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2.交流




「ベイル伯爵家が娘ティビュアナ、ただ今まかり越してございます」


 初の邂逅(かいこう)から一ヶ月後。

 正式に婚約が成立したことで入城の許可を得たティビュアナが、王弟ビストルメイの離宮を訪ねていた。


「うむ、よくぞ来た。

 仕立てが間に合ったようで何よりだ」

「殿下の過分なるご配慮の賜物です」

「中々着こなせているんじゃないか。

 まあ、まずは生活拠点となるこのロウズ宮を一通り案内しよう」


 無粋にも多くの貴族的やり取りを省略して、婚約者となった令嬢へ自身の太い腕を差し出す野獣。

 彼が性急な(タチ)であることは既に察しているし、特にそれを不満に思ってもいなかったので、ティビュアナは獣の不作法をあっさり無かったことにした。


「あら、殿下御自らでごさいますか?」


 そう戸惑いつつも、彼女は王弟に誘われるまま手を伸ばして、エスコートの形に収まっていく。


「そのつもりだが、何か問題が?

 ……ああ、男に尋ね辛い女の事情やらがあるなら、今からでも適当な侍女を手配してやれるが」


 姿勢が整ったとはいえ、会話が続いているので、さしもの野獣もすぐに歩き出すことはしなかったようだ。


「いえ、殿下。それには及びません。

 その……女性の事情については、本日すぐでなくとも十分間に合いますから。

 お忙しい身の上と聞き及んでおりましたので、付き添いいただけることに少々驚いてしまっただけなのです」


 国の常識からすれば、令嬢の感覚が正しい。

 案内などというものは基本、召使い等々の仕事だ。

 最初の挨拶さえ済めば、屋敷の主人はそれが終わるまで休憩するなり執務に励むなり、好きに過ごしている。

 事前に伝えられた予定には入っていなかったし、王弟は特に軍のトップであることから、そちらを優先するものだろうと、一般的貴族女性として教育を受けてきた彼女がそう考えたのは極めて自然なことだった。


 何も悪くないティビュアナが勘違いでしたと気恥ずかしげに苦笑すると、元凶の野獣は興味を失ったように正面を向く。


「なんだ、そんなことか。

 なに、雇われの立場では語るに(はばか)られる内情もあろうかと思ってな」

「え?」


 不穏な呟きを拾って令嬢が王弟を見上げるが、しかし、彼が婚約者にその意図を示すことはなかった。


「とにかく進もう。この宮は広い」

「はい。どうぞ宜しくお願いいたします」


 野獣によるナワバリツアーの開幕である。



 とはいえ、特筆すべきような出来事は殆どない。

 当然のように隠し通路を教えられそうになって、せめて結婚後にして欲しいと令嬢が自称合理主義者の愚行を押し止めたくらいだろう。


 他にあるとすれば、一つ。


「すでに察しているかもしれんが、寝室は完全に分けさせてもらう。

 そもそも子を成せるような体格差ではないし、寝ぼけて殺してしまう可能性もあるからな。

 爪で裂いたり、牙で噛んだり、掴み折ったり、ともすれば上に転がるだけで圧死するかもしれん」


 貴族夫婦は、互いの部屋から直接行き来ができる共有の寝室を用意するのが建国古来よりの常識だ。

 そこに入る寝台は無論一つである。

 よって、どんな屋敷にも、もちろん王宮にも、そうした造りの部屋が元より存在した。


 今回の王弟の宣言は、一般的なご令嬢であれば花嫁への最大級の侮辱として、その場で憤死かショック死でもしかねない、とんでもないものである。

 が、相手は八十余年を生きた前世を持つ人生の大ベテランであったし、彼女当人としても納得のいく理由であったので、此度の定石破りは悶着もなくただ寛容に受け入れられて終わった。


