンは朝のドタバタも“味”のうちだからな?」


「……そうですか」


「ってことで、そろそろ開店時間だし、店番お願いしていい?」


 楓はまた頷き、手を拭いてからカウンターへと向かった。


 そこにちょうど、入口の扉が開く音がした。


「おはようさん、今日もあの、あれ、あるかい?」


 老婦人だ。毎朝同じ時間、同じ席に座る。注文も変わらない。


「ミルクフランスですね」


 楓は棚から焼き立てのパンを取り、紙袋に詰めた。最後に小さなラスクを一枚、そっと添える。


「ありがとね。孫が喜ぶんだわ、ここのパン。あんた、不器用だけど優しい子だね」


 楓は何も言わなかったが、その言葉の一つひとつが静かに胸に沁みていった。


 そのあとも朝は続く。


 焼き上がりの時間が重なった近所の人気パン屋と鉢合わせし、客足は目に見えて鈍った。だが、小学生くらいの子を連れた親子が静かにレジに並び、トレイを差し出す。


「ここのパン、やっぱり好き」


 楓の顔は変わらなかった。でも、胸の奥で、微かに熱いものが滲んだ。


 その親子が帰ったあと、レジに残った小銭を何気なく見つめる。


 数十円の釣り銭に、幼い子の手の跡があったような気がした。


 誰かの生活が、誰かの喜びが、このパンに触れていく。その実感が、ほんの少しだけ、楓の呼吸を深くした。


 その後も、いつも通りに時間は流れた。


 電球の明かり、昼の雑音、午後の影。それらが楓の周囲を通り過ぎていく。


 夕方、閉店準備を終えると、彼女は静かに自室に戻った。


 *


 夜。


 楓は自室を抜け、隣室の鍵を開けた。1フロアに2部屋しかない小さなアパート。そのもう一方の部屋が、楓——いや、怪盗エルの本拠地だった。


 若者向けの1DKだったその部屋は、今や完全に改造されている。大型冷却ファンの唸り。壁際に並ぶラックマウント型の演算ユニット。サーバー群のLEDが脈打つように点滅し、常時稼働するクーラーの風がコードを揺らす。


 床にはケーブルが這い、モニターは十数台。異常な熱と稼働音、わずかに焦げたような金属臭。だが、楓にとっては落ち着く空間だった。


 部屋の中央にある作業デスクに腰を下ろし、ノートPCを開く。


『対象候補を五件抽出。K12関連ログの流出元を基点に、省庁および関連研究機関の裏アクセス記録を追跡中です』


「……まだ確証はないの?」


『はい。ですが、あと1分で照合完了します』


 アールの声が静かに室内を満たす。澪の死の先にあるもの。名前すら知らない誰かが握る真実の断片。


 楓の指先は震えていた。ログのダウンロードが完了した瞬間、視界の端にノイズが走る。


 頭痛。鋭く刺すような痛みがこめかみを貫いた。


『楓さん、身体反応値に異常。脳波領域β帯が異常活性しています。原因は——』


「……感情」


 そう。澪の記憶に触れるときだけ、身体が拒絶反応を示す。手が震える。胸が熱くなる。痛みが走る。


『貴女は“感情”に反応することが極端に制限されています。とくに“愛情”や“高揚”に近い感情が活性すると、神経系が過敏に反応するようです』


 それは、あの契約の代償。


「……わかってる」


 感情を捨てた代わりに手にしたこの力は、感情に触れるたびに自分を蝕んでいく。


 だが、それでも止まらない。


 *


「またやられた、だと?」


 国家公安局第七課。


 室内は薄暗く、蛍光灯のちらつきすら気だるく映る。


 鬼島と三國は疲れた表情でデスクに向かっていた。机の上には報告書の束と飲みかけの缶コーヒー、書き殴られたメモと付箋が乱雑に散らばっている。


 まるで混乱と焦燥がそのまま物理化したかのような光景だった。鬼島健太は机に手を叩きつけた。


「三回目だ。K12計画に関する補助金資料、すべて抜かれた」


 三國陽介は冷や汗を拭いながら、タブレットを差し出した。


「ログの改竄はゼロ。侵入経路は不明。痕跡もない……でも、確実に中に入ってます」


「人間のやることじゃない。もうプログラムがバグってるとしか思えない」


 鬼島は顎を撫で、短く吐き捨てた。


「……別部署から応援が来る。“規律の番犬”が」


 三國がぎょっとする。


「まさか……あの男が?」


 三國の声に微かな震えが混じる。その反応を見た鬼島は、一拍置いてから重く言葉を継いだ。


「“規律の番犬”。命令に従い、粛々と追跡し、逃がさない。あの男に目をつけられたら最後、誤魔化しも通用しない。なにせ……人の“嘘”だけじゃなく、心の揺れまで読み取るような男だ」


 三國がごくりと唾を飲む。「名前は?」


「岬。岬 朔弥」


 そう呟いた鬼島の目は笑っていなかった。古傷でも疼くように、口元をわずかに歪める。


「若いのに上からの評価は大変優秀。お手並み拝見といこうじゃないか。今度こそ怪盗エルも年貢の納め時だな」

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