砂糖ひと匙、涙ひとしずく
雨音が、夜の街を包んでいた。
佐伯美優は、傘を持っていなかった。朝は晴れていた。天気予報は降水確率10パーセントを告げていたし、駅から自宅まではほんの数分の距離。だから傘は、いらないと思っていた。
それなのに、なぜか今日は、足が勝手に違う道を選んでいた。
薄暗い路地の、湿った石畳を踏みしめながら、彼女はゆっくりと歩いていた。冷たい雨が髪を濡らし、コートの襟元から肌の奥へと染み込んでいく。身体は確かに冷えていたはずなのに、不思議と寒さは感じなかった。ただ、胸の奥にぽっかり空いた空洞が、雨のしずくでゆっくりと満たされていくような、そんな気がしていた。
──どうして、あの人はいなくなってしまったのだろう。
誰に問いかけるでもなく、彼女の中でその言葉が、波のように繰り返し打ち寄せていた。
そんなときだった。
ぼんやりとした灯りが、視界の隅に揺れた。
ひっそりと佇む古い建物。その軒先に、小さな看板が出ていた。くすんだ木板に、手描きの文字でこう書かれている。
「月夜ノ猫亭」
文字の上には、黒い猫が一匹、まるで店番でもしているかのように座っていた。ずぶ濡れのはずなのに、その毛並みは不思議と整っていて、金色の瞳が美優をじっと見つめている。
彼女は足を止めた。猫と目が合う。その瞳には、責めるような色も、誘うような色もなかった。ただ、静かに「ここに来るべきだった」とでも言うように、まっすぐに向けられていた。
扉の前に立ち、美優はそっとドアノブに手をかけた。冷たく湿った金属の感触が、指先から心臓に伝わるようだった。
ちりん──
鈴の音が、小さく鳴った。
店内には、深く落ち着いた空気が流れていた。温かな照明、古びた木の床、カウンターの向こうから立ちのぼるコーヒーの香り。静かなピアノの音が、古いレコードのノイズとともに空間を満たしている。何匹かの猫が、椅子の上や棚の上で気ままに眠っていた。
そして、カウンターの奥に一人、マスターが立っていた。
年齢も性別も判然としないその人は、黒のシャツにエプロンをまとい、穏やかな瞳で美優を見つめていた。無言のまま、一枚の白いタオルを手渡してくる。彼女がそれを受け取ると、ほんのわずかに口元が緩んだ。
「お好きな席へどうぞ」
その声は、どこまでも静かで、そしてどこまでもあたたかかった。雨の夜に灯されたランプのような声だった。
美優は、おずおずと奥の窓辺の席に歩み寄り、コートを脱ぎ、椅子に腰を下ろした。濡れた髪からしずくがぽたりと落ちる音さえ、今は心地よいリズムに思える。
扉の向こうでは、先ほどの黒猫が静かにこちらを見つめていた。
──まるでここが、世界の端にある避難所のようだった。
席についた美優は、マスターから受け取ったタオルで髪を押さえながら、ゆっくりと息を吐いた。湿った空気が胸の奥にまで染み込み、少しだけ肺が軽くなったような気がする。
目の前のテーブルには、小さなメニューカードが一枚、無造作に置かれている。手書きの文字で書かれたメニューは、決して多くはなかった。ブレンド、深煎り、紅茶、それに二、三のケーキとトースト。だがその字には、書いた人の丁寧な気配が滲んでいた。
「ご注文はお決まりですか?」
マスターの声が、テーブルの横から静かに届いた。
美優は思わず顔を上げる。その瞳は、やはり不思議な色をしていた。人間のそれとは少しだけ違う、けれど温かくて、奥深い。
「……ブレンドで。砂糖と、ミルクを、ください」
「かしこまりました」
ほんのわずかに頷いて、マスターはカウンターへと戻っていった。その後ろ姿を見送ると、美優の隣の椅子に、いつの間にか猫が座っていた。
ふさふさとした長毛の、グレーがかった白猫。ふっと彼女を見上げ、ゆっくりとまばたきをした。
「……あなたも、お客さん?」
小さくそうつぶやいて、美優は微笑んだ。猫は何も答えず、けれどまるで「そうだよ」と言うように、前足を揃えて座り直した。
カウンターでは、コーヒーを淹れる音が静かに響いていた。ポタ、ポタ、と抽出されるリズムが、まるで心拍のように一定で、心を落ち着かせる。
やがて運ばれてきたカップからは、柔らかな香りが立ちのぼる。琥珀色の液体に、ミルクを少しだけ注ぐと、ふわりとした雲が広がった。
「ごゆっくりどうぞ」
マスターはそれだけを告げて、また静かに歩いていく。猫たちの間を縫うように、音もなく。
美優はカップを両手で包む。温かさが掌に伝わってきて、なんとなくそれだけで、涙が出そうになった。
──あの人が、最後にくれた原稿。
──「これが、僕の最後の物語です」って。