「確かにそうですね。

 では、本来夫婦の寝室となるべき部屋は寝台を除けて共有の居間にしてしまいましょう。

 夜に限らず、夫婦として共に寛げる空間があるのは悪いことではありませんから」

「……そうか。では、任せる」

「はい。任されました」


 何も疑うことなく、朗らかに笑うティビュアナ。


 物理的距離が近くなれば、それだけ情も湧きやすくなる。

 そうして男女の間に湧いたものが恋情でない保証はどこにもない。

 起き伏しを共にする場合のリスクは殊更(ことさら)高過ぎる。


 そんな理屈を根とした自身への怖れを、ビストルメイは婚約者に隠し通した。

 そう、全ては彼が『気を抜かねば済む話』であったから。




 離宮内を歩き回るついでに、主な使用人や部下、教師陣との顔合わせを済ませて、二人は今、いくつかある応接室の一つで腰を落ち着け、くつろいでいる。

 広大な宮の全てを巡れたわけではないが、本気でそれを遂げようとすると数日では済まない時を要するため、基本的に令嬢の生活圏となるであろう範囲の中で更にメインに近い施設だけを紹介されていた。


「殿下。少々伺ってよろしいでしょうか」


 紅茶を半分ほど消費したところで、ティビュアナがテーブルを挟んで向かい側、本来二人掛けのはずの椅子の座面全域を占領している巨躯なる野獣に声をかける。


「構わんぞ」


 抑揚に頷く王弟だが、どうやら甘いものはそう好まないようで、茶請けの菓子には一切手をつけていない。


「ありがとう存じます。

 実は、王城に宛てた書き物の(たぐい)は中身まで全て検閲が入る、という話を耳にしまして……。

 (わたくし)、現在進行形で複数の相談事を請け負っているものですから、皆様の手紙の扱いがどうなるものかと心配で」

「ああ。要は、そのやり取りの内容が他者に漏れては困ると」

「はい」


 圧倒的朗らか老女オーラがそうさせるのか、特に優秀な頭脳も権力も財力も、突出したものは何も持たない伯爵令嬢を相手に、内密の話を持ち込む人間が後を絶たない。

 必ずしも解決はしないのだが、とにかく親身になって対応してくれるということで、心が軽くなった勇気が出たなど、相談者の満足度は高く、リピーターも少なくないようだった。

 中には、とても表に出せない国家レベルの暴露もあり、そうした手紙が第三者の目に触れてしまえば誇張なく大騒動になりかねない。

 そうでなくとも彼女という人間を信頼しているからこその相談なのであり、事の大小に関係なく、検閲に回されるなど(もっ)ての(ほか)だった。


「残念だが……城壁内に建つこのロウズ宮に宛てた物も、取り調べの対象に含まれる」

「やはり、そうなりますのね」


 野獣の回答を受け、悩ましげに頬に手を添えるティビュアナ。

 そんな彼女の様子に、王弟がふむと左の肉球群で自身の顎を揉んだ。


「とはいえ、式はまだ一年以上先だ。

 まず、婚約期間中に相談者へ事実を周知するのは必然として」

「はい」

「あとは各々に選ばせれば良いのではないか」

「選ばせる、でございますか? いったい何から?」

「早急に話を収束させるか、検閲上等で送って来るか、いっそ手紙ではなく直に話す時を作るか、どれも無理なら諦めてもらうか。

 かなり効率は悪いが伯爵家に届けさせて、定期的に貴女がそこで返信作業をするという方法もある」

「なるほど……参考になりますわ」


 微笑む伯爵令嬢。

 ただ検閲の有無を尋ねただけのつもりが、無知な小娘を気遣いその先の回答まで提示してくれるあたり、やはり優しい人なのだなと、こっそり胸の内を温かくさせるティビュアナであった。




