第1章 喪失と契約
『その代償を差し出すなら、その力を与えてやってもよい』
その女神は、突然現れて楓にそう言った。
「代償……?」
『選べ。お前が持つ最も人間らしい感情のひとつを差し出せ』
楓は目を伏せた。
浮かんだのは、澪の声と、笑顔。
「恋……」
そのために、楓の考える最も不要な感情を。
『……それを差し出すというのか。面白い。本当に、それでいいのか』
楓は考えた。今の楓を動かしているのは、悲しみであり怒りだ。それを渡すわけにはいかない。
「必要ないって、思ったんだ。私は」
『ならばよい。契約、成立』
世界が剥がれた。
*
妹の澪は、よく笑う子だった。
「……楓? 偶然」
その日は春の終わり。楓が仕事を終えて駅へ向かう途中、ふと見慣れた姿が目に留まった。駅前のベンチで、澪がひとりカフェラテを手に座っていた。夕焼けが高層ビルの隙間から差し込んで、彼女の髪にオレンジ色の縁を描いていた。
「ねえ、聞いて。またフラれちゃった〜」
澪が気づいて手を振る。楓は軽く頷いて、隣に腰を下ろした。
「また?もう何人目?」
「5…6?」
「懲りないね」
「恋に懲りてたら、人生つまらないでしょ?」
澪は笑った。その声に、ほんの少し、寂しさが混じっていたように思えた。
「……楓ってさ、ほんと喋らないよね」
「喋らなくても、通じることはある」
「でも、伝わらないこともあるよ?」
そのときの澪の笑顔は、春風みたいに柔らかくて、どこか儚げだった。
*
澪が選ばれたのは、その年の初夏だった。
国家主導の次世代育成プログラム。共感力や直観力を基準とする新型選抜方式で、澪は学部内でも注目されていた。
だがその三ヶ月後。
澪は自室で倒れていた。
「精神不安定による自死」——そう報告された。
警察も、病院も、大学も、あらゆる機関がそう言った。
だが楓は、信じなかった。
澪は前夜、メッセージを残していたのだ。
《明日、パン屋のクロワッサン食べたいって話してたのに、忘れないでよ〜》
それが、記録上最後のやりとりだった。
葬儀が終わった夜、楓は自室でPCを開いた。次の日からはベーカリーの勤務が再開される。でもそれより先に、澪の死の真相を追うことが、楓の中で当然のように優先された。
大学、研究機関、選抜プログラムの管理部局。公式サイトにアクセスし、公開されている被験者登録システムに澪の名前を打ち込む。最初は記録が残っていた。だが、アクセスするたびに一部のログが削除され、ページのキャッシュが薄れていくのがわかる。
「……誰かが消してる」
それは、直感だった。
何者かが、澪の存在を“なかったこと”にしようとしている。本人だけでなく、プログラムそのものを、無かったものとして処理しようとしている。
その事実が、楓の胸を締めつけた。
静かに、でも確かに——怒りが湧いた。
澪を失ったことに涙を流す暇もなかった。その死を、誰かに踏みつけにされているという現実が、喉の奥を焼くような憤りに変わっていく。
「なんで……」
楓はひとり呟いた。何に対してでもなく、ただ、誰にも届かない場所へ投げるように。
「なんで、いなかったことにできるの」
打鍵の手が止まる。画面には“アクセス不可”の文字が並ぶ。手を尽くしても、削除されたログは戻ってこない。
無力だった。確かにそうだった。指先はまだ動くのに、目の前の証拠はどんどん霧の中に消えていく。
自分は何も守れなかった——そう突きつけられているようだった。
*
雨が降っていた。小雨ではない。叩きつけるような音を立てる、本降りだった。
傘を持っていなかった楓は、そのまま歩き続けた。目的もなく。ただ、静寂を探すように街をさまよっていた。
坂の途中、かつて神社があった場所に差し掛かった。数年前に取り壊され、今では雑草と錆びた柵があるだけの、忘れ去られた土地だ。
だが、そこに——朱色の鳥居が立っていた。
「……幻覚?」
