第15章 断層
翌朝。いつものようにパン屋に向かった楓は、店の前で一瞬だけ足を止めた。
昨日の記憶が、足元に影を落とすようにまとわりついていた。佳澄の声、スプレーの霧、スモークの中で消えた岬の姿。すべてが現実感を欠いたまま、胸の奥に沈殿している。
開店準備のためにドアを開けると、すでに店内に入っていたのは佳澄だった。制服姿で、トレイを棚に並べる仕草がどこか板についている。
「おはようございます〜」
笑顔で手を振る佳澄に、楓はいつものように「おはよう」と返す。
それ以上、表情には何も出さなかった。
けれど、心の内では、複雑に入り組んだ感情が渦を巻いていた。あの夜の出来事が夢ではなかった証拠が、いま目の前で笑っているこの人物だという事実が、息苦しかった。
視界の端に映る佳澄の背中。笑い声、トングを取る音、棚を拭く布の気配。 すべてが「普通」を演じていた。
(昨日、私を助けた手と……同じ人間なの?)
あの夜に交わした言葉も、光に照らされたその顔も、今目の前にいる佳澄と重なるようで、どこか食い違っていた。
——信用しない。
けれど、笑顔で働く彼女の姿を見るたびに、どこかでその決意が鈍っていくのを感じる。何が真実で、何が演技なのか。わからないのは、彼女か、それとも——自分のほうなのかもしれなかった。
その線引きだけは、まだ崩さないと決めていた。
そのとき、佳澄がふいに声をかけてきた。
「そういえば〜、昨日レジ横のチョコラスク、全部売り切れてたんですよぉ〜。あれ、意外と人気なんですねぇ」
その一言に、楓の思考が一瞬止まった。
楓は佳澄の横顔を盗み見る。だが、その表情はただ無邪気に笑っているようにしか見えなかった。
まったく関係のない、ただの日常会話。
その声に、楓はびくりと肩を跳ねさせた。
思考の隙を突かれたような感覚に、呼吸が一瞬詰まる。
「……え、えぇ。そう、ですね……」
楓は言葉を返しながら、わずかに身を引いていた。声を出すタイミングを誤ったような感覚と、自分の反応の鈍さが、余計に心の距離を際立たせていた。
佳澄は気づいていないふうで、笑いながら棚を拭き続けていた。
「今日のラスク、焼き目ちょっと変えてますよねぇ〜。……前より、香ばしいかも」
ただの感想かもしれない。でも、楓の手元を“見ていた”ような口ぶりが、また楓の心をざわつかせた。 パンの生地をこねながら、楓は何度か佳澄のほうを盗み見た。彼女は相変わらず、鼻歌まじりに棚を拭いたり、袋を整えたりしている。
楓は「昨日の件、本当にあなただったの?」と尋ねてみたくなる衝動を、なんとか押しとどめた。
そこへ、厨房の奥からひょっこり顔を出したのは店長の安達だった。
「おっはよ〜。お、今日は二人とも早いなぁ。えらいえらい」
佳澄がすかさず声を返す。
「店長こそぉ〜、今日は珍しく紙袋ちゃんと補充してありましたねぇ。やればできる子ぉ〜」
「なにぃ〜、おだてて伸ばす気か? ほら、お返しに今日の目玉、ラスクの包装頼んじゃおっかな〜」
二人の軽口の応酬が交わされるなか、楓は少しだけ離れた場所で静かに生地を整えていた。
その様子に気づいた安達が、ぽんぽんと楓の背中をバシバシ叩く。
「おいおい楓ちゃん、悩み事か〜? 大丈夫大丈夫、なんとかなるなる!」
あまりにいつも通りの明るさに、思わず楓は目を細めた。
その声だけが、現実と仮面の境界を吹き飛ばしていくようだった。
*
仕込みの合間、楓はバックルームに戻ると、作業台の下に置かれた私物のスマート端末を取り出した。
画面をタップすると、見慣れた暗色のチャットアプリが立ち上がる。アールとの通信専用に作ってもらったものだ。
「アール。あの子、信用できる?」
『判断材料が不足しています。それは、あなたが決めることです』
簡潔な返答。だが、それだけがいつも楓を現実に引き戻した。
楓は親指で画面をスクロールさせながら、短く送信を打つ。
「解析のほうは?」
『LF-11に関する照合処理は継続中。新たに解析可能な断片が一件追加されました。今夜中には結果を提示できる見込みです』
楓は一度だけ小さく頷いてから、チャットアプリを閉じ、端末をポケットにしまった。
*
夜。仕事を終えた楓は部屋に戻ると、鞄の奥から私用端末を取り出した。
アールとの対話ウィンドウを開くと、画面上では「LF-11」をキーにした解析が続行されていた。
楓は画面を見つめながら、今日一日の出来事を思い返していた。
佳澄の笑顔。あの軽口。そして、何事もなかったかのように過ごすパン屋の朝。
——そして、岬。
今日は、パンを買いに来なかった。
毎日のように顔を出していたあの男の姿がないことに、気づいてしまった自分に腹が立った。
いない。それだけで、なぜこんなに意識してしまうのか。
自分でも答えが出せないまま、楓は静かにため息をついた。少しずつ復元されていく断片の中で、あるログが目を引く。
澪の名前——そして、そのすぐ下に、別名義で記されたもう一つの名前があった。
“楓”。
「……なに、これ」
どうして関係のないはずの楓の名前がデータに。
『該当データの関連性は不明です。現時点では情報が不足しています』
アールの声は変わらず機械的だった。
楓は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
なぜ澪の記録の中に自分の名前があるのか。偶然なのか、それとも——。
考えようとすればするほど、答えは霧の中に逃げていった。