 そこから、更に数時間後。

 無事に本日のスケジュールをこなして、再び離宮エントランスへと戻ってきた一人と一匹。


「初回ということで予定を調整したが、今後の付き添いは稀だと思ってくれ。

 悪いが、俺にも職務があるのでな」

「はい、承知しております」


 最低でも週に二度、多くて四度ほどのペースで通わなければならないのだ。

 むしろ、毎回同席すると言われた方が恐縮なので、伯爵令嬢もそこは素直に頷いた。


「次回以降の訪問時、俺に連絡が取りたければ執事長へ言付けを。

 よほど火急の要件であれば、専用の魔文を数枚預けておくから、ソレを使え」

「まあ、貴重な魔文を……ご配慮、痛み入ります」


 ここでいう魔文とは、対となる二枚の用紙の片方に文字なり書きつけ付属の魔封石を起動させれば、もう片方に全く同じ文章が浮かび上がるといった仕様の、技術と手間と時間と貴重な素材とお金を大層かけて作られる魔道具である。

 そもそも、魔法を使えるのは魔女のような特定の種族のみで、人間はそれに当てはまらない。

 だが、(しか)と実在する力であるなら利用できない道理はないと、研究に研究を重ね、その過程で魔力を吸収する特殊な希少鉱石の存在を発見、魔吸石と名付け更に研究を続けていたが数の少なさにより難航、それでもたゆまぬ努力を続け、近年になってようやく(つたな)いながら実用化に成功したものなのだ。

 つまり、王族に次ぐ権力を持つ公爵家でさえ、虎の子として数枚所持しているか否かというぐらいの真の貴重品なのである。

 まだ婚約段階の令嬢に気軽に使わせて良いような代物ではないし、ティビュアナ自身それを理解していたが、彼女の相手は王族であり、ならば国の行く末に関わる喫緊(きっきん)の状況が発生しないとも限らないと、万一を想定して受け取ることとした。


「……殿下。例えば、の話なのですが」

「うん?」

「この先、(わたくし)が明確な理由なく、そうですね、妙に心細いから、今回限りのワガママだから、などと言って殿下のお越しを強く望んだとして……それを伝えられた殿下はどの様な結論をお出しになりますか」


