“小さき英雄”
巨大な熊の咆哮は、耳が引き裂かれるようなけたたましい叫び。耳を閉じたくなる。
誰かを恨むような怨嗟の想いが籠もった怒声。
そんな悲痛の叫びにも聞こえた。
巨大な熊の懐に入り込もうとはせず、ひたすらに距離を稼ぎながら、こちらに意識を向けさせようと試みる。
「おい、こっちだッ! こっちまで来てみろッ!」
巨大な熊はこちらに咆哮を浴びせたが、それよりも弱った獣を狩りに行くかのように、ハイクとドーファンがいる方へと向きを変え、その巨大な身体を前に動かす。
それはまるで、知性を有しているように思えた。
動かしたと思ったのも束の間。
二足歩行から四足歩行へと体勢を変え、熊の動きとは思えないスピードで走り始めた。
熊は時速六十kmで走ると読んだことがある。
…急いで追わなきゃハイクとドーファンが危ないッ!
懸命に走り続けた。追いかけて行くと、次第に息が上がってきた。
…このままの状態で戦いになるのか。そんな不安が頭を過ぎる。
息も絶え絶えの状態で、万全とも言えないような身体で立ち向かえる相手なのか。
そして、何より。僕の魔法は、誰かを守ることが出来るのだろうか……。
その尽きない不安が、僕の手に握る槍をより一層…普段よりも強く握りしめていた。
覚悟を決めたけど自信がない。
握りしめている武器に頼りたくなっている。
「ヒヒーンッ! ヒヒーンッ!!!」
アルの悲鳴が森中を駆け巡った。…あっちかッ!
だが、目の前の巨大な熊の方がアルの嘶きに早く反応し、方向をより正確な方へ変えながら走り出した。
……間に合えっ! 間に合ってくれッ!
僕の足はすでに悲鳴を上げていた。
普段から鍛えていても、遥かに速いあの敏捷な熊には追いつけない。
…せめて、二人の危機を足止め出来るタイミングに間に合えばッ!
「ウガアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!!」
再び大きな咆哮が森の中でこだまする。
遂に標的を捉えたと歓喜のあまりに叫んでいるように。
やっとの思いで辿り着いた先に待っていたのは、生き物としてとんでもない程の圧倒的な差があるにもかかわらず、自分の主人を凶悪な敵から懸命に守ろうとするアルの姿があった。
アルの後ろに二人がいて木の下に横たわっていた。
木にぶつかったことで、ようやく味わいたくもない慣性の法則から解放されたようだった。
今にも二人に襲い掛かろうとしている巨大な熊。
何ものをも切り裂く手を振り上げる。
その勢いのまま、明らかに弱者の存在であるアルとその後ろに控えている、ハイクとドーファンを巻き込みながら、背後に控える木に全ての力を叩きつけようとしていた。
…ッさせないっ!
「はぁぁぁぁぁっ!!!」
……ッグサッ!
魔法の詠唱をする暇もないと判断して、巨大な熊の足に槍を突き刺す。
少しは痛みとして効いてくれているだろうか。
…僅かな望みを胸に、上を見上げる。
「ウガァ……」
……しかし、現実はままならない。
何かあったのかという目で、自身の足元にいる小さき存在を目にした。
視線を交わす。それが引き金となった。
その目の色を怒りという感情が染め上げるのにそう時間はかからなかった。
…ッドゴォォォォォォォォォォンッ!!!
……僕の身体は宙を飛んだ
身体は自然の摂理のまま、力が加えられた方向へと誘われる。
同時に身体の内側にまで強烈な衝撃が伝わり、筋肉を破壊し、骨が砕け、臓器を損傷させ、身体は絶叫の悲鳴をあげながら、勢いのままに飛ばされる。
あっという間に身体は近くの木にぶつかり、それは奇しくもハイク達がぶつかった木だった。
…グハァァァッ!!!