あの夜を、思い出す。
窓の外では、まだ雨が降り続いていた。だが、その音さえも今は遠く、ただこの店の静けさが、彼女のまわりをやさしく包んでいた。
カップの縁に唇を寄せたとき、ふわりと漂う香りが、美優の記憶をどこか遠くへ連れていった。かすかに酸味のある、けれど後味の優しいその味は、あの人が淹れてくれた一杯と、どこか似ていた。
しばらくの沈黙のあと、マスターが静かに口を開いた。
「雨の夜には、いろいろな人が来ます。辛い、悲しい過去を抱えた人も多くきます……今日のあなたも、そのひとりですか?」
その問いは、不思議な力を持っていた。強制も誘導もしていないのに、心の蓋を、すっと外してしまうような。
美優は視線をカップに落としたまま、小さく頷いた。
「……担当していた作家さんが、突然、書かなくなってしまって」
言葉にしてしまうと、あまりにもありふれていて、まるで自分の痛みが矮小なものに思える。それでも彼女は続けた。
「連絡も、途絶えました。原稿は、それが最後だったみたいで。……出版社にも何も言わず、どこかへ行ってしまったんです」
猫が、ぴくりと耳を動かした。美優の隣に座っていた白猫は、まるでその話を知っているかのように、そっと尾を揺らしている。
「私は……編集者として、失格だったのかもしれません。もっと、支えられたんじゃないかって。もっと……あの人の言葉を守れたんじゃないかって」
声が震える。だが涙は、落ちない。
「彼の作品に出会って、私は生きる意味を見つけたんです。平凡で、目立たない学生だった私を救ってくれたのは、あの物語でした。だから……今度は私が、彼を支える番だって、ずっと思ってた。でも……」
マスターは何も言わなかった。ただ、ゆっくりとティーポットの蓋を開け、洗う仕草をしていた。だがその静けさが、美優には心地よかった。否定も、同情も、慰めもない。ただ「ここにいていい」と、空間全体がそう囁いているようだった。
「もう……どうしていいか、わからなくなって」
それが、本音だった。
仕事にも、日常にも、色がなくなった。朝起きても、何を食べても、何も感じない。あの人が最後に綴った言葉だけが、美優の中に遺されていた。
──「これが、僕の最後の物語です。君が読んでくれるなら、それでいい」
それは、遺書ではなかった。ただの一文、原稿の最後に添えられたメモ。だが美優にとっては、それが全てだった。
「それでも、私は読者だったんです。……彼の、たった一人の」
そのとき、白猫が小さく鳴いた。にゃあ、という声が、雨音に溶けていく。
マスターは、ふと手を止め、美優に問いかけた。
「その人の物語は、あなたの中で終わってしまいましたか?」
彼女は、はっと息を呑んだ。言葉が、喉の奥で震えていた。
マスターはそれ以上、何も言わなかった。ただ、再び静かにコーヒー豆を挽く音だけが響いていた。
++++++++++++++++++++
大学三年の春、美優はその作家の小説に出会った。
書店の片隅、文芸書の棚で平積みされていた一冊の文庫本。タイトルは「雨を聴く人」。装丁は地味だったが、不思議と目を引いた。ページを開いた瞬間、文字の粒がまるで耳元でささやくように語りかけてきた。
──「雨は、誰にも気づかれずに泣けるから好きなんだ」
たったその一文で、美優は胸を撃たれた。
それから彼の作品を追いかけるように読み耽り、やがて就職活動を経て、小さな文芸出版社に入社した。偶然にも、彼の連載を抱える編集部に配属されたのは、奇跡のようだった。
担当を任されたのは、入社二年目の春だった。
最初の打ち合わせの日。人気作家という前評判に反して、彼は物静かで、どこか所在なさげな雰囲気を纏っていた。
「……君が担当さん? 若いね」
「はい。でも、誰よりも、先生の作品が好きです」
そう言ったとき、彼はほんの少しだけ目を丸くした。それから、ゆっくりと笑った。
「そうか。……じゃあ、よろしくね。読者代表さん」
以来、美優は彼の原稿を一字一句逃さず読み、誤字すらも丁寧にチェックした。文体のリズムを壊さぬよう、推敲には慎重を極めた。彼の物語が少しでも多くの人に届くようにと、販促案にも力を注いだ。
「いつか、誰かの心を救うような、そんな物語を書きたいんだ」
コーヒーを飲みながら彼がそうつぶやいた日のことを、美優は今でも鮮明に思い出せる。
けれど──変化は、ある日、唐突に訪れた。
納品予定の原稿が、来なかった。
最初は体調不良かと思い、メールを送り、電話をかけた。だが、どこにも彼の気配はなかった。締切が一週、また一週と過ぎていく。編集部の中で、ささやかれ始める声──「燃え尽きたんじゃないか」「もう書く気がないんだろう」