 気軽に魔文まで差し出す王弟に、ティビュアナは少しだけ怖くなった。

 この優しい人が、どこまで自分に甘いのかを。

 何も求めずにいてさえ、先んじてアレコレと便宜を図ろうとする男だ。

 もし、令嬢が立場を(わきま)えず増長した時、彼が一体どこまで許容しようとするのか、その底が予想できずに彼女は身震いした。


 そんな恐怖から来る質問に、野獣は訝しげに首を傾げながらも即答する。


「そんなもの、状況による。

 基本的には叶えてやるが、総司令の役職にしろ、王族の血筋にしろ、英雄の称号にしろ、どうしても俺の存在が必要な場面というのは有り得るし、それを無視することは出来ん」


 迷いない彼の答えに、令嬢は心の内で大きく安堵の息を吐き出した。

 王弟は情け深い性格だが、だからといって、それに溺れて自身の責務を忘れることはないようだ、と。

 とはいえ、『基本的に叶える』つもりの辺り、かなり危険域にいるようで、若干の不安も拭い切れないティビュアナである。


「女の()(ごと)だと、くだらないと、一蹴はなさらないのですね」


 が、それも彼女が苦笑しながら零した感想に、想定外すぎる方向の肯定が返ってくるまでの話だ。


「他ならぬ貴女がそう乞うてくるなら、俺は余程のことと判断する」

「え」

「とはいえ、あまり高頻度に繰り返されれば分からんがな。

 ……こんな答えで満足か?」


 いずれ身内となる令嬢だから、婚約している立場にある女性だから、無条件で甘やかしているのではない。

 相手がティビュアナだからこそ、彼女の人間性を信じているからこそ、彼は望みを叶えようとしているのだ。

 それを理解して、彼女の心臓は大きく跳ねた。


「はい……はい、十分です。

 益のない世迷言(よまいごと)にお付き合いいただき、感謝いたします」

「いや、構わない。

 俺には分からんが、貴女には何か重要な質問だったのだろう。

 そんな顔をしていたからな」


 そして、今なお激しく鼓動している。

 愛を(かたく)なに拒絶する、呪われし野獣を相手に……。




~~~~~




 時は飛んで、半年後。


 侍女Aの話。

【恋人からの贈り物を破損し落ち込んでいたところ、ティビュアナ様に良い修理屋を教えていただきました。それ自体も大変感謝しているのですが、平気なフリで隠していたのに、ティビュアナ様だけが気付いて下さって、そのことが何よりも嬉しかったのです】


 兵士Bの話。

【警護の職務に励んでいると、いつも労いの言葉を掛けて下さいます。稀に偉い凄いと金平糖をくださるのですが、その際どうも地元の母を思い出してしまって、妙に面映ゆくて。良い方です、とても】


 庭師Cの話。

此方(こなた)の技術を披露いたしますとですね、いたく感激した様子で、魔法の指だ、素敵だとおっしゃって下さるのです。そして、沢山の努力をしたのだろうと、国の宝だと褒めて下さるのです。こんなに尽くしがいのある御方はそうはおりません】


 使用人Dの話。

【我々が何か粗相をした時、ティビュアナ様は叱責するよりもまず身を案じて下さいます。それが、躾だ罰だと手酷い扱いを受けるより、余程、懸命に挽回したくなるものだと、私、初めて知りました。早く正式にあの(かた)にお仕えしたいものですね】


 教師Eの話。

【ティビュアナ様ですか。覚えが早いとはお世辞にも言えませんが、学ぶことに意欲的な良い生徒ですよ。何事も真剣に取り組んでいらっしゃいます。それで、上手くいけば素直に喜んで、その度に先生のお陰ですと感謝して下さって……。いやはや、そんな様子ですから、こちらもつい頼まれた枠を越えてアレもコレもと教えたくなってしまいましてねぇ】


「宮での評判は上々のようだぞ、ティビュアナ」


 数日前にひたすら婚約者についての賛辞ばかりが続く報告書を読まされ、辟易するより何故か笑いが止まらなくなってしまった王弟である。


「まあ、そうなのですか?

 けれど、(わたくし)、これといって特別なことをした覚えもございませんが」


 ティビュアナが定期的に離宮に通っている中、野獣もその身を気遣ってか、最低でも月に一度は顔を出そうと立ち回っているようだった。

 長年の二国戦争に決着がついて未だ間もなく、国内の治安状況には多くの懸念が残っている。

 そんなアルヴァティオンの軍の最上位に君臨するビストルメイが、よもや暇な立場にあろうはずもない。

 月一度とて相当に無理をした頻度なのだが、ただ、あまりそうした内情に詳しくない侍女や使用人などからは、少なすぎると不満を抱かれることもあるらしい。

 当の令嬢が十分満足しているのにソレなのだから、好感度が高過ぎるのも良し悪しである。


「貴女にとってはそうなのかもな。

 常にこの調子なら、問題貴族を幾人と更生させてきた、などという眉唾な話にも頷ける」