先程くらった痛みを押し上げるように、木にぶつかった衝撃で血反吐を吐きながら地面に落ちる。
地面に落ちた際の三回目の衝撃は、今までの衝撃に比べれば軽いものだった。
…だけど、その衝撃は僕の意志を砕くのに充分過ぎた。
………意識は、微かにあった。目の前が霞む。
次第に意識を取り戻す。だが、その目に映る景色は紅で染まっていた。
血……なのかな。どうやら頭からも出血をしているようだ。
身体は………どうやら…………もう動かないみたいだ。
瀕死の重傷を負っていた。
頭が回らない。
巨大な化け物が少しずつ、少しずつ近づいて来た。
最後の狩りの瞬間を楽しむ、そんな強者の下卑た笑みは、魔物も人間も変わらないらしい………。
……あぁ、ここで僕も終わりか。呆気ない最後だった。
情けない。僕の生涯はまた後悔を抱いたまま終えてしまう。
でも、ここまでよくやった。今度こそ、自分の死に意味を付すことが出来たはずだ………。
誰かを救おうと、誰かを守ろうと、そうしようと頑張った…………。
神がいるのなら、よくやったと言ってくれるだろう…………。
いいや……。
そうじゃない……。
違うだろ……………。
「……カ…イ………聞こえ……ます……か………」
それは、弱々しくも何とか言葉を振り絞ったドーファンの呟き。
「……う……ん………」
何とか、声が出てくれた。
もう、ハイクもドーファンも、誰も立ち上がれないようだ。
「……ボク……達の……ために……すみません……来てくれて………ありが………とう…」
「な…にも……出来な……がった……ごめん……ね……」
そう、本当に何も出来なかった。何も……
「いえ……最後に………友と……話せて………嬉しい…………………ボクが…………願って………やまなかった……最後の……時だ…」
願って…やまなかった……。
君は…一体…………。
「………あぁ………だけど……叶うならば………彼に…………謝りたかった………ずっと…ずっと……ただ………それだけを…………願っていた…………会いたい……」
そんな…小さな少年の呟きを…………僕は聞いてしまった。
届いてしまった………君の想いが。
触れてしまった……君の想いを。
「諦めちゃ……だめ……だ」
ここで諦められたら……どんなに楽か…。
「………………えっ…………」
だけど……まだ…何も………救えていない………守ることも……出来てない。
「最後…まで……諦めちゃ………だめだ」
そうだ………。諦めちゃだめだ。
「……立ち……上がるん……だ」
“立ち上がれ”
「立ち……向かえ」
“敵へ”
「奮い…立て」
“想いよ”
「進め」
“前へっ!”
「救えっ」
“大切な仲間をっ!”
「守れっ!」
“その想いをっ!“
「生きろっ!!」
“小さき英雄よっ!!”
その時、信じられないことが起きた。
致命傷を負っていた。
二度と立ち上がれないほどの痛みを抱えた、誰よりも弱き少年が立ち上がった。
───勇気が絶望を凌駕する。人はそれを、奇跡と呼ぶのだろう───
身体中の魔力が全身を巡る。
動かなくなっていた身体を無理矢理に動かすように、魔力が活力となって、全ての細胞を活性化させる。
薄く金色に輝く膜が全身を覆う。
だが、それが著しく損耗してしまった身体へのダメージを、癒すものではない。
目の前に迫った敵に立ち向かうだけの力を取り戻す。
しかし、それが場の空気を変えた。
カイを虫ケラのように扱っていた巨大な熊が、明確な敵意を示す。
動物的な直感で、侮れない敵だと認識したのだろう。
警戒の色が濃い瞳に映るのは、ほんの小さき英雄。
それでも、紛れもない”英雄“たる姿。
逆境に立ち向かおうとする英雄は想いを紡ぐ。
「ドーファン。聞こえるかい」
まだ意識はあるだろうか。
「………カ……イ……」
良かった。まだ息はある。かろうじて目も開いている。何とかなりそうだ。
「ドーファン。君は何としてでも、生き残らなければならない」
「……何を………言って………」
「ドーファンの想いが僕にも届いた。…だけど、君にはそれを届けなきゃいけない人がいる」
「…君には守るべき想いがあるッ!」
「届けなきゃいけない想いがあるッ!」
「紡がなきゃいけない想いがあるッ!!」
「嘆くのも絶望するのもまだ早い。最後の最後まで…僕は抗うッ!!」
「僕は君を、みんなの事を守るッ!!!」
「…ッヴガアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!!」
辺りに轟く咆哮が周囲の木々を揺らす。
恐らく、相手の力量を考えるに…外してしまったら今度こそお終いだ。
機会は一度だけ。
もし、神がいるのなら。
もしも、神がこの状況を救ってくれるのなら。
祈ろう。
ありったけの想いを込めて。
前の世界で知った、あの古き本で読んだことがある所作で祈りを構えた。
心からの祈りを表すとされる、かつて、神と共にあったとされる伝説の民達。
…祈りとは心からのもの。
なら、この構えから精一杯の想いを伝えるッ!