そして、一通の封書が届いた。差出人はなかったが、封の中には原稿用紙と、メモが一枚だけ入っていた。
──「これが、僕の最後の物語です。君が読んでくれるなら、それでいい」
タイトルも、日付もない原稿。物語は淡々と綴られ、最後のページで、ただ静かに終わっていた。
美優はそれを抱きしめて、机に顔を伏せて泣いた。
彼が消えた理由は、今でもわからない。ただ、あの言葉だけが今も胸に残っていた。
──「君が読んでくれるなら、それでいい」
++++++++++++++++++++
それは、美優にとって、祈りのような言葉だった。
けれど、その祈りにどう応えればよいのか、彼女は今もわからずにいた。
カップの底に残った、わずかなコーヒーが琥珀色に揺れている。
美優はそれを見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。肩にかかっていた見えない重みが、少しだけほどけた気がした。
気がつけば、白猫はいつの間にか彼女の足元に移動していた。前足を揃えてじっと座り、まるで「もう行く時間だ」と告げているかのように、美優を見上げていた。
彼女は静かに席を立ち、レジの前でマスターに向き直る。
「……ごちそうさまでした」
「お口に合いましたか?」
その問いに、美優は小さく頷いた。
「とても。……あの人が好きだった味と、よく似ていました」
マスターは何も言わなかった。ただ、やわらかく目を細め、深くお辞儀をした。
会計を終え、扉に手をかけたとき、美優はふとポケットに違和感を覚えた。指先が紙の感触をとらえる。
取り出すと、それは一枚の小さな栞だった。厚紙に、淡いインクで猫のシルエットが描かれている。そしてその裏には、見覚えのある筆跡で、短い言葉が記されていた。
──「ちゃんと見届けてくれて、ありがとう」
彼女の手が、かすかに震えた。
インクのにじみが、ほんの少し、涙のようにも見えた。
それが誰の手によって挟まれたのか、美優にはわからない。けれど、確かにそこには、あの人の気配があった。
背後では、白猫が静かに鳴いた。
にゃあ。
その声に背中を押されるように、美優はもう一度、小さく頭を下げ、扉を開けた。
雨は止んでいた。濡れた石畳に、街灯の灯りがぼんやりと映っている。
振り返ると、黒猫がまた看板の上に座っていた。さっきと変わらぬ姿で、ただ静かに、彼女を見送っている。
「……また来ます」
誰にともなくそう告げて、美優は歩き出した。夜の静けさが、今はやさしく感じられる。
──その背中には、小さな灯りが、ともっていた。
扉が閉まる音が、静かに店内に響いた。
鈴の音が、ひときわ澄んでいた。
マスターはカウンターの奥で、使い終えたカップを丁寧に洗っていた。シンクに流れる水音が、まるで雨音のようにやさしく耳をくすぐる。
足元にいた白猫が、するりと跳ねて棚の上へ登る。その上では、いつの間にか三匹の猫が丸くなって眠っていた。灰色、三毛、そして黒。まるでそれぞれが、今日という夜の記憶をそっと抱いているかのように。
マスターは手を止め、窓辺の空いた席に視線を向けた。そこに、ついさっきまで誰かがいた気配が、まだ残っている。
「“読む”ということは、“受け取る”ということ。そして、“受け継ぐ”ということでもある」
そう呟いたその声には、誰にともなく語りかける静けさがあった。
マスターは背筋を伸ばし、ふと天井を仰いだ。
古い建物の天井越しに、月の光がほんのわずか差し込んでいる。その光に照らされて、黒猫の瞳がふっと輝いた。
「今日も、良い夜だったね」
マスターの言葉に応えるように、黒猫は一度だけ瞬きをした。
猫の尻尾が静かに揺れる。
そのとき、誰もいないはずのテーブルの下で、かすかな光が転がった。
マスターはしゃがみこみ、指先でそれを拾い上げた。
小さな青いビー玉。月の光を受けて淡く輝いている。それはまるで、ひとしずくの涙が硬質になったようでもあり、あるいは、忘れられた誰かの記憶が形をとったもののようでもあった。
マスターはしばらくそれを見つめていたが、やがてゆっくりと引き出しを開け、中へとそっとしまった。
「今日も、良い夜だったね」
その言葉に応えるように、黒猫が一度だけ瞬きをした。
夜は静かに深まり、窓の外では風も雨も、今はただの静けさになっていた。
月夜ノ猫亭は、またひとつ、物語を受け取った。
そしてそれは、いつかまた、誰かを照らす灯となるのだろう。