鍵を忘れた日
その日は、朝からよく晴れていた。
春先の風はまだ冷たかったが、久しぶりに陽が差した空に、洗濯物がよく乾きそうだと、彼は思った。けれど洗濯物を干す理由がないまま、石田亮はひとり、公園のベンチに座っていた。
時計は見なかった。代わりに、空の色が夕方に近づいていることだけがわかる。木々の影が長く伸び、少しずつ空気が湿ってくる。人影はまばらで、子どもたちの声ももう聞こえない。
──今日もまた、誰とも話さずに終わる。
そんな日が、何日続いているのか、自分でももう数えられなくなっていた。
顔を上げると、いつの間にか薄雲が空を覆っていた。風に混じって、かすかに雨のにおいがする。春の雨はまだ冷たい。だが、それもいい、と亮は思った。
鞄も持たず、スマホの電源も切ったまま。歩き出した足は、行き先を知らなかった。けれどどこかへ行かなければならない気がして、亮はただ歩いた。商店街を過ぎ、住宅地の坂を抜け、細い路地を曲がる。息が切れ、膝がわずかに痛んだが、それも彼にはふさわしく思えた。
そうして辿り着いたのは、街の外れのような場所だった。
通い慣れた町のはずなのに、ここにこんな道があっただろうか、と訝しく思いながら、さらに奥へ進むと、古い木造の建物が現れた。
控えめな灯りが滲む看板には、柔らかい文字でこう書かれていた。
──「月夜ノ猫亭」
その上に、一匹の猫が座っていた。灰色と黒の入り混じった短毛の猫。耳に小さな切れ目があり、目つきも鋭い。けれどその視線には、どこか懐かしさが宿っていた。
亮は一歩踏み出した。猫は動かない。ただ、じっとこちらを見ている。その無言の瞳に、背中を押されるように、彼は扉に手をかけた。
ちりん。
鈴の音が、乾いた空気にしずかに鳴った。
店内には、柔らかな木の香りと、深煎りのコーヒーの香ばしさが漂っていた。低いジャズピアノの音が、時折ノイズと共に流れている。照明は落ち着いていて、棚には猫の置物と古書が並んでいる。
カウンターの奥には、ひとりの人物が立っていた。
黒いシャツ、白いエプロン、穏やかな輪郭の中性的な顔。年齢も性別も判然としない。だが、その瞳だけが、どこか人間離れした静けさを宿していた。
「いらっしゃいませ」
その声は、誰かの夢の中で聞いたような、微かな安らぎを帯びていた。
「……営業、してるんですか?」
亮の問いに、マスターは小さく頷いた。
「はい。雨が降る前に、どうぞ」
亮は返事をする代わりに、扉を静かに閉じた。
外では、ぽつり、とひとしずく。雨が降り始めた。
「お好きな席へどうぞ」
そう促されて、亮は奥の窓際の席へと向かった。雨が細くガラスを叩く音が、店の静けさをより深くしている。
席に腰を下ろすと、木の椅子がわずかに軋んだ。身体の力が抜ける感覚があった。何も話さなくてもいい、何も考えなくていい。そんな場所が、本当に存在するのだと、初めて知った気がした。
マスターが静かに歩み寄ってくる。
「ブレンドでよろしいですか?」
亮は頷いた。言葉にするのが惜しいほど、空気が静かだった。
やがて、カップとソーサーが目の前に置かれる。立ちのぼる湯気と共に、どこか懐かしい香りが漂った。酸味を抑えた、優しい香り。遠い記憶のどこかで嗅いだことがある気がする。
カップに手を伸ばそうとしたとき、不意に足元に何かが触れた。
見ると、灰黒色の短毛猫が、するりと椅子の下から現れた。鋭い目つき、耳にかすかな切れ目。まるでこの店の番人のような風格がある。
「……なんだ、おまえ」
亮は呟く。猫は返事をせず、ただ彼の足元でくるりと回ると、膝に飛び乗った。
重さと、ぬくもり。
思わず身体がこわばる。それでも猫は動じない。彼の膝に収まり、ぴたりと動かなくなる。
その毛並みの感触──どこか、知っている。
脳裏に一匹の猫が浮かんだ。子どもの頃、家で飼っていた猫だ。灰色で、気まぐれで、けれど夜になると必ず彼の足元に寄ってきた。名前は……なんだったか。
チャコール。
その名が心に浮かんだ瞬間、猫が小さく「にゃ」と鳴いた。
──記憶なんて、勝手なものだ。何年も忘れていたくせに、こんなときに限って、はっきりと蘇る。
「この子の名前はチャコールですよ。可愛いでしょう」