「我が神よッ! 我が祈りを聞き届け、大いなる祝福を与え給えッ! …御身に捧げるは我が想い。我が心。我らの絆。愛する者達を癒す聖なる力をッ! 悪しき者を退ける力を我が手にッ!!」
神に奉納された想いと魔力は天に昇っていくが、やはりキラキラと弾け飛ぶ。
しかし、それは普段のキラキラと弾け飛ぶようなものではなく、周囲一体を覆う程の魔力が広がり、身体を覆う魔力が、今まで感じたことがないくらいに強力になっていく。
ハイクとドーファンの傷も、僕が負っていた傷や身体の痛みも、みるみるうちに癒されていく。
そして、その魔力は瘴気をも払いのけ、周囲の瘴気が消えていく。
生気を失っていた木々の葉は、美しく生い茂る。
「…………これは、一体」
ドーファンが驚愕した顔で辺りを見回しながら、自分の身体に手を当てていく。
身体の傷や違和感がないかを調べているようだ。
「カイッ!」
巨大な熊の後ろから声が聞こえた。
僕達のことを追ってきたイレーネの声だった。
…もう失敗は許される状況じゃなくなった。
もし、失敗してしまったら僕達は全員、見るも無残な姿になってしまうだろう。
だけど…そんなことさせないッ!
父さんとも母さんとも約束したはずだ。
イレーネとハイクのことを守り、助け合えるようになれるぐらいに、強くなってみせるッ!
僕は二度と、自分の家族を失うようなことはしないッ!
二人の残してくれた想いを紡いでいく、紡ぎ続けていくッ!
僕は…みんなを守るッ!!
…全神経を集中させる。
父さんと母さんを敵から救おうとした時に使った魔法を、もう一度唱える。
今度こそ…失敗はしない。
目の前の敵を見据えながら、魔法の詠唱に勝利と願いを込めたッ!
「火の精霊よ。我が願いを聞き届け、我が敵を燃やし貫け!『火槍』っ!!」
僕の目前にはしっかりと魔法陣が形成され、その魔法陣から火焔が、聖騎士の持つ槍のような形のまま巨大な熊に襲い掛かる。
…だが、もうどうしようもない。避けようがなかった。
その全てを貫き通し、全てを飲み込む火焔は避けようがない速度で巨大な熊に向かっていたから。
誇りだった長い腕から繰り出す掌を、空に向かって振り下ろす。黒い爪から放たれる斬撃波がその巨大な熊の切り札だった。
出したくもない切り札をきった。生涯それを使った事はなかった。本当の奥の手だったから。
だが、その奥の手も虚しく、火焔は斬撃波などものともせず、巨大な熊にその先端が突き刺さる。
「ヴガアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!!」
全ての弱者を飲み込んできた胃袋に穴が空く。
そしてその穴は、徐々に大きくなりながら、腹、心臓、胸部へと至り、その最後の断末魔は聞いた者の耳を殺すような音圧だった。
「ヴガアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!! ヴガアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァッ!!! ヴガァァァァァァ!! ウガァァァァ……………」
叫ぶ喉も、叫ぶための口も、獲物を砕く歯も、次第に業火に飲まれていった。
絶叫が小さくなる頃には、自身の思考を司る脳も炎が焼き尽くした。
獰猛な魔物は貪り喰う側だった。己が喰われる側に回ることなど考えにも及ばなかったに違いない。
…もう、二度と何も考えられない塵となって空を舞う。
火焔の魔法が通った後には、初めからそんな存在などが無かったように、巨大な熊の身体はこの世界から消滅していた。
そして、その魔法が放たれた後、とある少年の放った言葉が辺りに響き渡る。
「…古代魔法……古の言葉…」




