第14章 余波
冷たい夜風が頬をなでる。
廃ビルから数ブロック離れた公園のベンチに、楓はうずくまるように腰を下ろしていた。隣には、スプレー缶を無造作にバッグにしまいながら、佳澄がけろりとした顔で座っている。
「……どうして来たの」
楓の声は、かすれていた。スプレーの刺激がまだ残っているのか、それとも別の感情からかは、自分でもわからなかった。
「言ったでしょぉ? ファンなんですよ、怪盗エルの」
にこりと笑う佳澄。
「それに、公安に捕まるエルなんて……見たくなかったし?」
「偶然じゃ、ないんでしょ」
「ん〜、まぁ偶然に見せかけた計画、ってやつ? 誰かにバレるかもしれないけど、アタシ、ちょっとだけ“感知”できるんですよねぇ」
楓が視線を向けたとき、佳澄はいたずらっぽく口角を上げた。
「……って言っても、正式にはもう破棄された扱いだけどぉ。アタシね、LFシリーズの失敗ロットに混ざってたんですよ」
楓の眉がわずかに動く。
「LF……?」
「うん。LF-05。研究記録じゃ“適合性低”ってされて、捨てられた側。だから、今はただの一般人ってことになってるの」
佳澄はわざとらしく肩をすくめて見せる。
「でもさぁ、不思議でしょ? そう簡単に捨てられるわけないんですよ、こういうのって」
楓は佳澄の横顔を見た。明るく無邪気に笑っているように見えるその表情の奥に、何かもっと別の思惑があるようで、目を逸らした。
「……助けられた借りは返す。でも、それ以上は期待しないで」
「はいはーい、承知しましたぁ」
佳澄は口を尖らせたように言いながらも、どこか楽しげだった。
立ち上がる直前、ちらりと楓に振り向く。
「じゃあ、また明日。……バイト、行きますからぁ」
笑ったその声が妙に軽やかで、楓は思わず返事をしかけて、結局何も言わなかった。
佳澄は軽い足取りで去っていった。
楓はベンチにひとり残される。空を見上げても、灰色の夜雲が静かに流れているだけだった。
風の中にまだ少し、あのスプレーの匂いが残っていた。
(本当に……何者?)
感謝はしている。それでも、信用はできない。そんな相手に命を預けてしまった自分が、何より怖かった。
*
公安第七課、臨時報告室。
岬は資料を前に、淡々と報告を続けていた。
「……エルは、逃走時に第三者の支援を受けた可能性が高いです。名称未確認、十代後半から二十代前半の女性。市民データベースと照合中ですが、該当者は複数」
三國は腕を組んでモニターを睨んでいる。
「岬さん、さっきの言葉……“緒方楓”って、あれは確信だったんですか?」
「……限りなく黒に近い灰、というところだな」
「鬼島課長には?」
「まだだ。根拠が足りない」
岬は眉ひとつ動かさずに言い訳を続けた。淡々と、しかしどこか自分に言い聞かせるような口調で。
三國はしばらく黙っていたが、ふいにぽつりと呟いた。
「……仮にですよ。仮に本当に“あの”パン屋のお姉さんだったら、どうするんですか」
三國は、パン屋で一度だけ挨拶を交わしたときの彼女の笑顔を、ふと思い出した。あれが本当に怪盗エルなのだとしたら——そんなはずはない、と感情が先に反発した。
岬は答えなかった。その沈黙が、否定でも肯定でもなく、ただ重く会議室に落ちた。
報告を終えたあとも、岬はモニターのログを無言で見つめていた。
“怪盗エル=緒方楓”
感情では、もうとっくに確信していた。それでも、証拠が足りない。
——本当に、あのパン屋の静かな店員が?
画面には防犯カメラの低解像映像が映っていた。マスクとフードで覆われたその姿は、どこか楓の仕草に似ていた。
「……君が、あのときの」
岬は小さく呟いたが、それ以上の言葉は続かなかった。 あの夜、建物裏手の壁際で自分が押さえ込んだときの感触が、不意に手のひらに蘇った。 近すぎる距離。逃げようとする体温。戸惑いと緊張が混ざった楓の瞳。
その記憶に、思わず頬が熱くなる。だがそれを振り払うように、岬は目を伏せて息を吐いた。
*
楓の部屋。コードが唸り、冷却ファンが回る。
髪を結び直そうとした瞬間、ふと、手首に残る感触が蘇る。あの夜、岬に壁際で押さえつけられたときの記憶。
背中が硬い壁に押しつけられ、逃げ場のない距離にいた。岬の手が自分の手首を押さえていたのはほんの数秒だったはずなのに、体温と鼓動だけがやけに鮮明に残っている。
あのとき岬は何を見ていた? 何を思っていた? 楓の心拍が、意識せず早まる。
なんであんなに近かったんだろう。
頬がわずかに熱を持つ。自分でも驚くほどに。
『表情温度上昇。顔が赤いようですが——』
「うるさい」
楓は無理やり椅子を引き寄せ、モニターの前に座った。
アールの音声が静かに響いた。
『先ほどの逃走行動について。青野佳澄の介入経路が特定できません。彼女のGPS、通話記録、視線履歴……すべてのログが“上書き”されている形跡があります』
「上書き……?」
『外部操作の痕跡もなく、自然なログ改ざん。現時点で技術的説明は困難です』
楓は沈黙した。
スモークの中から差し伸べられた佳澄の手の温度が、まだ指先に残っている。
(敵か、味方か。それとも——)
アールの音声が続く。
楓は椅子に浅く腰かけたまま、のろのろと手を伸ばし、操作パネルに指を滑らせた。呼吸は落ち着いているはずなのに、胸の奥が妙にざわついていた。
『本題に移ります。先ほど取得した中継ログの断片から、澪さんのファイル構造と一致するデータ群を発見しました。関連ファイルへの復元プロセスを開始します』
モニターに広がる断片化された構文。
そこに現れた文字列のひとつ。
——「LF-11」。
楓の心臓が、静かに一度跳ねた。
「……これが澪のコードネーム」
『はい。再確認しました。対象実験記録ログとの一致率97.8%』
モニターの前で、楓の拳がゆっくりと握られる。
「もう少し……もう少しだけで、届く」
その瞬間、楓の脳裏に佳澄の言葉が蘇った。LF-05。——LFシリーズ。
ハッと息を呑む。
「そういえば……」
佳澄も、LFシリーズの一人だと言っていた。もし本当に澪と同じ計画に関わっていたのだとしたら——彼女は、あの実験についてもう少し何かを知っている可能性がある。
偶然助けに来た? 感知できる? ……本当に、ただの“失敗ロット”なの?




