プロローグ
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瓦礫の海が広がっていた。
ひしゃげた鉄骨が空に突き刺さり、崩れ落ちたコンクリート片が山のように積み重なっている。
まるで大地が嘔吐したかのような無秩序な光景。
壊れた冷蔵庫、泥まみれの布団、ランドセル……本来ならば生活を彩っていたはずのものが、ひび割れたアスファルトの上に無惨に打ち捨てられていた。
風が吹けば、何かが崩れるような音がどこからか響く。
音のした先には、女が居た。
その女は、ひと目でただの人間ではないとわかる、特有の気配をまとっていた。
肌は雪のように白く、深紅の双眸は、まるで燃えるルビーのよう。
白銀の髪は肌の色よりもなお眩く、貴金属の輝きを思わせる。
「一人にさせてくれる?」
「見慣れない光景を見てショックを受けたか。なに、すぐに慣れる。いずれこの光景が物質界全体に広がるのだからなぁ。フゥーッハッハッハッハッハッハッハッハ!」
隣に立つ男の不快な声が、耳の奥を刺すように響いた。
女は、その下品な高笑いに思わず眉をひそめる。
――今すぐにでも耳を塞ぎ、この男の声の届かない遠い場所へ消え去ってしまいたい。そう女は強く願った。
しかし、この男を無碍にすることも出来なかった。
女が世間を知らない、世の汚れを知らない、箱入り娘だったから。
男の本性を知らないまま、周りに言われるがままに、婚約してしまったから。
「どうしてこんなひどいことを出来るの」
「フゥーッハッハッハッハッハッハッハッハ! 愚問だな、我が婚約者よ。出来るからやるのだ。まずは侵略し、興が乗れば支配者としてこの地を管理してやってもいい」
――気持ち悪い。
この男の吸って吐いた後の大気の中に居る事さえ、気持ち悪い。
息をするたび、腹の中をぎゅっと掴まれているような不快感がして、思わず口を手で押さえる。
「失礼するわ」
「おや、少し刺激が強すぎたかな」
女は、男に背を向けて足早に駆け出す。
吐くために、いいえ、逃げるために。
しばらく走っていると男の姿が見えなくなり、ようやくほっと息をついた。
目の前には依然として瓦礫の山が広がっていた。
ポタ、ポタ――。
瓦礫の先端から滴り落ちる赤い雫が、地面に血だまりを広げていた。
ゴメンナサイ。
女はその惨状に、思わず顔を伏せた。
そうして歩いていると、およそ生命の気配を感じられない廃墟の中、赤ん坊の声が聞こえた。
周りを瓦礫に囲まれる中、その赤ん坊は奇跡的に無事なようだった。
女は赤ん坊を抱きあげようとした。
そこでふと、自らの手がこの世界の物質に触れられないことに気づく。
赤ん坊に触れるためには、自らの身体組成をこの世界の物質に組み替える必要があった。
女にとってそれは難しいことではなかった。
児戯にも等しい、物心ついた頃には自然と出来たことだった。
赤ん坊へと伸ばした手の指先に、何かが触れる。
それは赤ん坊の手だった。
握ると壊れてしまいそうな、小さな手だった。
女は驚いた。
まだ自らの手の身体組成を組み替える前だったから。
この世界の物質ではない、アストラル体と呼ばれる身体組成のままだったから。
赤ん坊に握られた指先が、この世界の物質、マテリアル体へと変質するのを感じる。
指先から始まった組成の変化が、徐々に全身にまで広がっていく。
何故、この子にそんなことが出来る?
自らの身体組成ならいざ知らず、他人の組成を組み替えるなんて。
疑問に思ったけれど、今は考えるより他に優先すべきことがあった。
放っておいたら、きっとこの赤ん坊は生きられない。
小さくて可愛らしい、繊細で柔らかく、そして温かい手。
握り返すと、赤ん坊はきゃっきゃっ、と笑い声をあげた。
目の奥から熱いものがこみ上げる。
女は赤ん坊を抱きあげると、静かに決意した。
罪滅ぼしにもならないかもしれないけれど、数えきれないほどの命を奪っておいて、今更一人を救ったところで何も赦されはしないけれど、この小さな命の灯だけは、護ってみせると。
ここまで読んでくれて、ありがとう。
あなたの今日が、笑顔と幸運に包まれますように。
素敵な一日になりますよう、心から願っています。