第11章 侵食
「えへへ〜、誘われちゃいました」
佳澄はレジ裏で制服の袖をいじりながら、悪びれもなくそう告げた。話題に出さないでおこうと思っていたはずのその言葉に、楓の手がピタリと止まる。
「……誰に?」
聞かなくても分かっていた。だが、それでも言葉にしてしまった。
「岬さんですよぉ〜。こないだラーメンの話してたら、今度おすすめの店行きましょうって」
屈託のない笑顔で語る佳澄の横顔を、楓は無表情で見つめた。心の奥底がざらついている。感情というものを捨てたはずの体が、まるで勝手に熱を帯びていく。
(……なんで、こんなに)
夜。店のシャッターを閉めると同時に、楓は厨房奥のロッカーへ急ぐふりをして裏手に出た。あのあと、佳澄が「じゃあ行ってきまーす♪」とウキウキ出ていくのを、黙って見送った。
でも、足が勝手に動いた。
ロッカーから帽子とコートを取り出し、深く被ってから店を出る。顔が見えないように、歩幅を抑えながら路地へ回り込んだ。
距離を取って、尾行する形になった。
人気の少ない夜の交差点、佳澄が待っていたのはやはり岬だった。背筋を伸ばして近づく姿、その手の角度、その声。
——それは、記憶の中の「彼」と何ひとつ変わらなかった。
楓は路地の陰に身を隠しながら、冷たい壁に指をあてがった。
(あんな声、聞いたことない)
笑っている。二人とも。
楓の胸に熱がこもる。頭の芯がぐらりと揺れる。
そのとき、ふと岬の視線が楓の方を向いた。
彼女は瞬時に身を翻したが——遅かった。
「……ええっと、楓さん、ですよね?」
見つかった。
声は、あくまで穏やかだった。それがかえって、心に痛かった。
「そんなところで何を……?」
岬は表情を変えずに数歩近づいてくる。その目が、どこか引っかかるように楓を見ていた。まるで、かすかに残る記憶をなぞるように。
忘れているはずなのに。もう、全部リセットされたはずなのに。
(やめて、その目)
楓は俯き、深く帽子を被るようにして逃げるように立ち去った。
走り出す背中を、岬は追わなかった。
*
深夜。店の厨房に戻った楓は、エプロンを結び直した。
誰にも見られないように、涙を流した。
そして、無言でパンをこね続けた。
指先の動きに集中していなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。
*
数日後、ひとりの男がパン屋を訪れた。
「こんにちは、あれ、今日はミルクフランスってありますか?」
軽い口調、シャツの袖をまくった飄々とした青年だった。髪はゆるく巻かれ、視線は柔らかく、だがどこか掴みどころがない。
「ありますよ」
楓がトングを取りながら答えると、男は嬉しそうに頷いた。
「いつも祖母が買ってきてくれるんだ。久賀貴道っていいます、また来るかも」
——祖母。思い当たる老婦人の顔が浮かぶ。
「あの……よく来てくださる方、ですね」
「そうそう、あれだけ買っていれば常連にもなるよね」
どこか懐かしげに笑う彼に、楓は警戒を解かないままレジを打った。
その直後、彼がふとつぶやいた。
「この店、二度目な気がするなぁ。いや、三度目……いや、変だな。初めてのはずなのに」
楓の手が止まる。
「……前にも来られました?」
「ううん。déjà vu、ってやつかな。あります? あなたは」
久賀の笑顔は変わらない。
(ループ……?)
警戒が走る。彼が何を知っているのか。
そこへ店長の安達がバックヤードから顔を出した。
「いらっしゃいませー、ってあれ? お、新顔さん?」
「はい、今日が初めてで」
「楓ちゃん、対応ありがと。……あ、ミルクフランスって、もしかして例の常連さんのお孫さん?」
久賀が軽く頷いた。
「そうみたいです。今まで祖母が来てたみたいですね」
安達は「あー、それでか」と納得したように笑った。
「いやあ、なんか雰囲気似てると思ったんだよ。朗らかなとことかさ」
「僕自身はまだパン詳しくないんですけど……ここ、何か居心地がよくて」
「でしょ? そういう店を目指してるんだ」
二人のやりとりはごく自然だった。だが、楓はその空気に、ほんのわずか置いていかれるような感覚を覚えた。
違和感というには小さい。けれど、胸の奥が波打つような、そんな疎外感だった。
*
閉店後、楓はPCの前に座り、指を伸ばした。
アールの声がスピーカーから落ちる。
『監視カメラの再生ですね?』
「……うん」
『どのポイントを優先しますか? 岬と佳澄が待ち合わせしていた駅前広場の監視カメラですか? あるいは、交差点近くのコンビニ前、もしくは……楓さんが尾行していた際の路地裏?』
アールの声は機械的だが、どこか試すようなニュアンスが混じっている。
楓は迷った。どれも、あの夜に繋がっている。
「……駅前広場。待ち合わせの」
その映像を見たところで何になるのか、自分でも分からない。それでも、見ずにはいられなかった。
だが、再生ボタンを押す前に手が止まった。
(……見てどうするの)
また、同じことを繰り返している。わざわざ痛む心を、確かめるように覗き込んで。
『自分自身の行動が信じられない、そんな顔ですね。』
モニターに表示されたウィンドウ越しに、アールが問いかける。
『それは、嫉妬というやつですか? 自分から他の女を差し向けておいて、不思議ですね』
「……うるさい」
画面を閉じる。音が途切れる。
『私の記憶には“前回のループ”に関する明確な記録は存在しません。しかし、傾向分析から言えば——恋に落ちてはいけない。怪盗エルとバレてもいけない。今回の“ダミー”は、戦略的には完璧です』
楓は返事をしなかった。返せなかった。
楓は両手を膝の上で握りしめた。
もう、どこへも行けない場所にいる気がした。