同じ名前、こんな偶然があっていいものなのか。
亮はふと、カップを口元に運んだ。
苦みとぬくもりが、同時に胸に染みてくる。体がゆるみ、まぶたが少し重くなる。
誰も自分を責めない場所。誰も過去を追及しない時間。
こんな店があるなら、もっと早く知っていれば──
そう思った瞬間、自分の中に巣食っていた“何か”が、静かにざわめいた。
「……先生って、失敗しちゃいけないんですか?」
マスターの声が、すぐ近くから聞こえた。
一瞬、言い返そうとした。だが、できなかった。
亮の胸に、釘のようにその言葉が刺さっていた。
チャコールはまだ、彼の膝の上で動かない。ぬくもりだけが、静かに寄り添っている。
亮は視線を落としたまま、答えずにいた。店内は変わらず静かだった。聞こえるのは時計の針の音と、窓をかすめる雨の音だけ。
「……子どもが、不登校になったんです」
その一言は、まるで錆びついた扉がきしむような声だった。
「うちのクラスの子でした。いじめに気づけなくて……いや、気づいてた。たぶん、ちゃんと見れば、気づけた。けど、気づかないふりをした」
喉が乾いていた。けれど、コーヒーには手を伸ばせなかった。
「保護者にどう説明するか、とか。同僚の目とか、うまく立ち回ることばかり考えてた。情けないくらいに。……俺は、教師なのに」
チャコールが、静かに尾を揺らした。
「その子は、ある日突然、学校に来なくなって……俺はただ、それを報告して、資料を書いて、あとは“処理”した。俺の心の中でも、その出来事を、“処理”して終わりにしたつもりだった。でも……」
声が震える。
「終わってなかったんです。ぜんぜん。夜になると、その子の席が目に浮かぶ。誰も座っていないのに、そこだけ空気が重くて……俺がそこを空けたまま、何もできずに逃げたって、ずっと思ってる」
雨の音が一瞬、強くなったように感じた。
「逃げたんです。俺は。目をそらして、仕事の手順に流されて、“間違いを認めない”ことで、責任から逃げた。……最低の教師です」
そのとき、チャコールがふいに動いた。
亮の膝から立ち上がり、テーブルの上へと跳び移る。そのまま、じっと亮を見つめていた。
鋭い目。だけどそこには、咎めるような色はなかった。ただ、静かに「聞いている」とだけ語っていた。
「わかってたんです、本当は。声をかけるだけで救えたかもしれなかったって。……わかってたのに、怖くて、動けなかった!」
言葉が、突如としてあふれた。
胸をつかまれるような痛みが、こみ上げてくる。
「その子にとって、教室は地獄だったかもしれないのに……俺は“居場所”だと思い込んでた。教師が守ってるんだから、大丈夫だって。……思い込みたかっただけだ」
カップの中のコーヒーは、もう冷めていた。
それでも亮は、視線を外さなかった。チャコールの目も、マスターの瞳も、どこまでも静かだった。
「……最低の教師ですよ、俺は」
それは、亮の口から出たはずの声だったのに、どこか遠くの誰かが呟いたようにも聞こえた。
沈黙が、再び店を満たす。
だがその静けさは、今度は冷たくなかった。少しだけ、やわらかくなっていた。
++++++++++++++++++++
翔太は、細身で、声の小さな子だった。いつも教室の端で、一人で本を読んでいた。周りの子と積極的に関わるわけではないが、無理に距離を取っているわけでもなかった。そう見えたのは──亮がそう“思いたかった”だけかもしれない。
朝、翔太のランドセルが教室にあっても、姿が見えないことがあった。昼休みに給食を残す日が増えた。上履きが濡れている日があった。ノートに落書きがされていた日もあった。
「ちょっと気にしてみます」と、亮は職員会議で答えた。
けれど、それきりだった。
──“いじめ”と呼ぶには、証拠が足りなかった。
──“いじめ”と断じるには、自分の立場が揺らぎそうで怖かった。
翔太はある日を境に、学校に来なくなった。
保護者と電話で話し、連絡帳にプリントを挟み、担任としての“必要な対応”はした。報告書も書いた。管理職からのヒアリングにも答えた。職務上のミスはなかった。
けれど──ある日の夜、ふと机の引き出しを開けると、そこに翔太からのメモが挟まっていた。
