第13章 潜入
楓は自室を抜け、隣室の鍵を開けた。
モニター群の明滅は以前と変わらず規則的で、冷却ファンの唸りとともに部屋を満たしている。何度も見慣れたはずのその光景が、今夜はほんのわずかに重たく感じられた。
怪盗エルの“拠点”として改造されたその部屋は、彼女自身でさえ「アジト」と呼ぶには少し照れくささを感じていた。
だが、ここだけが、自分の感情を封じ込めずにいられる場所だった。
楓は大量のモニターの前に座り、アールが解析した情報を確認する。
「このデータは……オフライン機器?」
アールの音声が無機質に響く。
『はい。対象の研究施設内部の端末は、外部ネットワークと完全に遮断されています。遠隔からの侵入は不可能。アクセスには、物理的な中継機器の設置が有効です』
「中継……つまり、直接行くしかないってこと?」
『その通りです。リスクは高くなりますが、澪さんの最終ログに関連するファイル群がその中にある可能性は極めて高い』
モニターに映し出される施設構造は、いくつかの出入口と分かりやすい廊下配置を持つ旧型の研究施設だった。防犯パターンは単純で、巡回警備員とカメラが要所を見張っているが、時間帯によって死角が生まれる作りになっている。
楓は、静かに息を吐いた。
「……行くしかないか」
楓はモニターから視線を外し、ゆっくりと椅子にもたれかかる。目を閉じると、鼓動が静かに強くなっていくのを感じた。
『念のため確認します。契約者である貴女が、現場に直接出向くという選択は、感情刺激による不安定性を招く恐れがあります。中止を勧告する選択肢も——』
「無理。誰かに頼めることじゃない」
楓の声は低く、しかし揺らがなかった。
『……感情値、通常域を超過。ですが、抑制ラインには接触していません。覚悟を認定』
「作戦プラン、お願い」
『承知しました。ルート、カメラ死角、警備シフト、すべて反映済みです』
楓は静かに立ち上がる。薄手の黒いジャケットを羽織り、髪をひとまとめにしてフードの奥に隠した。
「アール、準備。装備と搬送ユニット、最短ルートの確認も」
『了解。移動ルートと機材構成を再確認します。三十分後に出発可能です』
楓は一度だけ深く息を吐き、指先で机を軽く叩いた。
『楓さん。ご武運を』
「縁起でもない」
*
夜。工場地帯の一角にある廃ビルに、黒い影が滑り込む。
影は、人影。
黒のパーカーにマスク、深くかぶったキャップ。背には細身の通信ユニットと干渉デバイス。
楓——怪盗エル。
“彼女”がリアルに動くのは、実に数ヶ月ぶりだった。
空気が違う。息が冷える。肺が熱くなる。
だが、それすらも自分の感情として受け止めきれない自分がいた。
(行く。これは、必要なこと)
施設の裏手。警備の巡回がちょうど反対側へ回るタイミング。
楓はコンパクトなリレー装置を取り出し、換気ダクトの基部に接続する。
『接続開始。ログ信号送信中』
「早く終わらせたい……」
『あと3分、待機してください。現在、セキュリティログを中継回線で誘導中』
楓が壁際に身を伏せたときだった。
「——やっぱり、来たか」
背後から、男の声。
楓は即座に跳ねるように振り返った。
岬朔弥。
暗がりの中に、確かな輪郭と声の熱。
「まさか……ここまで嗅ぎつけてるなんて」
「お前が分かりやすかったのかもな」
岬は一歩、楓に近づく。楓は一瞬だけ迷う素振りを見せたが、すぐにダクトから離れ、身構えた。
「ここで捕まるわけにはいかない」
「話がしたいだけだ」
「話すことなんてない」
「怪盗エル——いや、緒方楓」
一瞬、胸の奥に冷たい衝撃が走る。名前を呼ばれたこと。それだけで、頭が真っ白になるほどだった。
自分の正体を突きつけられる恐怖——ではなかった。
それは、今の“自分”と“かつての自分”の境界線を暴かれるような感覚だった。
楓は瞬きをひとつだけして、感情を飲み込んだ。今は揺れてはいけない。顔は隠している、大丈夫だ。
「……」
「確認はまだだ。でも、お前が誰か、ずっと考えてきた」
岬の目は、楓ではなく、楓の“決意”を見ていた。
「君を敵にしたくない。手遅れになる前に、止まってほしい」
「……止まれたら、どれだけ楽かって、思うけど」
楓はかすかに息を吸い込む。視界の端に、過去の澪の面影がにじんだ気がした。
「無理。私は……止まれない」
その一言に、岬の表情がわずかに揺らいだ。
楓はその隙を見逃さなかった。踵を返すと、建物の陰へ走り出す。
「待て!」
岬もすぐさま後を追う。舗装のひび割れた通路を走り抜け、パイプの並ぶ裏路地に滑り込む楓。だが、足音はすぐ背後まで迫っていた。
鉄製のハシゴを蹴って昇ろうとした瞬間、背後から腕を掴まれる。
「逃げるな、楓!」
「離して……っ」
揉み合う体勢の中、岬が押し倒す形で楓を壁際に押し留める。その目は決して怒っていない。むしろ、何かを訴えるように揺れていた。
「君が何をしようとしてるか、まだ全部は知らない。でも、独りで背負い込むな」
言葉に反論できなかった。けれど、納得などしていない。
(……あなたに、何がわかるの)
叫びたかった。でも声にならなかった。
岬の目に、自分の弱さまで見透かされているような気がして、腹立たしかった。
——このままでは、捕まる。
そのときだった。
「おっと、お兄さん。こっちは通行止めですよぉ」
背後のコンテナから、明るい声。
その直後、岬の視界が一瞬ぶれた。頬にかすかな刺激——次の瞬間、目元に冷たい何かがかかった。微細な噴霧。香料でも催涙でもないが、目を開けていられないほどの刺激だった。
「っ……!」
振り返ると、そこに立っていたのは——
「……青野佳澄?」
楓もスプレーの刺激に目を細め、袖で涙を拭う。スプレーを手にした佳澄が、コンテナの影からひょいと姿を現した。
「言ったでしょ? 私、怪盗エルの大ファンなんですよぉ?」
「なんで、お前が——」
「うふふ、それは内緒ですっ☆」
佳澄の足元からスモーク弾がもうひとつ転がり落ち、濃い白煙が足元から立ち上る。瞬く間に視界が覆われ、岬の目の前から楓の姿が掻き消える。
岬は手探りで前に出ようとしたが、もうそこには誰もいなかった。
彼は拳を固く握りしめ、白煙の中で一歩、地面を踏み鳴らす。
「……ちくしょう」
感情を表に出すことが少ない彼にしては、珍しい苛立ちだった。