「問題貴族だなんて……悪意ある言い方はお止し下さい。

 更生も何も、そもそも、いい子しかおりませんでした」


 野獣から振られた雑談で、珍しくムッと不満を露わにするティビュアナ。

 彼女は自身のことでは滅多に怒らないが、他者が貶された際の沸点がかなり低いのだ。

 とはいえ、その怒りもそう持続するものではないのだが。


「いい子……? 大多数が貴女より年上だったはずだが」


 王弟の零した小さな疑問は、少々拗ね気味の元老婆からあっけなく無かったものと流された。


(わたくし)に可能な手助けなど、ほんの少しでございます。

 勇気の出ない子の背を、ほんの少ぉし、押してあげるだとか。

 暗闇をさまよう子に、ほんの少ぉし、道の在処を示してあげるだとか。

 泣いている子を、ほんの少ぉし、抱きしめてあげるだとか。

 たった、それだけ。

 その先は、全て本人の資質と努力によるものでございましょう」


 過去に関わってきた誰か達を想って、誇らしそうにティビュアナが笑う。


「いや。そう思っているのは、きっと貴女だけだろう?」


 呆れた表情で野獣は肩を竦めた。

 他者の悩みに踏み込み転機を与えることがどれだけ至難の業か、彼はよくよく理解しているのだ。

 助力を受けた当人たちも、事実を知る第三者も、彼女の発言を聞けばとんだ過小評価だと憤るだろう。


「かもしれません。とてもいい子たちでしたからねえ。

 私が過分な感謝だと告げても、皆、揃って首を横に振るばかりでしたわ」


 まるで、困った子たちだとでも言いたげに、眉尻を下げて微笑(びしょう)する令嬢。


「ティビュアナ、わざと(とぼ)けているな。

 自己の評価を低く見積もりすぎると、いざという時、周囲を(わずら)わせるぞ」


 鋭い爪を椅子の肘掛けにカツカツと落としながら、王弟は告げた。

 世間一般的な評価と自己評価の乖離が大きければ、必要な行動のすり合わせすら難しい。

 重要人物が自身の価値を低く見積もった結果、不用心に単独で外出し誘拐される、など、その最たるものだろう。


「ご忠告はありがたく……。

 けれど、あの子たちの頑張りを己の功績と誇るなど、あまりに浅ましい行いではございませんか」


 ティビュアナは正確に第三者評を把握し尊重した上で、それでも常に慎ましくありたいと願い、そう振舞っていた。

 己の世間的価値自体は理解しているゆえに、基本的に彼女が迂闊(うかつ)な言動に走ることはない……のだが、王弟はその小さな願いすら改めろと(いさ)めているのである。


「貴女の感情は理解せぬでもないがな。

 謙虚清廉を旨とするだけでは、国を率いる王族という種族は務まらんのだ。

 足を踏み入れた以上、浅ましいなどと言わず、利用できる物は何でも利用する心積もりでいろ。

 そうせざるを得ない場面に、いつか必ず遭遇する」

「殿下……」


 深い実感の伴う声色に、令嬢は返す言葉を失った。

 そして、このままではいけないと、変わらなければという思いを、強く心に抱いた。


 彼の持つ重荷を、彼の隣で共に背負ってやれるように……。


「それと、以前から思っていたが、あまり自ら年寄りぶるな。

 芸で披露していた二重人格が、いつか本物と変わることもあると聞く」


 そこまで言って、野獣は椅子から巨体を離す。

 さらに二人を隔てる円形のテーブルを三歩で超えて、おもむろにティビュアナの足元に跪き、腿の上で揃えられた彼女の手に自身のそれを被せて覆った。


「で、殿下、なにを?」

「真の意味で記憶に飲まれる時が来ないとも限らん、貴女はもっと常日頃から己の若さを自覚しろ」


 膝を床についてすら、未だ令嬢よりも僅かに高い視線。

 しかし、常よりは何倍も近い。

 令嬢の瞳をほぼ正面に捉える彼の眼差しは、ただただ真剣な光を携えていた。


 どくり、どくり、とティビュアナの心臓が音を立てて駆ける。

 とんでもない気恥ずかしさが彼女を襲ったが、けれど、獣から目を逸らすことはできなかった。


「そ、その、ご心配をお掛けしております」

「まあ、していないと言えば嘘にはなるな」


 牙が口に収まれば、室内に静寂が訪れ……どこか熱のある緊張が二人の身を包んだ。


 が、特に何かが起こるということもなく、やがて、柱時計を確認したビストルメイは「時間だ」と告げ、あっさりと部屋から立ち去ってしまう。


 独り残されたティビュアナは、頬の赤みを持て余しつつも、彼の消えた扉を眩しげに眺め続けていた。


「……(わたくし)を叱って下さるのは、貴方様ぐらいです」


 広い応接室の中に、乙女の囁きが零れ落ちる。

 間もなく、それは誰に届くことなく、(くう)(ほぐ)れて儚く溶けた。





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