目を凝らしても、そこにある。触れると、木の感触すらあった。
奥へと足を踏み入れる。湿った土の匂い。風が吹いていないのに、耳元でささやくような音。
『すべての真実を得る力が欲しいか』
空間そのものが震えた。音ではない。言葉でもない。思考の隙間に差し込まれるような“意志”だった。
『その代償を差し出すなら、その力を与えてやってもよい』
「代償……?」
『選べ。お前が持つ最も人間らしい感情のひとつを差し出せ。悲しみでも、怒りでも、恐怖でも構わぬ。だが、強く根を張ったものほど、より深く力を引き出す』
楓は目を伏せた。
浮かんだのは、澪の声と、笑顔と——恋。
誰かを好きになることも、誰かに好かれることも、自分には無縁の感情だった。
「恋……」
『……それを差し出すというのか。面白い。だがそれは、虚無から生まれる決断ではないか? 本当に、それでいいのか』
楓は考えた。今の楓を動かしているのは、悲しみであり怒りだ。それを渡すわけにはいかない。
「必要ないって、思ったんだ。私は」
『ならばよい。契約、成立』
世界が剥がれた。
視界が反転し、時間が止まり、空が数式のように分解されていく。音が遅れて届く。重力の感覚すら消え、すべてが記号に還元されていった。
そして、再構成される。
『その力は、お前に扉を開かせる。だが、心せよ。恋を知った瞬間、お前の世界は壊れる』
楓は頷いた。
「それでもいい」
*
翌朝。
パン屋の仕込みが始まる前、バックルームでノートPCを立ち上げた。手は震えていない。楓は静かにログイン操作を行い、K12研究班の閉鎖サーバーにアクセスした。
昨日まではアクセス拒否された画面が、今日はあっさりと開いた。
セキュリティはなかった。むしろ、彼女のアクセスを歓迎するように扉が開く。
「……これが、“力”?」
そこに記された彼女の記録。感情応答、精神評価、薬物投与、異常検知ログ、診断記録。
削除されたはずのログがすべて、そこにあった。
楓は黙ってそれらを複製し、暗号化し、ネット上の分散サーバーに転送した。
誰かが見るかもしれない。誰かが知るかもしれない。それで十分だった。
「これが、私の代償で得たものなら——」
楓はウィンドウを閉じた。
そのときだった。画面が一瞬、ノイズのように揺らめいた。
『おはようございます。初回起動を確認しました』
無人の室内に、機械的なのにどこか柔らかい声が響いた。楓は反射的に手を止める。
「……誰?」
『私はあなたに割り当てられた支援AIです。開発ナンバーはR-α11、略称“アール”。名称登録は未設定ですので、仮にそうお呼びください』
「AI……?」
『正確には、未来から転送されたプロトタイプです。この時代のセキュリティ仕様では、貴女のような契約者と同期して行動することが最も合理的です』
言っていることがよく分からない。ただ、その存在が異質なものであることだけは確かだった。
「あなたが、“力”?」
『力とは概念です。私は道具です。貴女の目的に従って最適行動を選びます』
『なお、削除されていたログ群の復元も私が行いました。過去に失われた情報の多くは既に再構築済みです』
画面の中に、図面のようなインターフェースが浮かび、未解読のデータ群が流れ出す。
『楓さん。これから貴女が暴くものは、貴女自身の心を試すことにもなるでしょう。準備はよろしいですか?』
「……勝手に進めないで。私はただ、澪のことを……」
『ええ。記録、すべて読み込み済みです』
その声は機械のもののはずなのに、どこか優しく聞こえた。楓は静かに、再びPCに手を伸ばす。
「……いいわ。やって」
『心得ました。貴女と私とで、この世界の真実を盗み出しましょう。この時代風に古風な言い方をすれば……怪盗、ですね』
楓は笑っていった。
「この時代にしたって、随分と古風な言い回しよ、怪盗アール」
『了解しました、怪盗エル。起動します』