──「先生は、なにも言わないけど、ぼくは、たすけてって言ってもよかったですか?」
その筆跡は、あまりにも幼く、震えていた。
読んだ瞬間、亮は吐き気がした。椅子に座ったまま、天井を仰いだ。音のない世界が、突然耳に押し寄せてくる。
「……助けて、って言わせなかったのは、俺だ」
それが、唯一の真実だった。
翔太は学校に戻ってこなかった。家庭訪問は断られ、連絡も徐々に途絶えていった。学校という場所が、その子の人生から“失われた”という現実だけが、記録に残った。
だが亮の記憶の中には、あの子が座っていた席の匂いも、机の中に入れていた色鉛筆の並びも、ノートに描かれていた小さな宇宙船の絵も、すべてが鮮明に残っていた。
──俺は、何を守っていたんだろう。
──あの子じゃない、誰でもない。守っていたのは、自分だった。
++++++++++++++++++++
チャコールが、テーブルの上で丸くなっていた。
その柔らかな毛並みを見ながら、亮はふと、自分の中の何かが崩れていく音を聞いた気がした。
それは壊れたというより、ようやく“手放せた”音だった。
カップの底に残ったコーヒーは、もう冷めていた。けれどその苦みは、今の亮にはちょうどよかった。
猫──チャコールは、いつの間にか姿を消していた。気づけば足元にはもういない。けれどそのぬくもりは、まだ膝に残っているような気がした。
マスターが、いつのまにかカウンターの向こうに戻っていた。
「……ありがとうございました」
亮がそう言うと、マスターはわずかに首を傾げて微笑んだ。
「こちらこそ。よい夜を」
その言葉に、なぜだか救われるような気がした。
会計を済ませ、亮は扉に手をかけた。雨はもう止んでいた。湿った夜気が外に満ちている。
ドアを押そうとしたそのとき、ふと、ポケットの中に何かが触れた。
取り出してみると、それは古びた鍵だった。小さな錆びついた鍵に、かつて子どもが描いたようなキャラクターのキーホルダーがついている。
──あの子が、最後にくれたものだ。
「先生、鍵がないと、いろんなとこ閉じ込められちゃいますよ」
そう言って、笑って渡してきた。
受け取ったものの、どうしていいかわからず、机の奥にしまい込んだままだった。それが、なぜ今、ここにあるのか。理由はわからない。ただ、確かに、手のひらの中にあった。
「……おかえり」
亮は小さく呟いた。
ドアを開けると、看板の上にチャコールがいた。いつの間に戻ったのか、相変わらずの鋭い目でこちらを見ていた。
「じゃあな。ありがとな」
誰にともなくそう言って、亮は歩き出した。足取りは、来たときよりも少しだけ軽かった。
──過去は変えられない。
──でも、それを手に持って、もう一度歩き出すことはできる。
心のどこかで、そんな言葉が灯っていた。
扉が閉まる音が、静かに店内を満たした。
ちりん──
鈴の音が遠ざかり、再び「月夜ノ猫亭」は静寂の中へと戻っていく。
カウンターの奥では、マスターがコーヒーカップを洗っていた。水の音が、淡く流れるように響いている。店内には猫たちが戻ってきて、椅子の上、棚の上、それぞれの定位置に丸くなっている。
チャコールは、入口の脇の小さなクッションの上で、ゆっくりとまばたきした。
マスターは、ふと引き出しを開けた。中には、小さな箱がある。
その箱の中に、亮の手に戻ったはずの鍵と、同じ型の古びた鍵が一つ、静かに収められていた。キーホルダーはついていないが、かつて誰かが長く持っていたことを示す、磨耗した金属の光。
マスターはそっとそれに触れ、静かに呟いた。
「鍵は、時々なくす。でも……大事なのは、また見つけに来られるかどうか、だよね」
チャコールが尻尾をふいと動かし、低く短く鳴いた。
まるで「そうだ」と言うように。
マスターは箱を閉じ、引き出しをゆっくりと押し戻す。どこにも属さないような静かな店の時間が、また一つ、夜を受け入れていく。
今日も、誰かの記憶がこの店に置かれていった。
忘れ去られず、責められず、ただ静かに受け入れられる場所に。
そして、またいつか誰かが、扉を開く。
月は、今夜も静かに、喫茶店の屋根を照らしていた。